最終話

 柊牙とはロビーで別れた。

 せっかく着替えを持ってきたので、このまま大浴場に行くらしい。柄にもなく真剣な話をしたから肩が凝った、と笑いながら話していた。

 食べ物を買ってくるという約束を思い出して売店に入ったが、棚に並ぶ土産物を見ていても、白々とした骨が重石をつけられて透きとおった水に沈んでいく映像がくり返し頭に浮かんできて、全く買い物に集中出来なかった。

 結局、どこにでもあるようなカップヌードルを二つ買って部屋に戻る。

(書庫のどこかに下顎の骨があるというのは、柊牙が昔話と結びつけて連想しただけだ)

 そう自分に言い聞かせても、すすのついた手で背中の見えない所を触られたように、ずっと胸がざわついた。


 縞狩高原で過ごした雨の夜。

 暗がりで出会った対照的な兄妹の姿を思い出す。

 利玖は、誰もいない廊下の壁に手をついてうずくまり、彼女を追ってロビーに出た自分を、匠が離れた所から窺っていた。

 なぜ、匠はそばにやって来なかったのか。

 あの利玖の姿を見れば、誰だって、何かただならぬ事が起きているとわかったはずだ。話すと意外にしっかりと受け答えが出来たので思いとどまったが、史岐は初め、本気で救急車を呼ぶ事を考えていた。

 帰路で自分を待ち構えていた匠は、しかし、手ぶらだった。

 妹の具合について訊ねる事もせず、史岐が取った行動の意味を短い言葉で問いただしただけで、しまいにはこちらをねぎらいさえしながらゆっくりと利玖の元に向かったのだ。

 まるで、今までにも何度となく同じ光景を見てきたように。


 部屋の前に着いて、扉を開ける時、史岐は無意識に片手で顔を触っていた。今、自分がどんな表情をしているか確かめようとしたのかもしれない。だが、粘土でもこねるように指先で作り変える事など出来るはずもなく、深呼吸を一つして部屋に入る。

 利玖はベッドの上で体を起こしていた。

 テレビが点いていて、地方局の旅番組と思しき映像が流れている。音声はかすかに聞こえたが、電波が届きづらいのか、画面には一定の周期でノイズが走っていた。

「お帰りなさい」

 その一言で、ふっと、緊張が解けた気がした。

「……史岐さん? どうしました?」

 心配そうに首をかしげている利玖に、微笑みを見せて「ただいま」と答えながら、史岐はベッドの近くのサイドテーブルにカップヌードルを並べた。

 利玖の顔が、ぱっと明るくなる。

「ありがとうございます。あとで、食欲が出てきたら、是非いただきます」利玖は、目を上げた。「史岐さんは、今召し上がりますか? それならお湯を沸かしましょう」

「そうだね……、いや、先にシャワーを浴びようかな。僕も何とか動けるようになったから、今のうちにね」

「わかりました」

 荷物の中から着替えを取り出して、史岐はバスルームに向かった。

 相変わらず、船は絶え間なく揺れていたが、バスルームに備え付けられたコップや石鹸類のボトルはすべて、金属製のホルダーにはめるなどの方法で壁に固定されていて、足元に気をつけさえすれば問題なく使う事が出来た。

 体の泡を洗い流している時、ふと、扉を叩く音が聞こえた気がした。バスルームではなく、部屋の入り口の方だ。シャワーを止めて耳をすますと、利玖が何か応じているのも聞き取れた。

 服を着て、タオルで髪を拭きながらバスルームを出る。

「さっき、誰か……」

 言いかけた史岐は、窓辺のソファに腰かけてうなだれている利玖を見た途端、持ち物を全部ベッドに放り投げて駆け寄っていた。

「どうした」

「柊牙さんが訪ねて来られたのです」利玖は体を起こし、深呼吸をしながら、両手でまぶたの辺りをぐっ、ぐっと押した。「何も知らずに、はしゃいでいた自分が情けなくて……。史岐さんはご存じだったのですか?」

 史岐は、鼓動が速くなるのを感じた。

 どうして、柊牙は、利玖にも下顎の骨の話をしてしまったのだろう。彼女の耳に入れない為に、わざわざ部屋を出て話したはずなのに。それとも、風呂に浸かっている間に、当事者になり得る可能性がわずかにでも存在する以上、利玖も知っておいた方がいいと思い直したのだろうか。

「いや、隠していたわけじゃなくて──」

 その時、利玖は急に、片手の指を広げて史岐の前に突き出した。

「五万円ですよ」

「えっ?」

「柊牙さんがおっしゃるには、フェリーを使って稚内から礼文島へ渡る場合、乗用車の航送運賃込みで二万五千円が必要になるそうです。往復で五万円。島へ渡るだけでもそんなにかかるのに、さらに、宿泊代や稚内までの旅費も合わせると……、ああ、眩暈めまいがしてきました」

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