18話 君という例外

 国道を逸れ、カーブの多い坂を上ると、大型の観光バスが何台も停められそうなほど広い駐車場に着いた。

 平日の早朝という時間帯のせいか、今は、他に車は停まっていないが、良い日和の連休などにはさぞかし混み合うのだろう。車を降りて、散策路に向かいながら、何につけても幅に余裕のある土地だ、と城下町・潟杜暮らしの二人は思った。

 散策路の入り口に立つと、岬の全景を見下ろす事が出来た。

 うっすらと緑に覆われた巨大な地塊が九十九つづら折りになって沖の方へ伸び、最奥部で海面に落ち込んでいる。蝋燭岩は、ちょうど陰になって、ここからは見えなかった。

 節くれ立った地形の先端に、白い塔のような建物が見えた。たぶん、灯台か何か、あるのだろう。


 眠っている龍の背中に今しも踏み出そうとしているような感覚を覚える。

 かつてここは、神域として崇められた場所だという。

 人が入っても、いいのだろうか……。


「史岐さん」

 自分を呼ぶ声に、我に返る。

 いつの間にか、ずいぶん先の方まで利玖が進んでいて、こちらに向かって手を振りながら何か言っていた。

 聞き直すと、利玖は声を大きくして、

「高い所が苦手でしたら、そこで待っていていいですよ」

と答えた。



 灯台まで向かう道すがら、利玖は時々、足を止めて脇の草むらに見入る事があった。そういう時、彼女の視線の先には決まって異様な存在感を放つ植物が生えている。

 まず、丈が高い。岬に自生している植物は、どれも人の手が入らないのをいい事に伸び放題だが、それと比較しても、田んぼに立つ案山子かかしぐらい抜きんでて目立つ。巨大な植物体を支える茎は、火にくべる割り木ぐらいの太さがあった。

 それだけでも十分に目を引くが、葉と花の造形がまた奇抜である。

 葉は、大きさに対して必要以上のしなやかさを感じさせる見た目で、未完成の飴細工のようだとでも言うのか、硬い幼虫の殻を破って出てきたばかりのセミのはねのようだとでも言うのか、とにかく、何かに成りかけている途中で力尽きたような印象があり、見ていて落ち着かない。

 花は白く、非常に小さい。拡大鏡か何か使わなければ、花弁の形もわからないだろう。それが、茎の先端で花束を作るように集まって咲いている。

「なんか、フキノトウのお化けみたいだね」

「白昼ずいぶん堂々としたお化けですね」利玖はリュックサックを体の前に回して留め具を外した。「でも、そういうお化けがいても面白そうです」

 リュックサックの中から、漫画の単行本よりも一回りほど大きい植物図鑑が出てくると、この険しい道をそんな物を持って歩いていたのか、と史岐は唖然とした。

「放射状の花の付き方は、フキよりもセリに近いですね。セリ科にこんなに大きくなる種があるとは聞いた事がありませんが……」

 しゃがみ込んだ利玖は、そのまま膝の上で図鑑を広げ、目の前の植物と見比べながら熱心にページをめくり始めた。

 せめて、道中何か所か見かけたベンチのある所でやればいいのに、と思うが、利玖にとっては腰を落ち着けて本を読める事よりも、観察対象を間近で眺められる事の方が大事なのだろう。

 遮る物がないので、ずいぶん風が強い。

 利玖の髪と、開いているページが、頻繁に向きを変える風に翻弄され、彼女はその度に眉をひそめた。鬱陶しく思いはするものの、集中したいのだろう、それをどうこうしようという気は起きないらしい。

 史岐は少し考えた後、風上側に移動し、そこにあった柵にもたれた。

 しばらくして、急に風が穏やかになった事に気づいた利玖が顔を上げる。

 史岐と視線がぶつかった。

 何も言わずに、利玖は、かすかに首をかしげた不思議そうな表情を浮かべていたが、やがて、ぺこんと頭を下げた。

 一度は図鑑に目を戻したが、いくらもしないうちに腰を上げる。

 早歩きで史岐に近づいてくると、無言で、ぐいっと図鑑を前に突き出した。

「え……」戸惑いながらも、妙な迫力を感じて史岐は図鑑を受け取る。「僕、植物とか全然わからないよ」

「そういう方向けの本ですから大丈夫です」

 めくっていくと、後ろの方で構成が変わり、花や葉をアップで捉えた写真が途切れて、代わりに牧歌的なイラストを用いて何かの手順を説明しているページが現れた。

(あく抜き、瓶詰め、梅酒の作り方……)

 史岐は本をひっくり返して表紙を見る。

「利玖ちゃん、これ、『旬の味・山菜の見つけ方』って書いてあるけど」

「居間にあった本です。準備に費やせる時間が少なかったものですから」

 利玖は不服そうに腕組みをする。

「たまにはこういう観点で見るのも良いでしょう。学科の実習ではまず、山菜採りなんてしませんから」

「せっかく野外に出るんだから、好きなのってきて食べたらいいのにね」

「そんなに簡単にはいきませんよ。本に書かれている通り、下処理をしないと食べられない物も多いですし、人体に害がない物を正確に見分けるのも至難のわざです」

 図鑑は史岐が持ったまま、再び歩き始める。

 二人で街中などを歩く時は、いつも利玖がどんどん先に行く。だが、歩幅がそれほど大きくないので、史岐が普通の速さで歩いてちょうどつり合うくらいに落ち着く。

 この散策路に入ってからは、山道慣れしていない史岐が数歩のおくれを取っていたが──利玖はそういう所には特に気を遣わない性質たちである──撮ってみたいと言うので美蕗のカメラを渡すと、見晴らしの良い所で被写体を探して立ち止まるようになったので、これもまたちょうど良くなった。

「これ読んでると、山菜の天ぷらが食べたくなるね」

「せっかく北海道に来たのですから、海鮮料理を堪能したい所ですが、今回ばかりは気が引けてしまいますね」

 利玖はカメラのファインダーに顔をくっつけたが、これという構図が見つからなかったのか、何も撮らずにカメラを下げた。

 この先の散策路は、道具なしでは登る事の出来なさそうなほど急峻な峰に突き当たっている。それを迂回して右側に回り込んでいるので、下に地面がない所では、高架橋のように道が大きく崖側にせり出していた。

 それを見て、利玖は、カメラをしっかりとリュックサックにしまった。

「人間の一部を奪う魚、ですか……」

 利玖は呟く。

 風になびく髪を押さえ、そのまま右肩の前へまとめて流すと、しばらく両手で握っていた。

「不思議です。何だか逆戻りしているみたいですね」

 わずかに史岐の方に顔が向く。

 しかし、視線は何も捉えていない。

「現在の生物学では、我々ほ乳類を含む脊椎動物は、太古の魚類の中でひれに骨格を持ち、地面を這う事が出来るようになった種が進化した物であるとされています。シーラカンスのようにの姿を現代にとどめて、その説を裏付ける生物も確認されています。

 いわば、我々の起源とも呼べる彼らが、何故、無数の進化の枝分かれの末端に過ぎないヒトの体を欲するのでしょうか」

「海にいた生き物が陸に上がって、僕らみたいな動物になったっていうのなら、逆もあり得るんじゃないの?」

「でも、史岐さん、海の底に行きたいと思いますか?」

「ちょっと覗いて帰ってこられるならいいけど、一生暮らしたくはないかな……」史岐は図鑑を閉じる。「でも、人間が観測出来る世界を元に立てられた学説が、妖相手にも通用するかはわからないよ」

「なるほど」

 二人は高架部分に進む。

 足場は金網で、格子の間から眼下の断崖と、そのはるか下にある海面が透けて見えた。しかも、金網は所々に腐食が発生して黒ずんでいる。

 観光地として開放されているからには、ちゃんと安全が確保されているのだろうが、高所恐怖症ならずとも意気揚々と飛び出していけるような場所ではなく、利玖も史岐も歩き終わるまで口をつぐんでいた。

「柊牙さんは『五十六番』の事はご存じなのですか?」

 高架部分が終わった所で利玖が訊ねる。

「ううん。あいつ、目の事は自分から話してくれたけど、僕の事情は明かしていない」

 利玖が意外そうに振り返ったので、史岐は肩をすくめた。

「まあ、何となく察しているとは思うよ。じゃなきゃ、利玖ちゃんの家の書庫みたいな所を紹介してくれって頼んだりしないでしょ」

「それがわかっていて、なぜ隠されるのですか?」

「えっとね……」

 急に上り坂になった。

 こんもりと茂った夏草が道の両側からしだれかかり、白っぽい散策路の舗装が、奥に向かうにつれて徐々に細くなって途切れている。しかし、その象牙色の消失点から左に目を移すと、柵の一部が草むらから飛び出しているのが見え、道が続いている事がわかった。

 灯台には着実に近づいているはずだが、大きな岩塊が視界を遮って先の景色が見えない。

 粒が白く、きめ細やかで、硬さや鋭さをまるで感じさせない。触ったら、さらさらと音を立てて崩れていきそうな質感だった。

 自分達が踏みしめる道よりもわずかに白い、その岩塊よりもさらに、限りなく無色に近い、淡い燐光のような青をはらんだ雲が空をたなびいている。

「妖を見る事が出来たり、妖を扱う素質を持つ者同士が、それと知って親しくなったら、遅かれ早かれ普通の付き合い方は出来なくなる。何せ、実の子にだって必ず遺伝するとは限らない形質だ。同業が極端に少ない世界だからね」

「あくまで大学で出来た友人同士でい続ける為に、同じ世界が見えている事は知らせない、と?」

「そんな所」

 利玖は少しの間、黙って爪先で小石を転がして進んだ。

 それから、地面に目を落としたまま、

「それは不要な心配ではないでしょうか」

と言った。

「妖に縁のある生まれ方をした人が、一生妖と関わらずに生きていく事も出来るし、自分には見えない世界があると信じて、死ぬまで憧れ、追い求める生き方だって貫き通せると思います」

 岩塊の横を通り過ぎると、道は一瞬平坦になった後、下りの階段に変わってぐんと位置が低くなる。ほんの二、三歩で終わってしまうほどの踊り場を挟んで、正面に鏡合わせのように同じ高さの上り階段があった。その向こう側には、白いペンキで塗られた灯台が頭を出している。

 この一角だけが、どこかの町にある夏の畦道に繋がっているようだった。

 利玖は軽い足取りで階段を下りて、踊り場を通り過ぎ、向かいの階段を半分ほど上った所で史岐を振り向いた。

「わたしがいい例ではありませんか?」

「違うよ」史岐は優しく否定する。「利玖ちゃんは、違う」


 利玖が笑みを消す。

 相手に伝える予定のない感情を、あらわにしたくないという本心を隠す事を知らない、ひりつくような眼差しが史岐を見つめる。しかし、何も言わずに、前を向いて歩き出した。


 足を乗せて歩く事が出来る石が、そこにだけ浮かんでいるみたいに、ランダムな場所を踏みながら階段を上っていく。史岐もやや間を空けてその後を追う。

 階段を上り切った所で利玖は立ち止まり、夏の残り香を探すように空を仰いだ。

「今、恋人がいらっしゃるのかと……、そう一言訊けば、済む話でしたね」

「あれ、フェリーの部屋割りを気にして言ってくれた事だったの?」

 史岐は苦笑した。

「利玖ちゃんは、そんな心配しなくていいよ。寝袋を持ち込んだのは、単に、僕の気の遣い方がおかしかっただけ。ああでもしなきゃ、匠さんやご両親に顔向けが出来ないと思ったから」

 利玖は肩越しに、顔を半分だけ史岐に見せている。

 その眼差しに、まだ彼女の求める答えを供していないと気づかされる。

「答えはノーだよ」

 利玖はつっと顎を上げ、踵を返した。

 これ以上ない最高のタイミングで、勝負から降りたのだ。



 思っていたよりも小さな灯台だった。

 史岐は数年前、旅行で太平洋側の港町を訪れた時、その辺りでは名の知れた灯台を見ている。白い塗装が美しく、中世の城塞を思わせる意匠が施され、すらりと天に向かって伸びる姿がチェスで使うビショップの駒のように映ったものだ。その記憶と比べてしまうと余計に、寸胴で背も低いこの灯台はいまいち印象に残らない。

 利玖の所見も似たようなものだったのか、壁にビス留めされた案内書きを一瞥しただけで先に進む。

 灯台の向こうは、岩場に柵を立てて、周囲より少しだけ視点の高い展望台になっている。しかし、展望台といっても元の地形に手を加えていないも同然なので、どこをどう通っていくのが正しい道筋なのかも判然としないほど足元が悪い。

 転ばないように起伏の少ない箇所を探して歩く。

 展望台の奥には、羅針盤を模した灰色のモニュメントが置かれていた。デザインを寄せてあるというだけで、実際に方角が分かる機構が組み込まれている訳ではない。円盤の表面に周辺の地図を彫り込んだ、多少見晴らしの良い場所ならどこにでもあるような代物だ。

 今いる地点が下の方に赤い丸印で示され、海上の余白には、この図面が北を上向きにして描かれた物である事を示す方位磁針のモチーフ。描かれている領域が北側に偏っているのは、おそらく演出の一種で、意図的に行われた事だろう。

「ここからまっすぐ、やや東寄りに北上した所に……」

 利玖が水平線を指さした。

ぶんとうという島があります。別名を『花の浮島』とも言い、レブンアツモリソウなどの固有種を初めとした、貴重な植物が多く自生しているそうです」

 手を下ろし、史岐を見て、問いかける。

「史岐さん。一緒に行ってくれますか?」

 史岐は頷く。

「わたし、自分の車を持っていません。免許もまだ取っていませんから、運転を代わる事も出来ません。それでも、連れて行ってくれますか?」

「うん」

「花を見るなら時期が決まっています。島にとっても書き入れ時ですから、混むでしょうし、各種サービスも割高になるかもしれません」

「構わないよ」

「なぜ?」

 利玖の声にわずかな変化があった。

 楽器の弦をあやまって指でかすめたような、何かが断絶するかすかな気配。

「特別扱いですか?」

 表情はまったく変わらない。

 しかし史岐は、その下に張りつめた感情があるのを感じ取った。

(何をそんなに、怖がっているんだろう……)

 おそらく、利玖自身にもそれは掴めていない。

 ただ、自らの内側に押さえつけておけない恐怖の存在を認識し、その正体もわからないまま一方的にさいなまれ、話しているうちに、それが史岐にも伝播してしまうのではないかという不安で、さらに身動きが取れなくなっている。


 諦めている物がある。

 美蕗の推察が、部分的にでも正しいのだとすれば、これがその正体だ。


「君という例外に、一生の全てを使ってもいいと思っている」


 史岐の言葉を、利玖は、二度の瞬きで受け取った。

 雲の流れとともに、音もなく日陰が日向へ変わるように、顔にきざしていた暗い影が消え、未知の事象に心から関心を向けている時のまっさらな表情が現れる。

 何かを言いかけ、それをやめて口を閉じ、利玖は片手の指を唇に当てて海の方に目を向けた。


 伝わるだろうか。

 伝わらなくても、何も変わりはしない。

 自問への答えは、光よりも速く、訊ねた自分の内側から返ってくる。


 駐車帯から見えた、蝋燭形の岩が、利玖の視線の先に立っていた。

 岬から沖に向かってエス字状に並ぶ岩礁群の、ほぼ中央。先端の一部が削ぎ落とされたように欠けていて、天を指差す魔女の爪のようにも見える。下部は平たい岩盤に繋がって、休む事なく波に洗われていた。


 遠浅の海。

 水平線は、ほんの少しだけ膨張しているように見える。


 それが、この惑星の外周の何万分の一にあたる弧なのか、

 全景を捉えようとする目の動きで、網膜に結ばれる画像に歪みが生じるのか、

 どちらなのかわからないほど、この眺望は人間にとって大きすぎる。


 紺碧こんぺきの鉱石から切り出したタイルを敷き詰めたような海面は、岸の近くでは水底を透かしてペール・グリーンに揺れている。

 ラムネの瓶と同じ、夏が地上に落とす色。

 こんな北の最果てに、眩暈めまいがするような高彩度の夏がまだ残っている、と思う。


 水中に放たれたもりが深みへ吸い込まれるように、一切の情報の入出力を遮断して思考を加速させている利玖の姿が、史岐は好きだった。切っ先が真っ黒な水を割いて進んでいく、その限りなく周波の高い音が聞こえるような鋭い面差しが……。


 やがて、利玖が手を下ろす。

 潮風で額にはりついた髪を払い、その手を頬に当ててうつむくと、しばらく目をつむった後、いたずらっぽい表情で史岐を見上げた。

「とても贅沢をさせてもらっているんですね、わたし」


 もしもこの世に、美しい物を残す為に作られたカメラが存在するのなら、この時以上にシャッターを切るのに相応しいタイミングはなかっただろう。

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