17話 海に沿って

 蝋燭岩の周りは景勝地として整備され、岬の先端まで散策路が続いているらしい。有史以前に海面から隆起した、そのままの状態が残っているような荒削りの地塊の上を、沖の方まで歩いて行く事が出来る。観光案内のウェブサイトによると、夜間は立ち入りが出来ないように門扉が閉められるが、この時期は朝の八時から開いているとの事だった。

 駐車帯を出発したセダンは、海岸沿いに西へ進んだ。

 時折小さな集落が現れるものの、陸地側、つまり利玖のいる助手席からの景色は、大部分が険しい断崖だった。

「今さらだけど、匠さん、よくこの面子で行くのを許してくれたね」

「別に、兄の許可がなければ行く事が出来ない訳ではありませんよ。両親にも話しましたが、快く送り出されました。どちらかというと、わたしの事よりも、まだ未成年の美蕗さんの身を案じていたくらいです」

「あの子の場合、成人しているとかしていないとか、あんまり意味がないけどね……」

 利玖は、一瞬迷ったが、思い切って訊ねた。

「美蕗さんも、史岐さんのように妖を使役しておられるのですか?」

「うん」

 史岐はあっさりと認めた。

「彼女は『九番』。どんな妖なのかは、僕みたいな取るに足らない家系の者には知らされない。でも、数字が若いほど初期に作られた物だと言われている。ついでに格も高い」

 集落の中で、赤信号に引っかかって停車する。

 小さな子どもを二人連れた若い母親が、横断歩道を渡って堤防の先にある海の方へ歩いて行った。

 それを眺めながら、史岐は片手の指で、喉仏の辺りを触った。

「そういう物は、妖の自我が強く残っていて、使役者である人間側が優位に立って制御する術が確立していない事も多い。そうなると、憑依……、つまり、身体や意識への浸食すら許す形で妖と一体化して運用する場合もある」

「美蕗さんも、体に何か障りが出ておられるのですか?」

「出ているかもしれないし、出ていないかもしれない」

 信号が青に変わって、車はゆっくりと発進する。

 バックミラーに映る景色を含めて、視界の中で動いている車は自分達だけだった。

「僕は時々呼び出されて話し相手になるだけだから、込み入った事情は知らないけど、昔はあんな風じゃなかったな。引っ込み思案で、いつも何かに怯えているようで、泣き虫で……。ある時から、急に、今みたいにたけだかな振る舞いをするようになって、何があったのかと思っていたら、少しして彼女が正式に『九番』を継いだと知らされた」

「人格を乗っ取られたという事ですか?」

「いや……」史岐は首をひねる。「そういう訳じゃないと思う。ちゃんと昔の記憶もあるし、あれで一応、人間の社会の仕組みも理解して馴染んでいる。妖にああいった事は出来ないよ」

 利玖が納得して、それ以上疑問を投げかけてこなくなると、史岐は躊躇いがちに「ところで……」と切り出した。

「さっきからずっと、利玖ちゃんに見られている気がするんだけど」

「相手の顔を見て話をするのは当然です」

「それは、そうなんだけど」

 史岐は何かに気づいたように言葉を切って、笑みを見せた。

「海、もっとよく見たい?」



 見通しの良い路肩で車を停め、後部座席に乗り移ると、利玖はさっそく海に近い運転席側に体を寄せた。

 外が少し暖かくなっていたので、車内が冷えない程度に窓を開けて走る事にする。長く寝過ぎた後のように気だるい空気が滞留していた車内を、さっぱりとした海風が洗った。

 まだ太陽が水平線の近くにある為か、海面にはまばゆいばかりに光が集まって、海は褪せたように色が薄い。もっと日が高く昇って空の色が深くなれば、それに呼応して、鮮やかに青が映えるようになるのかもしれない。

 利玖は、窓枠に手をついて、嬉しそうに外を眺めている。

 絶えず風音がしているせいで、初めは、何か別の音と聞き間違えているのかと思ったが、やがて彼女が、やっと聞き取れるほどの声量で、歌を口ずさんでいる事に気が付いた。

(どこかで聞いた事がある……)


 それが、利玖に頼まれて、五月に眠る彼女のかたわらで歌ったあの曲だと思い出した時、背骨づたいに喉元へ星の塊が吹き上げてくるような、くるおしい思いが全身を貫いて、史岐はしばらく息をするのも忘れていた。

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