20話 腹が減っては

 上下ともに長袖のジャージ姿だったのが幸いして、汐子の体に目立った傷はなかった。シャワーで汚れを洗い落とし、擦り傷の手当てを終える頃には、体温も戻って顔色もずいぶんと良くなった。

 汐子は、ドライヤーを当てて乾かした髪を慣れた手つきでまとめると、匠と史岐を呼んでほしい、と利玖に頼んだ。

 そして、彼らから、自分を襲っていた怪異の真相と、それが一応は終息した事を伝えられた。

 日比谷遥は、その間、気まずそうにしていたが、汐子のそばを離れる事はなかった。

「午前の稽古は予定通り行いたい、と思うのですが……」

 説明を聞き終えると、汐子はおずおずと訊ねた。

「心配ないと思うよ」

 匠がかすれた声で答える。汐子が無事だとわかった途端、慣れない事をした疲れが一気に押し寄せてきたようだ。もっとも、それは彼の隣にいる史岐の方がよっぽど顕著に表れていた。

「縞狩の主は、史岐君からの捧げ物を受け取って、いるべき所へ帰った。僕はこういった事が専門ではないから、断言は出来ないけど、あの場にいた全員がはっきりと主の姿を見ているのに、追撃や脅迫の意思を感じていないというのは、彼の執着が離れた証拠だと見ていいんじゃないかな」

 匠は史岐に目をやって、微笑んだ。

「煙草は元々、神への供物として使われたり、儀式の中で重要な役割を果たしていた物が、民衆の間に広まり、嗜好品として定着したという説がある。──よく知っていたね」

「そんな大層な事じゃありません。気を引けるかもしれない、って物が、たまたまあれしかなかったんですよ」

「……皆さん、本当にありがとうございました」

 汐子は指をついて、深く頭を下げた。

 そして、体を起こすと、部屋の隅でしょぼくれている遥に目を向けた。

「ところで、遥。あなた、朝食は?」



 まだ寝ていた方がいい、食事なら自分達が運んでくるから、と遥も交えて四人がかりで止めたが、汐子は頑として自ら食堂に行く事を譲らなかった。

 その真意は程なくして判明する。

 午前の稽古が始まるまであと一時間を切っている。食堂に他の部員の姿はなかった。皆、汐子と遥を案じつつも、おそらくは梶木智宏の指示で、稽古に備えて予定通りに朝食を済ませたのだろう。

 夜のうちに汐子が準備しておいた大型の炊飯器に、ほっかりと炊けた米が残っていて、その横に、フリーズドライの味噌汁やふりかけの小袋、惣菜のパックなどが積まれている。コーヒーメーカーにもフィルタと豆がセットされて、ポットにはコーヒーが溜まっていた。

 汐子は、食堂をまっすぐ突っ切ってトレイを手に取り、テーブルに並んだ品々を次から次へと乗せると、席に着くなり脇目も振らずに食べ始めた。見ているこちらの胸がすくくらいのすがすがしい食べっぷりだった。

「あの量は……、ちょっと、一度では運べませんね」

 利玖が思わず呟くと、遥が苦笑した。

「昔からああやねん。何か、疲れる事があると、まずお腹空いてんのを何とかしようってなるねんな。ほんま変わっとらんで、安心するわ」

「はあ……。え、昔から?」

「彼女だけ呼び方が違うよね」匠が口を開いた。「子音が三つだ。汐子さんは苗字と名前を繋げて『トーコ』、梶木君は単に苗字から取って『カジ』。遥さんはそのニックネームで二人を呼ぶけど、逆に、自分は本名で呼ばれている。それだけなら、遥さんが二人に対して、独自につけたニックネームを使っているという解釈も出来るけど、汐子さんも梶木君も、お互いを呼ぶ際にもそのニックネームを使っている」

「まさか、それだけで、うちらが幼馴染みやって気づかはったんですか?」

 遥は楽しそうに訊き返した。

「まあ、きっかけぐらいにはなったかな……。でも、稽古を見ていればわかるよ。何年もずっと、三人で竹刀を交えてきたんだろうなって事ぐらいはね」

「トーコはマネージャーで、竹刀持ってへんのに?」

「うん。わかるよ」

 遥は目を瞬かせると、ふわあっと、陽だまりのような笑みを浮かべて、汐子の背中を見た。

「……前は『しいちゃん』って呼ばれてました。苗字が『しい』やったから。でも、父がちょっと普通やない死に方をして、潟杜におれんようになったんです。ほんで一回、関西にある母方の実家にかくまってもらって、こっちに戻ってきてからも昔の事は隠しとったんです」

「遥!」

 急に、汐子が振り向いて、厳しい声で遥を呼んだ。

「あなた、何をぼうっと突っ立ってるの。稽古があるんだからちゃんと食べて」

「うへえ……。一応、うちも被害を受けた側なんやけど」

「体は何ともないんでしょう? ほら、こっちにいらっしゃい」

 汐子が隣の椅子を引いたので、遥は渋々そちらに向かった。

「今日は追い込み稽古があるのよ。あなた、スタミナが足りていないんだから、出なきゃ駄目」

「ええっ!」遥は悲痛な声で叫んだ。「ちょっと、嘘やろ、トーコ。あんな広いとこでやったら絶対、誰か倒れんで」

「倒れさせない為にわたしがいるんです」

 汐子は、きゅうりの浅漬けをまとめて箸でかっさらいながら、不敵に微笑んだ。

「あと、カジの事で色々と邪推しているようだけれど、今はつべこべ言わずに待ってあげなさい。あなた、関西に行ってからすっかり変わってしまったから、彼、気づかれないように好みを探るのに必死なのよ」

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