12話 傷なんて一つもついていなかった

「一人、多い……?」

 梶木智宏が、汐子の言葉をくり返した。

 稽古が中断されてからしばらく経っている為か、彼の呼吸もかなり落ち着いてきている。

「増えてるとしたら、男の人やんね」

 彼の隣にいた日比谷遥が発言した。

「佐倉川さんがおるから……、皆、聞いた事ない声の男の人がおるって前提で稽古してるでしょ」

 その時、智宏が「うわっ」と声を上げた。

「何だ、こりゃあ……」

 彼は再び片足立ちになって、足の裏を上に向けている。そこは、血溜まりを踏みつけたように、一面赤黒い液体に濡れていた。

「ちょっと! えらい怪我やん、カジ」

「いや、全然痛くないんだよ。それに、さっき見た時には何も付いていなかったんだけど」

 遥は、気味悪そうに後ずさった。

「ええから、よ手当てしてもらいや。また利玖ちゃんらが掃除せなあかんなるやろ」

 智宏は首をかしげつつも、足の裏についた液体を床に落とさないように、ひょこひょことぎこちない足取りで汐子の所に向かった。

 汐子は、まだ少し狼狽の色を残していたが、冷静に智宏の傷を確かめ始めた。

 汐子の発言に端を発したざわめきが、少しずつ部員の間に広がっていく。

 面を着けているので表情はわからないが、声音や仕草から、誰もが不安を抱いているのが感じ取れた。

 床の掃除を終えて、何となく壁際に残っていた利玖も、それにつられて、体育館の中に見慣れない人影がいないか探し始めた。──その時。

「探すな」

 史岐が短く言った。

 別人のように、低く、重い声だった。

「どうしたんですか?」

 訊ねると、史岐は吐き気をこらえるような表情で瞬きをし、下唇を噛んだ。

「汐子さんが『一人多い』って言った時から、何か紛れ込んだ」



 稽古は十分間の休憩を挟んで再開された。

 部員には、一人一つずつ、スポーツドリンクを入れた給水ボトルが支給されている。休憩の間に多くの部員が水分補給を行い、中身が減っていたので、利玖達は稽古が再開すると、まず汐子とともにその補充を行った。

「史岐さん、すみません」

 給水器の蓋を開け、中を覗き込んだ汐子が史岐を呼んだ。

「そこにあるタンクに水を汲んできていただけますか? 外に水道がありますから」

 史岐とは同い年のはずだが、一貫して、汐子は匠や利玖に対して話す時と同じように敬語を使っている。それでも、最初に神保研究室を訪れた時に比べると、かなり饒舌に話してくれるようになったので、打ち解けるまでに時間がかかる性格なのだろう。

 史岐は特に気にしていないようで、気さくに彼女の言葉に応じ、派手な色のタンクを携えて外に出た。

 給水器のレバーを引いてボトルに中身を注いでいる汐子の背中に、利玖は歩み寄った。

 肩を叩くと、汐子はまだ少し気分の悪そうな顔で振り向いた。

「単刀直入にお訊きします。心霊現象でお困りではないですか」

 はっ、と息をのんだ汐子は、その拍子にボトルを取り落とした。

 ボトルの中身が床に飛び散り、水溜まりが広がる。二人は慌ててティッシュペーパーを数枚抜き取って屈み込んだ。

「ごめんなさい……」

「いえ……、わたしも、驚かせるような事を言ってしまって」

 汐子は黙って首を振り、ため息をついた。

 手はきびきびと濡れた床を拭いているが、注意深く見ていると、時々、思考の乱れに体がついていかないように動きが止まる。

 床の水気を拭い終わっても、汐子は、ぼんやりとしたまま立ち上がらなかった。

 利玖は、汐子の前に膝を着き、まっすぐに瞳を覗き込んだ。

「わたしも兄も、史岐さんも、汐子さんの人となりをほとんど知りません。いわば、とてもフラットな状態です。汐子さんが何を話されても、そもそも、普段はどういう方なのか知らないのですから、驚きようも、失望のしようもありません。

 決して馬鹿にしませんし、あなたの気持ちを傷つけないと約束します。……ですから、何があったのか、話してくれませんか」

 汐子は視線だけを上げて利玖を見つめた。

 それから、自嘲するような笑みを浮かべ、ふっと虚ろな表情になった。

「自分の傷の事なんて、気にもしない人でよかった……」

 かすれた声で呟くと、汐子はうつむき、手で顔を覆った。

「カジの足の裏、あの赤いのを洗い落としたら、傷なんて一つもついていなかったの」

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