Long Night 魔が降りる夜

日下部慎

第一夜 - 未来を貫くもの

「どうしたの?」

 ひとりで泣いていると、女の子から声をかけられた。

 びっくりした。ここなら誰にもみつからないと思ったのに。

「どうして泣いてるの?」

 なんでもないって追い払おうとした。

 でも女の子がしつこくて、しかたないから話した。

 お父さんとお母さんが事故で死んじゃったこと。

 ひとりぼっちになったこと。

「……ごめんね」

 べつに謝って欲しくなかった。

 なんだかよけいに悲しくなるから。

 そのとき、急に女の子が抱きついてきた。

「だいじょうぶだよ」

 耳元で女の子の声。

 ぼくはびっくりして固まってた。

「わたしが守ってあげるから……もう泣かないで」

 女の子の声はやさしかった。

 あたたかい感じが広がっていく。

 いつのまにか涙がとまっていた。

 ぼくは顔をあげる。

 女の子も顔をはなして、ぼくの顔を見る。

 きれいな女の子だった。

 花みたいだと思った。

「かわりに、わたしが困ったときは助けてくれる?」

 うん。

「約束だよ」

 女の子は立ちあがった。

 ぼくは不安になって、どこにいくのか聞いた。

「だいじょうぶだよ。ここがわたしのうちだから」

 このおばけ屋敷が?

 ここには魔女が住んでるんだって、みんなが言ってた。

「魔女じゃないよ。魔術師だよ」

 なんだかわからない。

「じゃあ、またね。お母さんが呼んでる」

 女の子は走りだした。

 ちいさくなっていく背中に、女の子がこのまま消えてしまう気がして……ぼくは呼びとめた。

 ふしぎな顔で見てくる。

 そうだ。名前、名前をきかないと。

「わたし? わたしの名前はゆうか。きみは?」

 ぼくの名前は――――――




 これが少年と少女が出会った時のことで……


 たった一つの、守りたかった約束だった。






 石造りの地下室に、薄暗い闇が沈殿していた。

 じめじめとした不快感に満ちた部屋を、まばらに置かれたほの朱い灯りだけが照らしている。

 作らせた者の嗜好を疑いたくなるような場所だが、部屋の中を彩るインテリアは輪を掛けて強烈だった。

 灯りに近い所だけでも、鞭や針、縄、手錠、注射器など、不穏な代物がずらりと並べられているのが見える。一見しただけでは用途が思いつかないものも多い。さらに薄闇の奥に目を凝らせば、かなり大がかりな拷問具もある。

 これがただのコレクションルームであれば、特殊な趣味で済んだかもしれない。

 しかしながら、これらは隅々まで整備が行き届いており………

「―――あッ……くっ………くぁっ……!」

 蒐集品ではなく、実用品であった。

 十畳ほどの広さを持つ部屋の中央では、一人の女性が膝立ちの姿勢で拘束されていた。両手と両足には手錠がかけられており、それらを後ろ手にしてワイヤーで繋ぎ、身動きをとれなくしている。

 女性の肉感的な肢体を覆い隠すものは何もなく、艶のある美しい素肌を外気に晒していた。

 しかしそれも今は痛々しい――なぜなら体のあちこちに鞭で打たれた跡が残っており、現在もその数を増やしているからだ。

 ややウェーブがかった長髪も、本来ならばもっと見栄えが良いのだろう。数日に渡る監禁生活のために手入れが行き届かず、瑞々しさに翳りが見て取れた。

 だがそれでも女性の肉体は充分に魅力的であり……何よりその端正な美貌は、身を苛む責めに負けじと強い意思を宿している。

 女は眉根を寄せて耐えているが、強く鞭で打たれるたびに長い髪は揺れ、抑えきれない苦痛の声を漏らした。

 いや……それは苦痛だろうか。朱みがかった灯りのせいか、その頬はうっすらと上気しているように見え、睫毛の下で潤む目元が色香を漂わせている。

 女の肉体は責め手に反応して腰をよじらせ、突き出すように強調された乳房を弾ませている。玉のような汗を散らして成熟した裸身を踊らせるさまは、ひどく見る者の情欲を掻き立てるものだった。

 ……少なくとも彼女の傍に立つ男は、苦痛だけではないと判断したようだ。

「そんなに気持ち良かったのか? なるほど、魔女というのは叩かれて感じる変態のことだったか。クックク……」

 いやらしく嗤う男は、手にした鞭の柄を自分の手に当てて、パシッと鳴らす。

 歳は五十代あたりの、眼鏡をかけて髪を後ろ手なでつけた、やや痩せぎすで神経質そうな男だった。

 男の名は武堂卓。経営コンサルタントとして業界では名の知れた実力者だ。

 だが少し事情に詳しい者達からは、熱烈なオカルトマニアとして知られていた。魔術品などと称した代物を買い集めているのは周知の事実で、夜な夜な自宅で怪しげな儀式を執り行っているという噂が、まことしやかに囁かれている。

 そんな男が、目の前の女性を魔女と呼ぶ。

 女は武堂に敵意の篭もった眼差しを向け、

「低俗な男ね……そうやって人を貶めないと……っ、はぁ……話すこともできないの?」

 息も絶え絶えながら、毅然として言い返した。

 対する武堂は余裕の笑みで受け流すと、おもむろに女の股間を覗き込む。

 女の茂みの下には、男性器を模した道具が深々と沈み込んでいた。

「低俗、低俗ね……ククッ。こんなことで濡らしている女に言われるとはねぇ………お上品なのは上の口だけなのかね?」

 男が器具をわずかに引き出すと、ねちゃっといやらしい音をたてて秘裂から液体が溢れ出て、石畳の床に落ちる。

「それは……あなたが自分でっ……!」

「んん? ローションはこんなに濁っていたかな? こんなにネバつくものを使用した覚えはないんだがねえ……不良品かな? んん?」

「っ………」

 女は悔しげに口をつぐんで、視線をそらした。

 恥辱に顔を歪める彼女を見て、武堂の目がにわかに嗜虐の色を帯びる。

「では、不良品はすみやかに掻き出さなくてはいかんなあ……」

 武堂は張形を掴むと、激しく抜き差しを開始した。

「はぁッ! やっ、ぐ、うぅッ……っん………ぁ、あ、あっ……ああぁっ……!」

 初めは苦しげな呻きを漏らしたものの、抽挿を繰り返すうちに段々と声がうわずってくる。この数日間繰り返された行為に、既に肉体が順応してしまっていた。

 不意に男がピストン運動の位置を変えた。

「っ!? そっ、そこは……っぅ~~~~ッ!!?」

 張形を大きく引いて、膣の天井側の少し浅い部分を刺激する。

 弱点を責められ、女は声も出せずに身悶えた。目尻からは大粒の涙がこぼれ、背筋をつたい落ちた汗と、溢れ出た愛液と合わさり石畳に染みを広げていく。

「――は、っひ――――っ―――!」

 そして武堂は持っていた鞭を床に放ると、懐からリモコンを取り出し……張形をひときわ強く押しつけると同時にスイッチを入れた。

「んンッ!? っぁ、ぅ―――――んぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっ……!!!!」

 くぐもった叫び声とともに、女の体がえび反りにのけぞる。

 真上を向いた乳房は空を差すように先を硬くし、両手、両足の指がぎゅっと握り込まれる。

 次の瞬間、女の秘裂から透明な液体が噴き出した。

 ぱしゃぱしゃと大量の雫が石畳に降り注いで、恥ずかしい水溜まりを作っていく。

 その間もずっと張形は強く押しつけられたままで、女は酸素を求める魚ようにぱくぱくと口を開閉させて、全身をわななかせた。

 ひとしきり出し終えたところで、武堂は張形を引き抜く。

「っ――! は……ぁ、ぁっ――――ぅぁ……」

 引き抜かれた後も女の股間からは、ぴゅっ、ぴゅっ、と断続的に漏れ出しており、そのたびに秘肉がひくひくと痙攣した。

「また派手に噴いたな。クク……君は才能があるよ。ここまで淫乱な体は、そう滅多にお目にかかれない」

 武堂が羞恥を煽るように言って女の顔を覗き込むと、焦点の合わない瞳が天井を映していた。女は放心状態で、だらしなく開いた口元をつたう涎にも気付いていないようだ。

「フフ……少しやりすぎたかな? しかし本番はこれからだ」

 そう言うと、武堂は再び女の秘所に張形を押し入れた。

「――――ぅ」

 女がピクリと震える。武堂は構わず紐を使って張形を固定し、床から鞭を拾い上げた。

 ビシャッ! ビシャッ! と鋭い音を響かせ、女の体に赤い線を増やしていく。

「……っ………ぁっ………っく……!」

 幾度も叩かれているうちに、女の意識も次第にはっきりとしてくる。

 同時に下腹部で蠢く異物も感じ取ってしまい、艶のある吐息を漏らして腰を捻る。

 ……だが、体を走る痛みが女の昂ぶりに冷や水を浴びせかける。寄せては引いてを繰り返す苦痛と悦楽の波に、女の肉体は翻弄されていた。

「君には解るかね? 苦痛と快楽を同時に与える意味が」

 小休止のついでだろう、武堂は打つ手を止めて語りかける。

 女は視線の端で一瞥するだけで応えない。

「学習だよ。これを根気強く続けることによって、いずれ苦痛を与えられただけで快楽を感じるようになる。やがては鞭を振る音で股を濡らし、叩かれただけで絶頂を迎える肉体に変わる……クク、クククッ……!」

 女の武堂を見る視線が嫌悪感を増す。まるで汚物か害虫を見るかのようだ。

 その反応に気を良くしてか、武堂はなおも得意げな調子で語る。

「だがそれだけではないぞぉ……この調教の最終段階は――これだ」

 言って武堂が歩み寄るのは、部屋の隅に立て掛けられた棺のような箱。

 ――蓋の裏から、いくつもの鉄釘が生えている。

 それまで敵意に燃えていた女の顔から、さっと血の気が引いた。

「まさか―――」

「そぉぉおとも! コレだよコレ! 魔女にはふさわしいと思わないか? んん?」

 薄闇の奥からでもはっきりと分かる。その鉄釘の太さ、長大さ。

 アレは拷問具などではない。……処刑具だ。

「はははははッ! これをやろうとするとな、誰もが嫌がるのだ! 当然だがな! ガタガタと震え、怯え、失禁して懇願する……しかし実際に蓋を閉じてやるとだな……怯えた顔が悦びに変わるのよ。痛みに悦楽を感じて、絶頂すると同時に死んでいく……ほら、その様子がようく見えるようにガラス張りなのさ。……もっとも、そこまで仕込むのは実に大変な大仕事だがね……気をしっかりしてくれよ? 私を楽しませてくれ! ははッ! ふははっ……はははは! げああははははははははははははははははは!!!!」

 ――狂人。

 闇の奥で哄笑を上げる男の姿は、彼女がこれまで目にしてきた人外の怪物たちのどれよりも醜悪だった。

 押し込めていた恐怖の感情が、女の身に沸き起こる。

 この周辺一帯には魔術封じが施されており、自力での脱出は不可能。助けも来られないことは分かっていた。故に自分は誇りある魔術師として、自身の矜恃だけは守り抜くつもりでいた。

 しかし目の前の男は自分の想像を超えた怪物だった。魔術師でも人外でもない、ただの人間の内に潜む悪魔のごとき魂……その本性を目の当たりにして、気丈を保ってきた心に昏い影が浸食してくる。

 影の名は絶望。

 気高き魂を屈服せしめんと、わずかな楔から雪崩のように押し寄せる。折れるのは時間の問題であろうが、女は歯を食いしばって懸命に抗う。

 そんな時だった。

 ―――トゥルルルルル………トゥルルルル…………

 突如、内線の呼び出し音が鳴り渡る。

 武堂は興が削がれたと舌打ちしつつ、受話器を取った。

「……なんだ?」

『む、武堂さん逃げてくださいッ! なんだあれは人間じゃない……き、来たッ、もうここに…………う、うわああああああああああッ!!!』

「おい、何があった!? おいっ!!」

 しかし返ってきたのは受話器を落としたのだろう、ゴン、という音。続いて銃声らしき破裂音が二回。

 ……少しの沈黙の後、受話器から聞こえてきたのは初めて聞く男の声だった。

『――武堂卓だな?』

 武堂は逆に正体不明の人物に聞き返す。

「お前は誰だ? いったいどこの――」

『俺の名は長夜柾人だ』

 ぼそりと呟くような低い声。

 ……それで通話は切れた。

 唖然とする武堂だったが、響き渡る轟音が彼を現実に引き戻した。

 ハッと振り向いた先は地上へと続く階段。

 謎の襲撃者は既にこの地下室への入口まで到達している……逃げ道はない。

 だが逆に、ここに来る道は一つしかない。唯一の侵入口である鉄扉は特別製だ。ライフル弾程度ではびくともしない。奴らが手間取っている間に応援が到着すればこちらの勝ち――そう考えて外線に繋げようとするが………

 グワン、グワンと大仰な音色を奏でて、階段から何かが転がり落ちてきた。

 ……それが紙のようにひしゃげた鉄扉の成れの果てだと気付くのには、数秒かかった。

「……………え?」

 故に、闇の奥から躍り出た黒い影にも、武堂は反応することができなかった。

 始めに衝撃。

 押し倒されたと武堂が認識した瞬間、右腕に何か打ち付けられる感触。

 殴られるのとは違った感覚に目を向けると、右腕に何か突き立っていた。

 槍だ。長細い槍が右腕を床に縫い付けている。

「あ………あ、あああぐうううっ………!」

 遅れて広がってきた痛みに呻く。

 が、それは乱暴に頭を踏みつけられて停止させられる。

「無駄に口を開かなくていい。お前に聞きたいことはひとつ………ここにある魔術封じ……これをお前に教えた奴はどこにいる?」

 武堂はその一言で察した。この賊は自分たちとは違う、より更に深く社会の裏側に潜む存在………すなわち"魔術師"であると。

「馬鹿な……魔術師がここに来られるはずが……何で―――ぐあぁぁっ!!」

「無駄口は要らないと言った。……だが教えてやろう」

 男は傷口を抉って黙らせると、武堂の頭をおさえつけていた足をどける。

 そこで武堂はようやく侵入者の姿をまともに見ることができた。

 ――別段、奇抜な風貌をしてはいなかった。

 年齢は三十代半ばから後半くらいだろう。黒いコート、その下には着崩したスーツ。ぼさぼさに伸びきった髪と無精髭が不摂生な印象を与える。

 少なくとも魔術師といった風体ではない。

 それよりはむしろ、黒光りする拳銃を手に冷たくこちらを見下ろす様子は……殺し屋と言う方がしっくりくる。

「魔術師だからって銃を使っちゃいけないなんてルールはねえんだよ。解ったか?」

「ぐ……っ」

 灯台もと暗しというのか。男の単純明快な解答に唸る。

「さあ次はお前の番だ。心配するな、俺の標的はお前じゃない……素直に吐けば命は助けてやる」

「………………………」

「黙秘するのか?」

 武堂は必死に考えていた。この状況で自分が助かる方法を。

 ……一番いいのは時間稼ぎか。契約している警備が駆けつけてくれればそれでいい。いっそのこと偽の情報を教えるか? しかしそれは報復が……そうだ、この惨状を見ろ。十人からいる警備員はどうやら全滅だ。恐ろしい……なんだこれは、自分に逃げ道などないのではないか………

「そうか……なら仕方ないな」

 頭上からの声に、武堂はハッとして頭を上げる。

 見ると黒衣の男は、そこかしこに置かれた大小様々の"道具"を手に取り検分している。

 武堂の視線に気が付いた男は、口元に笑みを浮かべた。

 ――それは嗜虐の悦楽に酔う狂者ではない。捕らえた獲物を食い千切らんとする狩人の笑みだ。

「おあつらえ向きな部屋だ。せっかくだから使い方を教えて貰おうか………お前の体でな」

 今しがた一人の女に絶望を与えた男は、こうして自らも絶望の淵へと転落した。




 そうして長夜柾人は、命乞いする男の脳天を撃ち抜いた。

 武堂卓が洗いざらい喋るようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 今は床に血だまりを作るだけの存在と成り果てている。

 ――いつものことだ。少なくとも長夜柾人という男にとっては。

 ここまでは概ね予定通り。これから用をなくした屋敷を去って、本当の目的地へと足を運ぶ。

 ……だが、イレギュラーというのはいつでも起こり得るものだ。


「動くな!」

 クロスボウを構えて地下室に躍り出た人影は、第一声にそう言い放った。

 まだ十七、八くらいの少年と言っていい年頃だった。中肉中背の標準的な高校生といった容姿で、これといった特徴もない。強いて挙げれば顔つきに誠実そうな印象を受けるくらいか。

 少年は見た目通りに、こういった場に慣れていないのだろう。緊張した様子がありありと見て取れた。

 更にその表情は、部屋の状況を視認した瞬間に凍り付く。

「っ……!?」

 部屋の中では、既にこちらに銃口が向けられていた。

 誰かが降りてくることなど足音で分かる。長夜柾人はそのまま引き金を――

「待ってください!」

 銃声よりも先に女の声が響いた。

 それに対して反応をしたのは、降りてきた少年だった。

「せ……先生っ!」

 少年は駆け出してしまいそうになったが、ピタリと照準されたままの視線と銃口が阻んだ。

「恭也、武器を下ろしなさい」

 名を呼ばれた少年は、突き付けられた銃口と、自身を見据える男と視線を交わし……ゆっくりと武器を持つ手を下げた。

 それを見届けた長夜柾人は、背後にいる女に声をかける。

「お前の弟子か」

「はい、そうです」

 そうして長夜も照準を外した。

 少年が女のもとへ駆け寄る。

「先生! だ、大丈夫ですか……っ!」

 少年は女の一糸纏わぬ姿にうろたえたが、すぐに体のいたるところについた傷痕に気が付いた。上着を脱いで女の肩にかぶせた少年は、気遣いながら手を貸す。途中、床に落ちた手錠や、いやらしく濡れ光る性具に目が留まって顔をしかめた。

「大丈夫よ、一人で歩けるわ。……それよりも」

 女の視線の先では、既に立ち去ろうとしている長夜が。

「助けて頂きありがとうございました。冷園の魔術師、紗宮百木里は深く感謝します」

 言って、深々と頭を下げた。

「礼はいらねえ、これが俺の仕事だ。……ま、アンタが体で返してくれるってんなら歓迎するがな」

 男がただの冗談で言ったことなのか判別はつかない。ただ、相対する女は大真面目だった。

「私の頼みを聞いて貰えるなら、それでも構いません」

「せ、先生!?」

 驚いたのは付き添っている少年の方だった。

 予想外の答えに長夜は目を細めて見返す。

「これからあの魔術師のもとへ……篠森篤志の所に行くのですね?」

「ああ、そうだ。奴が今回のターゲットだからな」

「……弟子の一人が捕まっています。彼女を助け出して貰えませんか」

 ハッと少年が振り向く。

「先生……それじゃあ、結歌はそこに……」

「ええ。けれど時間が経っているから、もう写し終えてしまったかもしれない」

 女魔術師の言葉に、沈黙を保っていた長夜が反応する。

「"写し終えた"と言ったな。とすると、やはり奴は……」

「はい、全身複写経路の禁呪を使用しています。私の魔術も複製されて……用済みとされて、ここに送られました」

 禁呪の名を発した紗宮百木里の表情は硬い。

 だが長夜は大して気にした様子はなかった。

「そうか。まぁ、頼み事については一応覚えておくぜ。約束はできねえけどな。じゃあ俺は……」

「ま、待ってください! 僕も行きます!」

 背を向ける長夜を再び引き留めたのは、恭也と呼ばれた少年だった。

「断る。足手まといだ」

 にべもなく一蹴される。

 更には彼の師匠までもが、長夜の意見に賛同する。

「彼の言う通りよ恭也。そも、貴方はここに来てはならなかった。そんなものを手にして、戦えるつもりですか。魔術師なら理に従いなさい……私も、あの子も、魔術師である以上はこうした危険に晒される覚悟はしているわ」

「せ、先生………くッ……」

 危険を顧みず師匠を救いに来た弟子にかける言葉としては、いささか辛辣すぎる物言いだったかもしれない。

 しかし彼女は師として教えなければならない。魔術師とは世界の理法を解き明かすもの。よって、その目はいつも公平で、淀みなく、正しくあらねばならない。理に従えぬ者が、理を従える道理がないからだ。

 少年が魔術の道を志す以上、反論の余地はない。

 彼とて、そのようなことは心得ている。

 だが………

「……でも…………家族じゃないですか……!!」

 絞り出すように言う少年の瞳は……眩しいくらいに真っ直ぐだった。

「お願いします! 僕を連れて行ってください!!」

 そう言って勢いよく土下座する少年。

 その行動には、彼の師匠も驚きに目を剥いている。

「僕は……約束したんです………あいつが危ない目に遭ったら……必ず助けるって……!」

「……………」

 額を床にこすりつけて必死に嘆願する少年の姿に、長夜柾人の目は何を見たのか。

「いいだろう、ついて来い」

 少年がガバッと頭を上げる。

 隣にいる彼の師匠も、その返答は予想していなかったのだろう。ひどく狼狽していた。

「ただし当然、俺の指示には従ってもらう。生き死にの保証もしねえ。……構わないな?」

「は……はいっ!!」

 元気よく返答する少年。

 そして今の言葉は、彼の師にも当てた言葉だったのだろう。

「……分かりました、その子をお願いします。それでは最後にひとつ、お伝えすることがあります」

 彼女は強く長夜柾人を見据える。

 それは魔術師としての警告だった。

「あの男は魔術封じがしてある場所で、魔術を使用していました」

「―――なに?」

 にわかに長夜柾人の顔が色めき立つ。

「原理は分かりません。ただ魔術師二人が何もできずに捕えられたという結果だけです」

 長夜柾人は少しだけ思考すると、

「……そうか。まあ、かえって仕事が楽になったかもしれん」

 そんなことを呟いて、足早に階段を上り始めた。




 仄かに明るみだした夜の路面を、大型の自動二輪が疾駆している。

「もうすぐ朝になりますね……いいんですか? こんな時間に」

「こんな時間だからいいのさ」

 長夜の操るバイクの後部座席に少年がまたがっている。

 法定速度を倍近く超過した走行中のバイクで会話が成立するのは、少年の行使する魔術によるものだ。

 周囲の音を残して、互いの発する音声だけを鮮明に。地味ではあるが繊細な術を自然に扱っている。長夜は同じ魔術師として、少年の技量の高さを感じ取っていた。

「朝方ってのは警備の意識が緩くなる時間帯だ、襲撃するには都合がいい。それに自分に繋がりのある奴が殺られたことが分かれば、野郎は警戒して警備を増やすだろう。場所を移す可能性もある。……今が一番確実なんだ」

「なるほど。そういえば自己紹介がまだでしたね。僕の名前は志司間恭也。……あなたは?」

「俺の名前を聞きたいのか? これから殺す奴にだけ名乗ることにしてるんだが」

 恭也の顔がひきつり、慌てて否定する。

「そんなことより、そろそろ着くぞ。このまま突っ込むからお前、塀をぶち破れ。できるな?」

「ええっ!? いや、出来ると思いますけどそんな――」

「いいからやれ。振り落とすぞ」

 そうこうしているうちに目的の建物が目に入ってきた。運転手はスピードを弛めず突進している。

「わ、分かりました……どうなっても知りませんよ!」

 恭也はヤケクソ気味に言って身を乗り出すと、迫り来る壁を強く睨みつけた。

 既に会話のための魔術は解かれており、呟く詠唱は運転している長夜には聞こえない。

 3メートル超のブロック塀に激突する直前、恭也の詠唱が完成する。

「os gwelwch yn dda tir―――解けろ!!」

 言葉と同時に、まるで縫い物が糸を引き抜かれたように、コンクリートブロックがぼろぼろと崩れ落ちた。

 バイクが唸りをあげて敷地に侵入する。

 入ってみると建物は大きくないが、敷地が広い。やや速度を落としたとはいえ、バイクが高速で走り回れるくらいの余裕があった。おそらく魔術師は地下に工房を構えているのだろう。

 派手な突入劇は当然、すぐに発見される。警備員なのか、黒服の男2人がこちらに警告を発してくる。

 長夜は男達に向けて方向転換すると、ためらわずにアクセルを握り込む。

 危ういところでバイクは2人の間をすり抜けた。

 そして何を思ったか長夜は男たちの怒声を尻目に、敷地内を大きく周回しながら、挑発するようにエンジンを吹かしている。

「だ……大丈夫なんですか、こんなことして!?」

 予想を超えた長夜の行動に慌てる恭也。

 だが長夜は至って冷静だ。

「SM野郎の情報通り、表は魔術封じが届いてねえ。出来るだけここに引っ張り出して片付ける」

 見ると男の片方が無線で応援を呼んでいるようだった。

 しばらく待つと建物の中から数人の黒服がわらわらと出てくる。

「……少し多いか」

 長夜は舌打ちしてバイクの速度を弛める。

 黒服たちは拳銃を構えて扇状に囲んでくる。

 不意に長夜はバイクを急加速させ、囲いの一点を突破した。

 すぐ横を通った男が、パァンと銃声を1発響かせた。

「撃ってきた……!」

「心配いらねえよ、こいつらは雇われだ。……おい、降りるぞ」

「え? うわぁっ!?」

 言うが早いか投げ捨てるようにバイクを手放して、地面に降り立つ長夜。

 恭也はバイクに絡まれる寸前で必死に転がり出た。

 起き上がろうとして顔を上げた恭也が、その構図を目に捉えた。

 目の前には、こちらに背を向けた男の真っ黒いコート。

 ……ただ一本の槍を携えている。

 その奥には、これも同じく黒い服を着た数人の男たち。

 ……銃を手にしてこちらに向かってくる。

 その全員が、恭也から見てひとつの線上にあった。

「降魔―――ゲイ・ボルグ」

 男の低い囁き。

 瞬間、世界が歪んだ。

「…………なんだ、これは……」

 恭也は呆然と見入っている。名も知らぬ男が初めて見せた魔術は、自身の常識を遙かに超えたものだった。

 男を中心として膨大な魔力が渦巻いている。……いや、正確には男の持つ槍から、尋常ではない力が発せられていた。

 何の装飾もない至ってシンプルな槍が、今や溢れ出た魔力によってギザギザに尖った銛のように――さながら伝承に聞く魔槍そのもののように――畏怖すべき威容を見せている。

 恭也だけではない、向かい来る男たちも動くことを忘れている。

 理解はできなくとも感じているのだ……圧倒的な力を。

 まるで現実が幻想に浸食されてしまったようだ、と志司間恭也は思った。

 そうして、長夜柾人は槍を投擲した。

 投げ放たれた槍は空中で数十本に分裂して降り注ぐ。

 どこにも逃げ場などない。暴威が過ぎ去った後には、全身に風穴を開けて転がる物言わぬ屍たち。

 数十に分かれて飛んでいった槍が、一本だけ地面に突き立って残されているのは、なんとも奇妙な光景だった。

 長夜柾人が槍を引き抜く。槍を両手で掴んで捻ると三分の一ほどの地点で折れ、もう一度捻ると綺麗に三分割された。三節棍ならぬ三節槍を、再びコートの中に仕舞い込む。

 恭也はごくりと唾を飲んで、その背に声をかけた。

「今のは……何ですか? あんな魔術は聞いたことがありません」

「聞くなよ。俺はこれで飯食ってんだ、種は明かせねえ」

 薄く笑って答える。

「だがまあ、これだけは言っておくか。コイツはそう何度も使えねえ……今日はもう使ってるしな。ってことで、次の奴らはお前に任せたぜ」

「……分かりました」

 頷いて、恭也は納得した。

 先ほどまでの屋敷に侵入した際に見かけた死体の中には、体を真っ二つにされたり引き千切られたようなものがあった。

 さらには異様にひしゃげられた、ぶ厚い鉄の扉。まさか重火器の類をコートの下に隠しているとも思えない。

 だが、そこでふと恭也は違和感を覚えた。

 ……確かあの屋敷は、上の階まで魔術封じが―――

「おい、何をぼさっとしてる。さっきの連中は様子見してたが、次からは向こうも殺しに来るぞ」

 言われてすぐに恭也は詠唱を始めた。

 志司間恭也が師より教わる魔術は、四大精霊を操る術。とりわけ"土"属性の造詣が深い。

 地を叩く振動を広く情報として集積。こちらに向かう人間の動向を捕捉する。

(2人……少し遅れて1人か………)

 同時に恭也は自分の足下にある植物に魔力を送り込む。

 2人の男が出入口に到着。体半分を隠してこちらに銃口を向けてくる。

 だが男達がトリガーが引くよりも早く、恭也の魔術が発動した。

「tyfu i fyny――!!」

 恭也の周囲にある雑草が瞬時にして異常な成長を始めた。

 それはもはや成長というより、膨張と言った方が適切であった。人間の腕ほどの太さにまでなった茎や蔓が、恭也の姿を覆い隠す。

 黒服は悲鳴をあげつつも発砲してきたが、小さな鉛玉は緑色の壁に吸収された。

「よし、行け!」

 恭也が命ずると2本の蔓が伸びて男達に向かう。

 触手じみた蔓は2人の持つ拳銃を絡め取り、建物の外に引きずり出した。

 情けない悲鳴をあげて暴れる2人の手から拳銃を剥ぎ取ると、そのまま地面に張り付けるように拘束する。

「な……何だあ、こりゃあ………」

 遅れてやって来た1人が、建物の中で唖然としている。

 恭也がさらに1本の蔓をそちらに向ける。男はヒィッと引きつった声を漏らして固まってしまう。

 が……男の眼前に迫った蔓の先端が、急にしおれて力なく垂れ下がった。

「くっ――魔術封じが……!」

 しかし男が安堵するよりも先に、その眉間に黒穴を穿たれた。

 長夜だ。魔術が届かなくとも銃弾であれば関係ない。

 建物の中に動きがないのを確認すると、恭也は長夜に声をかけた。

「どうです。あなたには劣りますけど、四大元素……特に土属性には汎用性が……」

「――おい、馬鹿野郎ッ!!!」

 突如、怒声をあげて長夜が銃を撃った。

「え……?」

 硝煙のゆらめく銃口が指し示す先には、恭也の蔓によって動きを封じられた男――

 その左手から拳銃がこぼれ落ちた。

「な……どうして………銃は取り上げたし、手は動かせないはず……」

「………暴れてるうちに懐から落ちたんだろう。銃を甘く見るなよ。手首から先が動けば、それで充分人を殺せる。人殺しの性能において、近代兵器は魔術の遙か先を行っている」

 魔術そのものを卑下したような言い様に恭也は反発を覚えるが、蔓を3本使っていた自分は守りに穴が開いていた。あそこで彼が止めてくれなければ、ここで倒れていたのは自分だっただろう。

 長夜は自分が撃った男が死亡していることを確認して、残る1人のもとへ向かう。

 身動きが取れず無抵抗の男に、長夜は淀みなく銃口を突きつけた。

「ま、待っ――」

 思わず制止の声をあげる恭也。

 しかし届かない。一切の慈悲なく躊躇なく引き金は引かれた。

「……なにも、殺さなくても………気絶させれば……」

 呻くように言う恭也に、長夜は厳しい視線を向ける。

「甘ったれたことをぬかすな。途中で目覚めたらどうする? 中に入ってから背後を取られるのは致命的だ。縛りつけても完全じゃない……リスクは残る。最善なのは殺すことだ。この敷地内の人間を皆殺しにする」

「………っ」

 あまりにも非人道的な台詞。

 しかしいくら歯噛みをしても反論が浮かばない。

「それに魔術を見せた以上は殺すしかない。死人に口なしだ」

 "魔術を一般に知られてはならない"

 これは恭也も師から教わっていることだ。魔術師は大原則として、魔術の存在を公から秘匿しなければならない。

 この禁を破れば魔術連盟から刺客が送られ、その存在を抹消される。それは連盟支部のない日本国内であっても同様だ。例外はない。

 長夜の言葉は正しい。恭也はそれを理解しつつも――どうしても、納得だけはしたくなかった。

 そんな苦悩する恭也を眺める長夜の視線は、どこか遠いものを見るような……言いしれぬ寂しさが篭められていた。

「……なあ、お前は何のためにここに来た?」

「え? それは……」

「余計なことは考えるな。お前は、お前の目的を果たすことだけを考えろ。犠牲の大きさは後で考えりゃいい。……人間、一番大切なものが残っていれば、それだけで生きていけるんだよ」

 言って、柾人は恭也から背を向けた。

 恭也には、彼の言葉がこの場にない別のものに向けられたように感じたが……しかし要点は伝わった。

「結歌………」

 攫われた少女の姿を思い出す。

 守るべきもの。掛け替えのないもの。

 喪うことを想像して――心臓が抉り取られそうになった。

 約束をした。それは幼い子供ならではの口約束ではあるが……確かに覚えている。きっと彼女も覚えているだろう。そして今も自分が助けに来るのを待っている―――

 拳を強く握りしめた。

 人の命に優劣などつけられない。命を奪って仕方のない犠牲だと割り切ることなどできない。

 けれど今だけは忘れよう。

 自分がここにいる理由……ただそれだけのために。

「ようやくまともなツラになってきたな」

 長夜柾人は放り出したバイクを拾い起こしていた。

 またがって軽くエンジンを吹かし、開け放たれたままの出入口へ車輪を向ける。

「俺はこのまま中に突っ込む。お前は後から来い」

 言うが早いか砂塵を巻き上げて猛然と突入していった。

 恭也もクロスボウを片手に、その後を追う―――




 建物はそう広くない――せいぜい学校の体育館くらいのものだ。

 中に入ると受付か広めの休憩室といった感じになっていて、まっすぐ進むとだいぶ開けた空間に出た。まばらに積み上げられた箱や革袋などを見れば倉庫だろうと当たりがつく。

 倉庫には5人の男達がいた。バイクに乗ったまま乗り込んで来たのは予想外だったのだろう、4人とも驚きに身を引いている。

 しかし散らばった荷物が邪魔で、とても二輪で走り回れそうにない。

 長夜はすぐに見切りをつけて、奥に固まっている2人目がけてフルスロットルで突撃する。

 300kgを超える鉄の塊が男の1人を引き倒す。

 長夜は激突する寸前にバイクを手放すと、地面を転がりながら懐から拳銃を取り出し、回転を止めると同時に残る1人に向けてトリガーを引き絞る!

 胴に二発。男は照準を向ける間もなく倒れた。

 それから長夜はすぐに近くの積み荷の陰に隠れる。

 少し遅れて二発、三発と銃弾が追いかけてきたが、無駄と分かれば向こうも撃つ手を止める。

 これで障害物を挟んで対峙する格好となった。だが3対1……不利だ。

 既に相手が"こういう場"に慣れていないことは感じている。2人なら奇襲はそう難しくないだろうが、3人となると時間が厳しい。

 さてどうするか――と頭を働かせながら、長夜はバイクの下でわずかに身じろぎした男へ素早く銃弾を放って息の根を止めた。

 耳を澄ませて相手の動向を探る。左右からゆっくりと回り込んで来ているようだ。

 後手に回れば的になるだけ。覚悟を決めて動き出そうとしたその時――

「グウッ……!」

 不意に入口近くの男が漏らした声。

 当然、この機を逃す長夜ではなかった。

 まずは右側に身を乗り出して三連射。横に気が行っていた男は全く反応できずに血と脳漿を散らして倒れる。

 そこから間髪入れずに反対側へ飛び出る!

「な―――くっ!」

 回り込もうとしていた男は虚を突かれて一瞬停止したが、まだ銃を撃つ距離はあった。

 両腕で頭部をガードしながら走り寄る長夜に向けて、鉛玉が食らいつく――!

 ……だが止まらない。長夜はそのまま覆い被さるように体当たりして、相手を床に押し倒す。

 男が倒された衝撃から持ち直し、銃を持つ腕を膝で止められていることに気がついた時、その眼孔を鋭い刃物が貫いた。

 槍の穂先は男の小脳にまで到達する。

 長夜は絶命した男を引き上げ、盾になるようにして最後の1人に銃を向けた。

 深々と肩に矢を突き立てた男が、入口に向けて拳銃を乱射している。長夜は機械的にトリガーを引いて仕留めた。

 倉庫内が静かになると、入口の陰に隠れていた恭也も恐る恐る入ってくる。

「……あの、大丈夫ですか? さっき撃たれてたような……」

「ん? なんだ、よく見えてたな」

「ええ……向こうからちょうど見えましたから」

 長夜はコートの裾を軽く払って答える。

「こいつは特注だからな。防弾ってわけでもねえが」

 言って歩き出そうとしたところで――視界の端にあるもの見つけて固まった。

「どうしました? ……え……あれは………」

 戦闘の際に破れた革袋から、その中身がわずかに露出している。

 それは、人の手のような―――

「――まさか」

 恭也が紐を解く。するとバラバラに分割された人体がこぼれ落ちた。

「し、死体………いや、これは」

「人形だな」

 言われて見れば切断面が綺麗すぎるし、血液が流れていないのに脈打つかのように生々しい。

 しかしそうすると逆に、その精巧さが異様だった。

 肌の弾力、柔らかさ、それに全身のうぶ毛までが見事に作り込まれている。こうして分割されていなければ、人間とまるで違いが分からないだろう。

「こいつは人形遣いが操るための物だな。資金集めの一環だろう……大方、使い捨てのきく人的資源ってとこか」

「なるほど……しかし、こんなものを造るには相当の技術が……割に合うんでしょうか?」

「さあな。だがローコストには違いない。世の中には居なくなっても問題ない奴らはごまんといるからな」

「………え? それって……」

 さらっと口にしたが、妙にひっかかる語句があった。

 長夜は事もなげに言う。

「そいつの材料は人間だ。道に外れた連中は、だいたいこのあたりから始まる」

「―――――っ」

 恭也は周囲を見渡した。

 まさかここに散在している箱や袋は、みんな"そう"なのだろうか………

「……行くぞ。ここにはもう用はない」

 陰鬱な空気を振り払うように、長夜は倉庫に背を向けた。




 残っていた2人を探して始末すると、長夜は一息ついた。

「……これで上の階は終わりか。15……6人……常時これだけの警備とはな……なんてえチキン野郎だ」

 辟易した様子が伝わってくる。

 それに鮮やかな手並みを見せられて、つい見逃してしまいそうだが、よく見れば肩の上下も激しい。ここに来る前の屋敷でも戦っていたのだから、疲れが溜まって当然だろう。

「大丈夫ですか? 休憩は……」

「気遣いはしなくていい。時間もないしな……いくら民家と離れてても、こんだけ騒げば通報があっておかしくない」

 悠長に休んでいる暇はないということだ。

 とはいえ長夜には疲れが見えるものの、表情や態度にはまだ余裕があった。

「まあ、情報通りならこの先に警備はいねえ。ここを守ってる連中は下で何をやってるのか知らんらしい」

 恭也はなるほどと納得する。確かに魔術師の工房を守るにしては、魔術を見たことのない者の反応をしていた。

 拳銃を所持していることから一般的な警備員ではないだろうが……極道者か何かか。少なくとも魔術についてはさっぱり知らされていないのだろう。

 と、話しているうちに2人は扉に突き当たる。

「ここだな」

 途中で拝借した鍵を使って扉を開く。

 扉の奥は、意外にもごく普通の階段になっていた。あまり出入りがないのか靴跡で汚れておらず、真っ白な壁は充分な灯りで照らされている。

 長夜は躊躇なく足を踏み入れた。恭也もそれに続く。

 カツ、カツと靴音が響かせて地下に降りる。

 思ったよりも長い。魔術封じが敷地すべてを覆っていなかったのは、術の基点が地下深くにあるからか。

 思考する余裕が出来たことで、恭也は今さらながら、自身がしていることの危うさを感じていた。

 この階段を降りた先には魔術師が待ち構えているのだ。そんな中で自分は魔術が使えず、手には一発限りの飛び道具があるだけ。少しでも客観的になれば、心許ないというレベルを超越していることは明白だった。

 そんな不安に駆られる恭也へと、前を行く長夜が思い出したように聞いてきた。

「そうだ。お前、魔術封じが何なのか知ってるか」

「え? それは――マナの枯渇、ですよね?」

「ああ。魔術師は自身のオドを媒介として、外界のマナを使用して世界に働きかける。それが魔術だ。故にマナのない場所では魔術を使えない。……広義に言えば他にもあるが、基本的に魔術封じと言ったらそうだ」

 魔術師ならば誰もが知っている当然の常識だ。

 "魔力"と呼ばれるものには二種類あり、"自分自身の魔力"であるオドと、"それ以外の魔力"であるマナ。

 人間1人の持つオドに比べてマナは無尽蔵と言えるほどもあり、魔術によって使用される魔力のほとんどがマナになる。術者の使うオドは、爆弾における起爆剤のようなものだ。

「だが、ひとつ教えておいてやる。マナがなくても人は魔術を使える」

 そこで長夜は足を止めて、肩越しに後ろへ目を向ける。

 厳しい目が恭也の顔を覗き込む。まるで少年の覚悟を試すかのように。

「それは………オドだけで……魔術を使うということですか?」

「そうだ。死ぬ気でやればマッチ1本分くらいにはなるだろう。間違えれば本当に死ぬがな……一応、覚えておけ」

 恭也はごくりと唾を飲んだ。

「………はい」

 死ぬ気でやってそんな程度では、きっと何にもならないだろう。

 額面通りに受け取る必要はない。要は「死ぬ覚悟を持て」、そして「ほんの少しの足しにしかならないことでも最善を尽くせ」と、つまりはそういう事だ。

 ………だが……いざとなったら本当に………。

 心を落ち着ける。覚悟は出来ていると自分に言い聞かせて、静かに息を吐く。

 その様子を見届けて、長夜は再び足を進めた。

 しばらくして階下に着く。

 2人の足先からは細長い廊下が伸びている。

 100メートルほど伸びた先には、少し重厚感のある薄青い扉。左右にも他に部屋があるのか、扉はないがいくつか長方形の孔が開いている。

「……少し離れてついて来い」

 長夜はそう言って片手に拳銃を携え、少しずつ、慎重に歩を進める。

 すぐに援護できるように恭也が注視して見守る中、長夜は順番に左右を覗き込んでいく。

「錬金術の工房か。………こっちは召喚術……」

 薬品棚と奇妙な形の魚が浮かぶ水槽が置かれた部屋。壁面にびっしりと紋様が描かれた部屋。ルーン文字が描かれた石や壷、窯がある部屋。6つの石柱が置かれた祭壇。

「ごった煮だな。手当たり次第に取り込みやがって」

 呆れたような長夜の声。

 後を行く恭也も軽く覗き込むが、あまりの統一性のなさに展示会でも見ているような感覚になった。

 そして長夜は突き当たりの手前、最後の部屋を覗き込む。

 人形工房だ。

 中央に手術台のような台があり、等身大の人形が作りかけのまま放置されている。周辺にもいくつかの人形が無造作に転がっていた。

「……チッ」

 視線を外して残った正面の扉へ向かう。

 後を行く恭也も当然、目にすることになる。その人の形をしたモノが何であるかを瞬時に理解して顔をしかめるも、今は考えないようにと思考の端に寄せる。

 しかし、視線を外す寸前に……ひとつの人形が目に留まってしまった。

「……まさか。いや、まさか………」

 長髪の少女の人形。暗がりにあってよく見えない。

「おい?」

 急に足を止めた恭也に気付き、長夜が声をかけた。

 無意識のうちに踏み出しかけていた恭也がビクリと停止する。

 気付いたのはその時だった。

「―――!?」

 部屋の中から上半身を伸ばした人形が、恭也の腰に手を回して捕まえている。

 そして信じられないパワーで恭也の体を部屋の中に引きずり込んだ。

「うわっ! うわぁぁあああっ!?」

「ちぃっ……!」

 長夜は入口に駆け寄る。が、そこで突然、自動ドアのように扉が現れて入口を塞いでしまった。

 ――罠にかかった。

 言うまでもない。長夜は即座に扉を蹴たぐる。びくともしない。

 銃弾も撃ち込んでみる。傷ひとつつかない。

 当然と言えば当然だ。こんな全く別系統の魔術工房が混在する場所で、それを隔てる壁がやわな造りをしているはずがない。

 ……さらに長夜の耳は別の物音を捉えていた。

 自分達が来た階段を、何者かが駆け下りてくる。

 それは人形だった。20、いや30体を超える人形の群れが津波のように押し寄せてくる。

「―――糞ったれが……!」

 長夜は悪態をついてコートの中から己が武器を取り出した。




 恭也は部屋の中で人形に引き倒された。

 へばりつくように抱きついているそれを引き剥がそうとするも、想像以上の怪力で動かすことができない。

 むしろ抱きしめる力はどんどん強くなって、このままでは背骨をへし折られてしまいそうだ。

 倒された時にクロスボウも落としてしまっている。すぐに見つけるが手を伸ばしても届きそうになかった。

「く―――このっ……!!」

 恭也は腰の後ろに手を回してホルダーから矢を抜き出し、人形のこめかみに思い切り突き立てた。

 これは人形相手にも効果があったらしい。それきりピタリと動きを止めた。

 その感触は、まぎれもなく生きた人間を殺したと同様だろう。恭也は吐き気にも似た感覚に身震いした。

 だがそれについて考える暇はない。すぐ近くの人形が襲いかかってきた。

 人形は両手を広げて覆いかぶさるように飛び込んでくる。

 恭也は転がって避けると、急いで立ち上がった。標的を外して床に飛び込んだ人形は、のそのそと起き上がって、恭也の居場所を確認すると再び猪のように突撃してくる。

「舐めるな――!」

 一直線の突進を軽いステップで躱すと、無防備な脇腹に足刀を蹴り入れた。

 さらに踏み込んで肘を敵の頭部に打ちつけ、流れるように顎へ掌底の打ち上げ、最後に体をひねって強烈な後ろ回し蹴りを叩き込む――!

 突き飛ばされた人形は器財に衝突して、派手に工具をぶち撒けた。

 見かけ以上に格闘戦に対応してみせる恭也。だが人形はすぐに何事もなかったように起き上がってくる。

「打撃は、だめか……っ!」

 横から襲ってきた別の人形を避け、逆にその手首を掴んで引き込みながら、同時に足を払った。

 人形はうつ伏せに倒れる。

 そこへ先ほど起き上がった奴が突進して来るが、これも素早く跳んで躱す。

 視界の端には他にも動き出している人形がいる。

 恭也は隙間を縫うように駆けると、床に落ちたクロスボウを拾った。

 そして近くで動いている人形に向けて狙いを定め……そこで恭也の動きが固まった。

 まっすぐ伸びた長い黒髪。白い肌。細い四肢、体躯。

 似ている。だが―――違う。

 だが引き金に指をかけた時にはもう遅い。少女の人形は恭也の腕を掴んでいた。

(しまった――!)

 慌てて引き金を引くも近すぎて射線が塞がれている。肩に突き刺さった矢を意に介することなく、人形は恭也を押し倒した。

 華奢な少女の姿をしているというのに、とんでもない力で掴まれている。恭也が全力で暴れても微動だにしない。

 さらにそこへ、他の人形たちまでもが覆い被さってくる――!

「あ――うあ、うわああああッ!!!」

 必死に体を振って抵抗する。だが全くの無駄だ。拘束する手は数を増やし、逆により強く押さえられて身動きが封じられてしまう。ついには人形の両手が恭也の首にかかって……

 その時、扉が弾けた。

 落雷のような轟音。圧倒的な力を――圧倒的な魔力の奔流を恭也は感じていた。

 覆い被さる人形達の隙間から、わずかに見えた姿。

 槍を携え、ゆらめく青白い魔力を纏った男の姿。

 全身を覆うオーラがまるで意思を持つように蠢いており、その姿に恭也は十二本の腕を持つ軍神の名前を思い出していた。

 長夜はざっと部屋の有り様を一望する。

 そこからは早かった。かき消えるようなスピードで恭也のもとへ走り、槍のひと突き、ひと薙ぎで群がる人形たちを吹き飛ばしていく。斬る、突くというよりまさに吹き飛ばすといった具合に、ほとんどは原形を留めず壁に張り付く奇怪なオブジェと化していく。

 暴風のような掃除は、ただのひと息で行われた。

 気付けば長夜柾人の体からは魔力が消え、槍は元通り仕舞い込まれていた。

「立てるか」

「あ……ゴホッ、だ、大丈夫です。その……」

 今の光景は何か。

 と言いそうになったが、やめた。

「なんだ?」

「いえ……ありがとうございました」

 代わりにクロスボウを拾い上げて矢を装填する。

 聞く意味がないことは聞かない。こんなところで止まっているわけにはいかないのだ。

 恭也は部屋を出た長夜に続く。

 途中、思わず振り返りそうになるが、その衝動を堪える。

 通路に出て床に敷き詰められた肉塊に出迎えられても、思考することを避けて先を行く男の背を追った。

 そうして大量の屍の山を越えて、少年と男は目的の場所に辿り着いた――




 そこは魔術師の工房というよりは、研究室と言った方が似合う部屋だった。

 部屋はそれなりに広く、奥までは100メートル以上ある。用途の分からぬ器財が所狭しと置かれている。

「止まり給え」

 2人が部屋に足を踏み入れた瞬間、その言葉が飛んできた。

 声の発生源は部屋の中心から。まず目に入ったのは――未成熟な少女の裸身。清楚な印象のする少女が、一糸纏わぬ姿でこちらに向かい立っている。

「結歌!!」

 恭也は叫んで飛び出しそうになるところを、ぐっと堪えて踏み留まった。

 少女を盾にして隠れる何者かが、手にした小刀を少女の首筋に添えている。

 少女は自分の足で立ってはいるものの、心ここにあらずといったふうにぼんやりとしている。

 恭也は隠れている男に声をかけた。

「……結歌に何をした」

 男は少女に身を隠したまま応える。

「ふむ、断りもなく人の工房に踏み込んできて、開口一番質問とは……近頃の若者は教育がなっておらんな。そう思わんかね、そこの御仁」

 少々しわがれているが、声量があって聞き取りやすい声。刃物を持つ手の皺や、少女の小さな輪郭からはみ出た白い髭から、男がだいぶ歳のいった老人だということが見てとれた。

「いい歳こいて乳臭いガキを攫って裸にひん剥いてる大人も、たいがいだと思うがな」

「呵々、これはしたり。だが勘違いはしないで貰いたい。作業中に侵入して来たのはお主らなのだからな。我が魔術には余計な衣服や思考は邪魔だった故、省いただけの事。この娘は珍しい素質で苦労したが……それもじきに終わる」

「経路複写か」

 長夜の放った単語に、老魔術師がピクリと反応した。

「ふむ……知っておったか。この娘の縁故のようだが……なるほど、あの男に譲った女を伝って来たのだな。そうか、それならば提案がある」

 ここにきて怪しさ満点な話だが、人質を取られている以上は迂闊なことはできない。2人は黙って耳を傾ける。

「お主らはこの娘を助けに来たのだろう? そこでだ、お主らの魔術と引き替えに、この娘を引き渡そう」

「魔術と引き替えに――?」

 それがどういう意味を持つのか、恭也もここまでの流れで薄々感じ取ってはいる。が、具体性が見えないうちは簡単には頷けない。

 そんな恭也に長夜が説明する。

「完全複写経路――他人の魔術をコピーして自分のものにする禁呪だ。複写経路は特定の魔術を使用した際の、オドの通る流れを解析して、それを自身に複写することで同等の魔術を使えるようにするものだが……完全複写経路は、対象の持つ魔術すべてを複写する」

「左様。なに、禁呪などと呼ばれているが危険はない。魔術を奪うでもなく、複製するだけじゃからの。まったく、このような術を使わずに秘匿しておく連盟や魔術科連中の気が知れぬ」

 確かに……ここまで話を聞いた上では、これ以上ない便利な代物だ。

 しかし禁忌を犯した魔術師に対する、長夜柾人の視線は厳しい。

「……本来、複写経路はただ一つの魔術に対しても、身体の多くを犠牲にするものだ。普通は他人の経路を取り込みなんぞしたら拒否反応を示す。失敗すりゃあ肉が腐って、最悪の場合は死に至る。成功しても馴染むまでには、普通なら発狂するほどの苦しみに耐え抜く必要がある。……そんなにうまい話はねえんだよ、世の中な」

「しかしそれを可能にするものがある」

 そう言う老人の声音は得意げだ。

「簡単に言えば層を厚くすれば良いのだよ。自身の上に層を形成し、そこに経路を刻む。これならば層を増やすことで幾らでも経路を増やすことが可能だ」

 事もなげに言う。

 恭也が自分の中でまとめると……つまりは、自分のパソコンに入らないから外付けのハードディスクに移して、好きな時にそこから引き出すようなものか。

 しかしそう簡単な話ではないと、長夜の顔が告げていた。

「その代償に、自分自身も層の一つとして固定される……。そうなると、もう後から変化がきかねえ。早い話、自分で新しい魔術を習得できねえ。……それだけじゃない。魂も……精神も変わることがない。変化しないってことは成長も退化もない。朽ちて動かなくなるまで、ただ今現在の思考に沿って、肉体を動かすだけの存在となる」

「それの何が問題なのかね? 魔術師の目的とは真理を得ること……他に何も考える必要はない筈」

 老人の口調には微塵の揺らぎもない。

 己の価値観に絶対の確信を持った台詞だった。

 長夜の口元が皮肉げに歪む。

「成る程、こいつは本物の魔術師だ」

 恭也には、その言葉の真意は分からない。曖昧なニュアンスが伝わるのみだ。

 だがそれだけで認識としては充分。

 要するに自分たちの敵は………もはや人間ではない、ということだ。

「では答えを聞かせて貰おう。……どうするかね?」

「―――っ」

 どうもこうもない。いくら危険がなかろうと、その後に身の安全を保証するものがない。

 用済みとなれば生かしておく理由もない。そのまま始末されるか、あるいは――恭也の師、紗宮百木里のように何処かへ売り渡されるか。いずれにせよ、ろくなことにはなるまい。

 ……だが、しかしそれでは――――――

「ふうむ……そこな少年は思い違いをしているようじゃの。ならば教えて進ぜよう」

「え……?」

 部屋の奥で何か動くものがあった。それが花瓶だと分かった瞬間、勢いよく破裂し、膨張した植物が恭也に襲いかかる。

 植物の蔓は一瞬にして恭也を引きずり倒し、クロスボウが床に投げ出された。

「く、っ―――魔術が……どうしてこの中で魔術が……!」

 先ほどの人形たちもそうだ。魔術封じがなされている場所で、どうして魔術が使えるのか。

「魔術が使えるのが不思議かね? しかしそれは、そこの男もそうではないか?」

 ――そうだ。隔壁を打ち破り、群がる人形を紙屑のように打ち払った男。

 あんなものは魔術以外に有り得るものではない。

「……………………………」

 長夜は答えない。

 事ここに至っても、自身に関する事には沈黙を守り通す――その姿に恭也は、どこか不吉な予感を感じ取っていた。

「――解せぬ。解らぬ。理解が出来ぬ。なぜ魔術が使える? ここには儂以外の者が使えるマナなどありはしない――何故だ?」

 この問いは恭也にとっても興味があった。

 また同時に、老魔術師の言にもひっかかるものがある。『儂以外の者が使えるマナなど』――?

 長夜がにやりと笑った。

「地域のマナを枯らして魔術を使えなくするのが魔術封じ……だが、それより一歩進んで『地域のマナを自分だけが使えるようにしたら』と考えた男がいた。二十年に及ぶ根気強い研究の末、ついには実現に至る……しかしその術式はあまりに危険と判断され、賞賛を得ることなく、男の研究結果は闇に葬られることになった……」

「……………………」

 今度は老魔術師が沈黙する番だった。

 長夜は続ける。

「そうして男は組織に見切りをつけて野に下る。一般相手に魔術を売って研究資金を確保し、禁忌とされた魔術を用いて思うがままに研究を行う外道の魔術師となった。その男の名は………」

 重苦しい静寂の空気。

 たった三秒ほどの間に膨れ上がった緊張感。

 それを破裂させる一言。

「――篠森篤志、お前だ」

「そうか。貴様、志我崎の手の者か」

 老魔術師――篠森篤志の放つ空気が変わった。

 余裕を抱いて飄々としていた部分がなりを潜め、明確な敵意を露わにする。

「禁忌などと――くだらぬ体裁に縛られ、魔術師の本懐を見失った愚か者めが! 魔術師の統制だと? 総連の走狗となって探究の道を縛り、それで何が成せるというのだ! 官憲気取りども……貴様らに儂を裁く道理などあるものか!!」

 憤りを交えて糾弾する篠森。

 対する長夜の返答は、実に冷え切ったものだった。

「知ったこっちゃねえな」

「―――なに?」

 侮辱と受け取ったか、篠森の気配がざわめく。

 しかしそれを揶揄するでもなく、淡々と……ただ淡々と……長夜柾人は語る。

「禁忌がどうだ、真理がどうだ、総連がどうだ、志我崎が何を考えていようが、俺には何も知ったこっちゃねえ。罪とか、裁くとか……お前が今まで何人殺してきたかも、俺にとっちゃどうでもいい。俺がここにいる理由は一つだけだ」

「………その理由とは?」

「お前を放っておいたら、人が死ぬ。だからここでお前を殺す」

 シンプルな――ひどくシンプルな解答だった。

 過去も、現在すらも考慮に値しないと。

 ポジティブな思考と言うにはあまりにも……あまりに単純すぎて、人としては異様な理由。

「……なんだそれは? 正義の味方のつもりか?」

 篠森は拍子抜けしたようだ。

 彼の価値観からすれば、およそ想像すらできない話だ。とはいえ先の口上から、虚言めいた響きを感じ取ることもできなかった。

 長夜にとっては、そんな反応は予測の上だったのだろう。皮肉げに口の端を歪める。

「ああ、そうさ」

 長夜は答えた。答えながら……一歩、前に踏み込んだ。

 その行為に、他の2人の男はぎくりとした。

「――止まれ」

 篠森の警告。無視してもう一歩進む。

「糞ったれな正義の味方だ」

「止まれと言っておるだろうがァーーーッ!!!」

 篠森の発した怒号が、魔力を伴って爆発した。

 衝撃波を受けて長夜の体が壁に叩きつけられる。

 続けて篠森が何事か呪文を唱えると、彼の背後の虚空から、人の頭ほどの大きさをした5匹の羽虫が出現した。いずれも顎の部分に二本の鋭利な牙を持っている。

 篠森の指令を受けて、羽虫が一斉に長夜へ襲いかかる。

「ちぃっ……!」

 長夜は一息の連射で3匹を打ち落とす。だが残り2匹は間に合わない。そこで大きく左に跳んだ。

 飛び込み前転をするように地面を転がる。ちょうど一回転で体を止め、同時に今いた場所へ照準――発砲。……残り1匹。

 既に目の前まで迫っている羽虫に対し、少しでも時間を稼ぐために後方へ跳躍――しようとしたところで、不意に足が引っ張られてバランスを崩す。

 いや、引っ張られたのではなかった。靴が氷漬けになって、床に張り付いている。足下ではルーン文字が光り輝いていた。

 銃を持つ右肩へ、羽虫の牙が食らいつく。

「くっ――――そが……ッ!」

 長夜は左手でコートの内側にある槍を掴んで、連結させずにそのまま肩口の羽虫に突き立る。

 そうして肩から引き剥がして地面に打ち棄てた時には、既に周囲は植物の蔓に囲まれていた。

 逃げ場はない。長夜は巨大な蔓に拘束された。

 拳銃もむしり取られて、遠くに投げ捨てられる。

「お主らにも解るよう教えて進ぜよう……儂は領域内の魔力をオドとして扱うことが出来る。故に詠唱も要らず、好きな時に好きなだけ魔術を使えるのじゃよ。優越を理解したかね? 娘を盾にしたのは話を潤滑に進めるために過ぎぬ。しかし……」

 篠森篤志の目が、すっと細められる。

「……解せぬ。なぜ魔術を使わぬ? 貴様の魔術をもう一度見せてみよ。儂の知らぬ魔術を見せてみよ……」

 確かに不可解だった。警告を無視して挑みかかるかと思えば、魔術を使わずに敵の攻撃から身を守るだけ。これでは単に人質を危険に晒しただけではないか。

 恭也は歯噛みする。自身の無力さに。魔術封じさえなければ、何か出来ることがあるかもしれないというのに……今の自分は、こうして無様に拘束されて、這いつくばるしかできない。

 ……しかし、仮に自分が魔術を使えたとして何ができるだろう? この植物を操る魔術は紛れもなく師のものと同じ。それだけでも戦力差は明らかだ。そもそも、人質がいては自分は………

 そこで恭也は気付いた。立ち位置が変わっていることに。

 敵の攻撃を避けつつ、左側に移動した長夜。

 長夜を警戒する篠森は、"長夜から身を隠すように"人質の少女を盾にしている。

 ――射線が、空いた。

 長夜もそう大きく動いたわけではない。相手との距離もあるし、せいぜいが恭也から見て老人の顔半分が見える程度。

 敵との距離は約50メートル。長夜のように射撃に慣れている者ならいざ知らず、容易い距離ではない。ましてや機会は一度きり。

 それでも……やるしかない。

 恭也は精神を集中する。凝視するのは、目の前に転がるクロスボウ。まずはこれに魔力を伸ばす。

「――――――!?」

 一瞬、意識を失いかけた。

 体内の魔力が一気に失われたことで、強烈な吐き気と悪寒が全身を襲った。

 本来は場に魔力を浸透させるために詠唱をするが、今はそれもできない。必死に奥歯を噛んで、身を削るように魔力を通していく。

(半分――いや―――そんなに残っているのか――?)

 魔力とは生命力だ。使い切れば人は死ぬ。

 果たして自分の魔力は足りるのか……そんな、浮かびかかった疑問は思考の外にかなぐり捨てた。

 ……やるしかないのだ。

 目標に射るには照準を定めなくてはならない。

 クロスボウを動かす。音をたてず、かつ迅速に。

 普段なら造作もない事が、まるで枷をつけて断崖を登る苦行だ。1ミリ進むごとに身体の感覚が薄くなってくる。

 ようやく持ち上がった頃には、既に限界だった。狙いをつける以前に引き金を引けるかどうかも怪しい。

 それでも……霞がかった目で的を見る。

 狙いやすいのは肩。だが、一発で仕留める必要がある。

 だから狙うのは……そう………頭………顔だ。

 朦朧とした意識の中。歪んだ景色の奥。

 そこに、恭也の目が捉えた。ただひとつ、かけがえのない少女の顔を――――

 刹那の瞬間。霞が消え去り、世界のすべてが鮮明になった。

 ―――撃つ。

 解き放たれた矢は淀んだ空気を突き抜け、目標までの50メートルを0.5秒で走破する。

 必殺の念を込めた矢は、少女の横を過ぎ去り、そして―――

「……グウゥッ!!」

 目標のこめかみを抉って、後ろに流れた。

 篠森は頭から血を流してよろめく。だが致命傷ではない。憎悪の灯った瞳が恭也を睨めつける。

 恭也の視界が絶望に染まる。そこに一発の銃声が響き渡った。

「ぐおぉっ! きっ、貴様らっ……!」

 長夜だ。銃は一丁だけではなかった。素早く袖の下から取り出し、驚き体が流れた篠森へと、すかさず弾丸を放ったのだ。

 銃弾は篠森の肩に。たたらを踏んでのけぞった。だが、やはり致命傷には遠い。

 そこへ遂に解き放たれる。

「降魔―――カルティケーヤ!」

 長夜の体から青白い魔力が噴き出る。

 拘束していた氷や蔓が弾け飛んだ。分割されていた槍は、魔術の発動と同時に繋ぎ合わされている。

 ――翔た。駆けるとは言えない。一足飛びに50メートルの距離を飛び越えた。

 不意を打たれた篠森は反応できるはずもなく……長夜の槍は狙い違わず、老魔術師の心臓を貫いた。

 さらにそれだけでは終わらず、

「―――ゲイ・ボルグ!!」

 一切の容赦なく、長夜は駄目押しの魔術を放った。

 肉体に入り込んだ槍は内部で30本の棘となって破裂し、敵の心臓を内側から完全破壊する。

 篠森の体がビクリと震え、口から大量の血が吐き出された。

 ………終わった。

 もはや限界に近い恭也は、安堵に意識を失いそうになる。

 長夜も大きく息を吐いて、篠森の体から槍を引き抜き、床に崩れ落ちた少女に手を伸ばす。

 ―――だが、その時だった。

「な……に……!?」

 少女を中心に、世界が歪んだ。

 そう見えたのは一瞬。次の瞬間、虚空から植物の蔓が出現し、長夜の槍を絡め取る。

 蔓はさらに増殖し枝分かれしながら、長夜の腕に這い上がっていく。

「――――くそったれが……ッ!!」

 長夜はとっさの判断で槍を手放した。背後に跳んで距離をとる。

 ぎり、と奥歯を噛んで睨みつけた。心臓を貫かれて血だまりに沈む老魔術師ではなく――その隣で、ゆっくりと立ち上がった少女を。

 少女の唇が動く。呪詛のように言葉が漏れた。

「なんということだ――おお、なんということを―――我が肉体が―――儂の積み上げてきた研究が水泡に―――おお、なんということ――なんということだ――――」

 高い声音は明らかに少女のものでありながら、その口調、独特のイントネーションは紛うことない――篠森篤志のものだった。

 恭也には何が起きているのか分からない。ただ呆然と少女を仰ぎ見る。

「ふん……この娘に術式の準備をしていて助かったわい。咄嗟に層を移したものの……間に合ったのは儂の核だけか。他の層は取り戻せぬ。じゃが、しかし、まあ……」

 少女は……いや、少女の体を乗っ取った篠森篤志は、悠然と右手を掲げ―――

「解析は9割方終了しておる。この娘の力があれば、貴様らの息の根を止めるには充分であろう」

 再び歪みが生じる。

 十数本の蔓が現れ、長夜に襲いかかった。

 拳銃一丁ではどうにもならない。為す術もなく蔓に捕まって、四肢を締め上げられた。

 長夜は苦痛に顔を歪めながらも、驚きに目を見開いている。

「馬鹿な……マグス・オブ・アルケーだと……?」

「うむ、儂も見つけた時は驚いた。四元生成者なぞ儂ですら見たのは初めてよ。しかしいくら珍しくとも、オドでしか賄えぬ魔術など普通は使い道があるまい。……普通はな」

 篠森篤志は少女の顔で傲然とした笑みを浮かべる。

 恭也は困惑していた。

 四元生成者――マグス・オブ・アルケー。

 その存在だけは師から聞いていた。四大元素を操るのではなく、"生み出す"ことのできる者。非常に希有な資質であり、この力を持つ者は魔術連盟に保護という名目で監禁されるのだという。

 だが恭也は結歌がそんな能力を持っている事を知らなかった。

「この領域内のマナは、すべて儂のオドとして機能しておる。つまり儂なら使い放題だと言う事だ。そう、このように――!」

 篠森が腕を振ると同時に、今までにない大きな歪みが発生。次々と虚空に植物が生み出されると、瞬く間に部屋中に広がっていく。

 やがて隅々まで根や茎が覆い尽くし、たった10秒かそこらで地下室はジャングルに早変わりしてしまった。

「うぬ……しかし、この娘は植物しか作り出して来なかったのか……花なんぞを作って一体何になると……まさに宝の持ち腐れよ。それよりも儂は貴様の魔術の方が興味深い」

 そう言って、長夜のもとへ近付いていく。

 恭也は必死に考えた。どうすればいいか。何かできることはないのか。

 槍を……槍を動かせればどうにか………。駄目だ。立ち上がるどころか指一本動かすこともできない。たとえ残ったオドを使い切ろうと無理なものは無理だ。

 ……そもそも、槍を取ってどうするというのか? 刺すのか? それとも、あの男に魔術を使わせるのか? ――結歌に対して。

「………………………」

 駄目だった。

 何も……思い浮かばない。

 そこへ、諦めの言葉が投げかけられた。

「……………終わりだな」

 拘束された長夜だった。

 恭也は違和感を覚えた。先の言葉には、確かにある種の諦念が込められていた。にも拘わらず、彼の目は冷たい。恐怖や焦り――追い詰められた者の雰囲気が感じられない。

 男は恭也のことなど見てはいない。その瞳はただ、敵の姿だけを捉えている。

 氷のように冷たく――刃のように鋭い視線。

 それは純然たる殺意。

 ……そして志司間恭也は、その言葉を耳にした。

「長夜柾人……それが俺の名前だ。覚えておけ」

 篠森が足を止める。

「それがお主の辞世の句か………良かろう」

 ―――違う。

 恭也は這った。正確には這おうとして体を震わせただけだった。もはや声をあげるだけの力もない。

 それでも全身を駆ける予感……そして悪寒から、前に進めと身を突き動かした。

 恭也には分かる。男が……長夜柾人が諦めたのは、自分の命でも、ましてや恭也の命でもない。別のものだ。

「降魔―――」

 長夜は唱える。

 槍はない。徒手だ。

 彼の槍は部屋の中央で、植物の柱に埋もれている。

「―――ブリューナク」

 雷が降りた。

 そうとしか表現できない。突如として地下室に顕れたのは……雷そのものだった。

 周囲の植物を弾き飛ばした雷は、部屋の中央で己の存在を誇示するかのように、燦然と光り輝いている。

 それは兵器だった。ただ破壊することのみを目的とした、神の兵器。

 収まらぬ力は、部屋中の植物を気ままに焼き切っている。

 電光は太陽のごとく地下室を照らす。目を開けることすら困難な中で、しかし目をそらすこともできなかった。


 ――ブリューナク。

 太陽神ルーが所持したと言われる、灼熱と稲妻の槍。

 それは自らの意思を持ち、自動的に持ち主の敵を貫くという――


「オ―――オオ――――――」

 篠森は目を見開いて凝視する。その目に映るのは恐怖ではなく、感動だった。

「――や―――め―――――」

 恭也は少女のもとへ手を伸ばす。その目に映るのは焦燥と絶望だ。

 篠森が叫んだ。

「解らぬ。理解が出来ぬ。なんだその魔術は。儂の知らぬ魔術――教えろ。その魔術を儂に―――!!!」

「死ね」

 雷が奔る。

 貫くものの意を持つ槍が、一直線に少女のもとへ飛来する。

 篠森は植物を生み出し続けて防壁にする。しかしその悉くが一瞬で蒸発した。

 そうして稲妻の槍は―――少女の細い体を貫いた。

「――――――――――――!!!!」

 声にならない叫びをあげて、必死に手を伸ばす恭也の目には、その光景がはっきりと目に焼き付けられた―――




 圧倒的な破壊が過ぎ去った後。

 雷の槍は標的を貫いただけでは飽きたらず、部屋中の植物を食い散らかすかのように暴れ回り、ようやく収まった頃には地下室は完全な廃墟と化していた。

 そんな部屋の中心に、志司間恭也は這った。

 そうして辿り着いた彼は……少女の亡骸を抱え上げた。

「結歌…………」

 陶器のように白く透き通った顔。あの暴威の中で少女の体はほとんど傷を受けていなかった。

 だが――腹部の大半をなくしては、どうにもならない。

 恭也は呆然と少女の顔を見つめている。どうしてこんなことに―――頭に浮かぶのは、それだけだった。

 その時、少女の目が動いた。

「―――っ! ゆ……結歌!?」

 その瞳は微かな……しかし確かな光を携えて………恭也の顔を映し出している。

 少女の唇が震える。恭也は食い入るように凝視し、耳を澄ませた。


 ―――ごめんね


 それきり、少女が動くことはなかった。

 生命の輝きを失った瞳は、もう何も映さない。

「あ………あ…………ああ……!」

 恭也はその手に感じ取っていた。

 少女の体にわずかに残っていた魔力が……たった今、完全になくなったのを。

「あ――――うあああああああああああああああああっ……!!!!」

 少年の慟哭が、荒れ果てた地下室に響き渡った。




「立て。ここは危険だ」

 嗚咽が収まったところで声がかかる。

 恭也は少女を両腕に抱きかかえたまま、声のした方に顔を向けた。

 見えるのは入口に向かって歩く男の背。

「僕は…………僕は……あなたを認めない……」

 開け放たれたままの扉の前で、長夜は足を止めた。

「あなたのやり方を………僕は絶対に認めない……!!!」

 絞り出すような恭也の声。

 長夜は何も応えない。振り返りもしない。

 ただ無言で背を向けたまま………再び歩き出し、すべてを終えた地下室を後にした。




 外ではもう、朝焼けが差し始めていた。

 目を細める長夜を一人の男が待ち受けていた。

「ご苦労様でした。さすがですね……まさか一日で終えるとは」

 三十代半ばくらいの、長夜と同世代の男性だった。しかし外見からは長夜とは正反対の印象を受ける。ゆったりとしたドルイド風のローブを痩身に纏い、線が細く頼りない風貌に、人の良さそうな笑みを浮かべている。

「……志我崎。来ていたのか」

 志我崎稔。

 誰あろうこの優男が、日本全国の魔術師を管理する、護国総連魔術科の主席である。

 そして長夜柾人にとっては古くからの友人で……雇い主でもある。

「ははは、友人を働かせておいて、自分が寝ているわけにはいきませんよ」

「……………………」

 あまりの白々しさに、長夜は返す言葉がない。

 この男は理由もなしに、こんな人目につく格好で出歩く男ではない。仮に長夜が失敗していれば、"局地的な災害"によって決着をつけようとしていたのは明白だ。

 ……それでも、篠森篤志を放っておく方が被害は大きいだろう。故にそれに関して、長夜から言う事はなかった。無言で志我崎の隣を通る。

「しかし貴方にしては珍しいですね。なぜ見逃したのですか?」

 長夜が足を止める。志我崎が言うのは、地下に残してきた志司間恭也のことだろう。

 志我崎が続ける。

「貴方の魔術は、公には確認されていない"人の想いが集まる場所"から力を降ろしてくる……それゆえ、貴方の知名度が上がれば力も上がる。しかしこの稼業で名前が売れるリスクを避けて、これから死ぬ者だけに名を刻んできた……私はそう解釈していましたが、違いましたか?」

 仮定口調なのは、志我崎も降魔術の詳細を知らないからだ。

「………さあな」

 相手が友人であっても、自身の魔術に関しては明かさない長夜だった。

 そうして再び歩き出そうとしたところで……

「今どき珍しい好青年だ。――昔を思い出しますね」

 突如、長夜の腕が翻った。一瞬で槍を組み立て、志我崎の喉元に突きつける。

「お前が何を企んでいようと知らん。だが、お前が道を外れた時は―――俺が、お前を殺す」

 突然の行動と脅し文句に、しかし志我崎はこれっぽっちも動じる様子がない。

 むしろ薄く笑みさえ浮かべている。

「重々、承知していますよ」

 わずかな視線の交錯。

 もとより長夜に殺気などない。すぐに槍を戻して、今度こそ敷地の外へと歩き出した。


 ――長い夜が明けた。

 これは少年と男が邂逅した夜の物語。

 これから二年の後、2人はもう一度巡り合い、血塗られた夜に死闘を演じることになる。

 ただ今は、少年の嘆きが深く地の底に沈みゆくだけで―――

 男は、夜を待つ日々へと戻っていく。

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