3話 記憶に残りにくい身の上

──持ち逃げしてしまった。

 そう気づいたのは、翌朝、薄暗い講義棟に足を踏み入れた後だった。

 理学部の講義棟は学内でも屈指の日当たりの悪さを誇っており、夏でも初秋でも大抵ひんやりとしている。

 昨夜は自分のアパートに帰り着いた所で気が抜けてしまって、兄に連絡する事も出来ず、何十分も床に座り込んでいたが、とりあえずシャワーを浴びて汚れた服を着替えよう、と思い立って実行してみると、髪を乾かしている間にあっさりと眠気に襲われた。そのまま一晩眠り、翌朝、いつも通りに講義に出席する事にした。一限の生物統計学を担当している棚田たなだ教授が気難しい性格で、欠席した事で彼の心証を損ないたくなかったという思いもある。

 講義室の前まで来ると、入り口に見慣れない女子生徒が集まっていた。

 人を探しているのか、眉間にしわを寄せ、背伸びをして講義室の中を覗き込んでいる。パステルカラーのパンプスが、くすんだビニル床を花弁のように彩っていた。

 一瞥して、見た事のない顔ぶればかりだったので、生物統計学を受講しに来たわけではなさそうだ、と利玖は推測する。この講義を受けに来る生徒の内訳は、毎年、必修単位に指定されている生物科学科の学部二年生が八割、残り二割が単位を落として再履修になった上級生と相場が決まっている。その二割の内、約半数は、名簿上では実在するもののまれにしか姿を見せないという、レッドリストに掲載された絶滅危惧種じみた生態をしている。

「失礼……。ちょっと通ります」

 そう声を掛けると、彼女達はちゃんと反応して道を空けてくれたので、利玖はほっと胸を撫で下ろした。襟付きのシャツの下には、昨夜、熊野史岐から渡されたチョーカーを着けている。

 利玖が席に着いた後も、女子生徒達は入り口にとどまっていた。

 入室している学生がまだ二、三人しかいない事もあって、やけに自分に視線が向けられている気がする。だが、それはここ一年で慣れた事だったので、たいして気にならなかった。

 何せ、とにかく小柄で、顔立ちも幼い利玖であるので、実家から持ってきた淡い色のブラウスやワンピースを着ていると、頻繁に学内見学希望の高校生か、時には中学生と間違われてしまう。それがうとましくて早々にピアスを開け、ボーイッシュな服装に切り替えたのだが、背の低さは誤魔化しようがないので、未だに奇異な目で見られる事が多い。

 足をぶらぶらとさせながら講義中に取ったノートを見返していると、後ろの入り口から女子生徒が一人入って来た。

「おはよう、利玖。……あら、何だか顔が白いわね。大丈夫?」

 利玖の隣に着席したのは、同じ生物科学科二年生の阿智あち茉莉花まりかだった。

 赤みがかった髪をすっきりと一つにまとめて、花の刺繍を胸元にちりばめたブラウスを着ている。今日のマニキュアは、まぶたにほんのり乗せたアイシャドウと同じく肌馴染みのよいコーラル・オレンジだった。

 茉莉花は、足元に置いた鞄の中を探る振りをしながら、こっそり利玖に訊ねた。

「昨日、熊野史岐と二人で話してたって本当?」

 利玖は、ぎょっとしたが、その一言で入り口の人だかりについて合点がいって、どっと疲れを感じた。なるほど、あの見た目であれば、いくら異性からの好意を集めても集め過ぎるという事はないのだろう。難儀な体質である。

「彼の落とし物を拾いまして。その流れでちょっとした身の上話を」

「あ、そう……。身の上話ね」

 まだ廊下に立っている女子生徒達を見て、利玖は、もうすぐ九時になるが、彼女達はそれぞれの講義室に向かわなくていいのだろうか、といらぬ心配をする。

 やがて、講義室には続々と生物科学科の学生が入ってきたので、茉莉花は「続きはスマートフォンでしましょう」と言って口を閉じた。

『熊野史岐というのはどういう人物なのですか?』

 すました表情でスマートフォンに目を落としていた茉莉花の口から、へ、と気の抜けた声が漏れる。

『あなた、身の上話したんでしょうが』

『記憶に残りにくい身の上だったようです』

 茉莉花のアカウントから、デフォルメされたネコのキャラクターが腕組みをして唸っているイラストが投下される。

『わたしも噂でしか知らないけれど、付き合っていた女の子にひどい振られ方をして、その日の夜には、もう次の女の子を口説いていたとか』

『なんと。ずいぶんと生き急いでいる方ですね』

 茉莉花は一瞬、入り口の方を見て、素早く指を動かした。

『その口説かれた女の子があなただって言ってるのよ。あそこのギャラリーは』

「……えっ」

 今度は利玖が声を上げる番だった。

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