舞いあがる五月 Soaring May

梅室しば

1話 声を食む毛玉

 佐倉川さくらがわ利玖りくは、ほろ酔い機嫌で潟杜かたもり大学構内を歩いていた。

 夕方に通り雨があったせいで、緑が多い敷地内はすっかり湿った土の匂いに覆われている。利玖はそれが嫌いではない。かび臭い建物の中にいるよりかはよほどいいし、夜風が心地良かった。

 自転車をめてある東門に向かって歩く。鍵だけ外したら、後は手で押して帰るつもりだった。

 五月も半ばを過ぎると、どの部にもある程度新入生が定着して、今日のように天気の穏やかな夜にはそこかしこで宴会が開かれる。利玖も数分前まで、所属している温泉同好会の飲み会に参加していた。飲み会といっても、大学から割り当てられた部室に各々おのおので酒とつまみを持ち込んで、テーブルゲームと与太話に興じる大変にお手頃な物だったが、おかしな酔い方をするやからがいなかった事もあって割合に楽しむ事が出来た。明日の一限に必修の講義があるので早めに抜けてきたが、あと一ゲームくらい付き合ってもよかったかもしれない。

 東門の周りには学生が出入りする施設がほとんどない為か、明かりも少ない。所々に、スズランのような形をした街路灯が置かれているが、四つに一つは電球が切れかけて点滅をくり返している有様である。国立大学の資金繰りの難しさがこんな所からも窺える。

 足元は暗かったが、百四十一センチという小柄な見た目に反して、強靱なアルコール分解能を備えている利玖の体は、正確に水溜まりを避けて歩いていた。

 行く手に駐輪場の屋根が見えてきた頃、利玖は足を止めた。二メートルほど前の地面に、何かが落ちている。

 まず、そのあまりの白さが気になった。雨上がりの地面に落ちているからにはもう少し汚れていてもいいはずである。

 しばらく遠目に眺めて、やがて、それがかすかに光を放っているからだと気づく。全身を白い毛に覆われていて、羽を怪我した小鳥のように道の真ん中でもぞもぞと動いていた。

「おかしいですね。今夜はそんなに飲んではいないはず」

 利玖はひとりちて、その場にしゃがみ込んだ。

「ウサギ? それにしては耳がない……」

 耳どころか、頭も、手足もついていない。どうやってここまで出てきたのだろう? かろうじて、鼻なのかもしれない、と推測される突起が、空気中の匂いを感じ取ろうとするようにうごめいている。

 利玖は、距離を保ったまま謎の毛玉の観察を続けていたが、やがて自分の中の好奇心のはかりが傾き始めるのにつられて、じりじりと毛玉に近づいていった。素面しらふの彼女であればそんな真似はしなかっただろうが、今はアルコールの影響で安全装置がいくつか外れたままになっていた。

 抜き足差し足で、触れられる所まで近づいて、おそるおそる毛玉に指を伸ばした時、突起が勢いよく利玖の方を向いたかと思うと、顔めがけて飛びかかってきた。

「わっ──」

 利玖はとっさに顔をかばったが、手のひらに感じたのは、柔らかい毛並みではなく、さざ波が立つような悪寒だった。

 一拍置いて、ごぼり、と嫌な音が手首の内側で鳴る。

 そして、それきり静寂が訪れた。

 利玖はアスファルトに座り込んだまま、呆然と手のひらを見つめた。

(吸い込まれた?)

 すぐに、そんな事があってたまるか、と思い直して頭を振る。だが、辺りを見回しても、さっきの毛玉は見つからなかった。

 アルコールの摂取量と幻覚を見る確率の高さは、必ずしも比例するわけではないのかもしれない。否、きっとそうに違いない、と自らに言い聞かせて立ち上がった時、背後から荒い足音が近づいてきた。

 振り向くと、見知らぬ若い男が利玖を見下ろしていた。

 少し伸ばした黒髪をこなれた雰囲気でざっくりと後ろに流して、形の良い額とアーモンド形の瞳が見えている。黒い革のジャケットにジーンズという出で立ちから、おそらく性別は男だろうと推測出来るが、首も手足もほっそりとしているので、服装を加味してもどことなく中性的な印象があった。

 かなりの距離を走ってきたのか、はたにもわかるほど息が上がっている。

 端的に、見目みめの良い人間が現れたな、と思って利玖が黙っていると、男は左右を見渡して、

「あの、君……。この辺で、白い毛玉みたいなやつ見なかった?」

と利玖に訊いた。

 見た、と答えた。──答えたつもりだった。

 確かに、喉が震えた感覚があったのに、利玖には自分の声が全く聞こえなかった。驚いて口に手をやると、男は血相を変えて駆け寄ってきた。

「まさか、触った?」

 利玖が頷くと、男は苦々しい顔になってさらに問うてきた。

「もしかして、声が出ない……?」

 また頷く。

 男が、つっと息をのみ、それから髪をぐしゃぐしゃに掻き回しながらしゃがみ込んだ。

「ああ……! 最悪だ……」

 利玖はありったけの怒りを込めた眼差しで男を睨んだ。それを言いたいのは自分の方である。

 男は利玖の視線に気づいて、肩をすぼめた。

「いや、ごめん。君の方こそ災難だよね。うん……」

 利玖はまだ睨むのを止めない。

「そう、あの毛玉は僕の持ち物で、君の声が出ないのも、そいつのせいなんだ。……いや、声が出ないっていう言い方は、正確じゃないんだけど。とにかく、僕が君に迷惑を掛けている事には違いない……」

 そろそろ眉間に力を入れたままでいるのが辛くなってきたので、利玖は無言で男の右肩を拳で突いた。

「うぐっ」

 思ったよりも強く当たったらしい。

「そうだよね、早く何とかしろって話なんだけど……、その……」

 男が言いよどんでいる間に、利玖はポケットにスマートフォンが入っているのを思い出した。取り出して一、一、次いでゼロを入力すると、男はぎょっとして身を乗り出した。

「待って、待って! ちょっとだけ話を聞いてよ」

 それから、ジャケットをあちこち触って、オリーブ・グリーンの手帳を引っ張り出した。

「とりあえず僕、ここの学生だから」

 それは、潟杜大学の学生に支給される学生手帳だった。利玖も同じ物を持っている。

 一ページ目に顔写真と所属、氏名が記されていて、すました表情で撮った写真の下に『熊野史岐』と書かれていた。

「変わった名前でしょ。シキ、って読むんだ。君は? ここの学生?」

 少し気分が落ち着いてきたので、利玖もリュックサックから自分の学生手帳を取り出して、一ページ目を開いて見せた。

「さくらがわ、えっと……。とし……?」

 利玖は首を振った。それから、片方の手のひらを広げて、そこにペンで何かを書くような仕草をしてみせた。

「あ、そうか。ごめん」

 史岐はポケットからボールペンを取り出して、利玖に貸した。生協の売店で売られているようなプラスチック製ではなく、ひんやりと重量感のあるシルバー製だった。書き味も抜群に良い。

 何となく、そんな物を持ち歩くような人物には見えなかったので、利玖は少し驚いた。

「メモ欄を使っていいよ」

 利玖は頷き、史岐の学生手帳の後ろの方のページにひらで『りく』と書いた。

利玖りくちゃんか。二年生だと、僕の一つ下だね」

 無視してさらにペンを走らせる。

『元に戻してください』

「うん、それなんだけどね……」

 史岐はまた口ごもった後、ため息をつき、暗い声で言った。

「信じてもらえなくても仕方がないんだけど、それ、喉にくやつなんだよね。だから、いわゆる『口移し』でしか──」

『いやです』

「……でしょうねえ」

 史岐はうなだれ、しばらく考えてから、難儀そうに立ち上がった。

「ちょっと長くなるから、場所を変えようか」

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