一夜の夢

たくのしん

一夜の夢

 人生は一夜の夢の如し。私はその夢から覚めることも、眠り続けることもできず、ただひたすらに虚しく生きるのみ……



「そうか……辛かったんだな」



「はい……だから、もういっそ私を――」


――殺してくれませんか? とでも言おうとしたのか。



 男は私が言葉に詰まった様子を見て、不思議そうな顔でこちらを見つめている。男は私の言葉を待たずして、そのまま口を開いた。


「あー、すまん。今なんて言おうとした?」


「えっ……」



 男の発言に対して私はハッと我に返る。


 まぁ無理もない。普通ならカウンセリングしている人間に対し、「私を殺して下さい」なんて言う奴がいるはずがない。



 男は私の友人だった。高校生の頃からの付き合いで、社会人になった今でも、こうして時折会っている。男は心理学を大学時代に専攻していて、カウンセリングの知識があった。


 だから悩みを相談したいといって、喫茶店でこの男と会っていたのである。


 これといった悩みがあった訳ではない。ただ生きている事自体に漠然とした虚しさを抱いていたのかもしれない。とにかく誰かに聞いて欲しかったのだ。



 私は日々の不満、仕事のこと、私をとりまく人間関係のイライラについて話した。


 何をやってもうまく行かない、毎日がつまらない、生きていても何も楽しくない、生きることがもう面倒くさい。



そして最後にこう言った。



「死にたい」


「……という訳なんです」



「ふむ、なるほどね」



 私の話を聞き終えた後、男は腕を組んで考え込む仕草をした。


 しばらく沈黙が続いたが、やがて男は何かを決意したかのように



「じゃあ、俺が殺してあげるよ」


と、言った。



 あまりに突拍子のない発言だったので、一瞬聞き間違えたのかと思った。


だが男の目は真剣そのもので冗談ではない事が分かった。



「本気ですか?」


「ああ本気さ。俺は嘘や冗談を言うような性格じゃないってことくらい知ってるだろう?」



 確かにそうだ。彼は昔から正直者で、不器用な性格なのだ。



「分かりました。ではお願いします」



 私は、夢を見ている気分だった。早くこの夢から醒めてほしい。それだけだった。



「それじゃあ、今夜俺の部屋に来てくれ」



***


 夜になり、私は男の住むアパートの一室を訪れた。


 男は一枚の紙を取り出すと、机の上に置いた。



「契約書だ。これにサインしてくれないか」



 契約書にはこう印字されていた。



殺害同意書


一。依頼者は、今回の殺害行為により生じる結果に関して責任を負います。また、依頼者の生命活動の停止をもって契約は成立し、以降の依頼に関する全ての権利を放棄するものとします。


二。契約が成立した場合、以下の事項に同意したものと見なします。


1依頼者が契約期間以内に死亡した場合、所有財産は慈善事業団体に全額寄付するものとする。対象の慈善事業団体は依頼者が選択できるものとする。


2依頼者に万が一の事があった場合でも、依頼者の家族へは一切の責任を負わないものとする。


3殺害方法及び殺害場所については、契約者の任意によるものとする。


三。契約期間は一ヶ月とする。



 最後に署名欄と捺印をする箇所があり、契約書はそこで終わっていた。



 私は言われるまま名前を書き、印を押した。これでいいのかと思いながらも、男は満足げな顔をしていた。



「ありがとう、じゃあ契約成立ということで」


「あの、質問していいですか?」「何だい?」


「本当に私を殺してくれるんですか?なんで私のためにそんなことをしてくれるんですか?」


「ボランティアみたいなものさ」


「ボランティア?」


「そう。君のような人が一人でも減るようにと思ってね」


 男は悲しげに微笑んだ。それから私は男とこれといった会話もせずアパートを出て家に帰った。



***



 あれから一週間経った。その間、特に変わったことはなかった。


 いつも通り仕事をし、帰宅するとテレビを見て、風呂に入り寝る。毎日同じ繰り返しだった。


 今日もまた一日が終わる。私は布団に入ると目を閉じた。


 そしてそのまま眠った。意識が遠退いていく…………………………


 目が覚めるとそこは見慣れない部屋だった。どうやら私はベッドの上にいるようだ。


 ここはどこなのか、なぜここに居るのか分からない。


 身体を動かそうとするが思うように動かない。まるで金縛りにあったみたいだ。首だけ動かすことはできたので辺りを見回してみた。


 あの男が立っていた。男はナイフを持っていた。刃渡り20cmはある。


 男は微笑みながら私に近づくとナイフを私の胸に突き立てた。


 鮮血が飛び散る。私の夢はそこで終わった。



***



 それから、私の生活に少しずつ変化が現れ始めた。


 いつものように仕事からの帰りの駅のホームで電車を待っていると


、後ろから背中を思い切り押されたのだ。


 バランスを崩した私は線路へと落ちそうになってしまった。


 幸いにも体勢を立て直し、事なきを得たが……。



 また、ある日には職場で同僚と話していた時だった。突然、同僚に首を絞められたのだ。必死に抵抗するも、その力は強く振り払うことはできなかった。


 同僚はそのまま私の首を絞め続けた。苦しかったが必死に抵抗したお陰で何とか逃れることができた。



 どうしてそんなことをしたのか後で同僚に聞いて見ると「死にたいだなんて言うから肩を揺すっただけだよ」と、何事も無かったかのように言われた。



***


 それからというもの、毎日のように何かが起きた。



 ある日は車に轢かれそうになり、またある日には、マンションの階段を上っている時に上から植木鉢が落ちてきた。


 私の日常に何かが起こった。それは明らかだ。


 私はやっと死ねると思った。



 だが現実は残酷だ。私の命はなかなか消えなかった。そして、ついに私は悟ってしまった。これは生きるという罰なのだ。


 私が生きることに対して、何も思わなくなってしまった罪に対する報いなのだと。


 だから、もう安易に死ねるなどとは思わなかった。



 数日日、仕事の帰り道のことである。


 黒ずくめの男が後をつけて来た。


 私は、本能から、なるべく男から離れようと走った。


 だが、すぐに追いつかれた。


 男は私の腕を掴むと近くの路地裏まで連れて行った。そして壁に押し付けると私の顔にナイフをあてがった。



「動くなよ」


 私は観念して、両手を上げた。


 そして、こう呟いた。


「あなたが、私を殺してくれるんですか?」


「金を出せ」


男は静かにそう言った。



 私は心底がっかりした。結局、この人はお金目当てで私を襲ったのだ。


 抵抗すれば殺してくれるだろうか。


「嫌……といったら?」


「これが見えないのか……?」


 男はナイフを突きつけてきた。


 しかし、その手は震えている。



「それで私を殺すんでしょう?早くしなさいよ」


「うるさい…!」


 男はナイフを振り上げたが、その挙動は弱々しかった。振り上げたナイフは空中で止まっていた。振り下ろすか否か迷っている。私の抵抗が予想外だったようだ。


 これでは死ねない。ナイフが中途半端に刺さって痛いだけだ。



 私は地面に落ちたカバンを素早く拾い上げ、男に叩きつけた。


 中身の書類が散らばる。


 そして一目散に逃げ出した。


 男は呆気に取られていたが、我に帰ると慌てて追いかけて来た。


 私は、無我夢中で走り続けた。


 後ろを振り返る余裕もない。


 私はいつの間にか、大きな公園に来ていた。


 息を整え、振り返る。男は居なくなっていた。


 私はその場にへたり込んだ。恐怖と安堵が入り交じった感情に襲われた。



 私は心の底から湧き上がる不思議な気持ちに驚いていた。


「今日も生き延びてやったぞ」


 私はそう思った。


「案外、たいしたことないな」


 生きようとすれば生き残れる、私は高揚感を感じたまま、家路についた。



***


 それから二週間、毎日死の手は私を掴もうとしてきたが、私はそれらを跳ね除けてきた。




 そして彼との契約満了の日が来た。


 彼から電話がかかってきた。


「どうだった?この1ヶ月。何か変化はあった?」


「私は生きようと決めました」



「うん」


「今までの事を後悔しました。死ぬ勇気がなかっただけなのに、それがあたかも悪い事のように思っていました」


「そうだね」


「でも、そんなことはどうだっていいことでした。私は生きたいです」


「そっか」


 彼は嬉しそうな声で言った。


「最後に一ついいですか?」


「何?」


「どんなトリックを使ったんですか?ナイフを持った暴漢は雇ったんだとしても、植木鉢を落としたり、帰りのホームを狙ったり、尋常じゃない手間暇がかかったでしょ?」


「何言ってるんだい?俺は何もしてないよ」


「え……じゃあ、あれは……」


 私は言葉を失った。


「ただ、君が死について本気で考えられるようにあの契約書で暗示をかけた。それだけのことだよ」


「そう……なんですね。本当にありがとうございました。あなたのおかげで私はまだ生きていけます」


「そうかい、良かったよ。それじゃあ契約終了ということで、また何か会ったら連絡してくれ。これからも頑張ってくれ」


「はい」


 こうして私の奇妙な生活が終わった。



 彼との電話のあと、私は気分転換にコンビニに出掛けた。


 コンビニでアイスクリームとお茶を買い、店の前の横断歩道を渡った。



 その時……


 横から猛スピードのトラックが突っ込んで来た……


 私は死にたくない。


 心の底からそう思った。

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