第4話 one and only

 私は全速力で走る、こんなに息を切らしたのは高校の体育祭以来だと思う。

「はやくっ」

 信号の赤が恨めしい。


 そのメッセージに気付いたのは一限目が終わった時で、私はすぐに早退を決めて駆け出したのだった。



「ゆみこさん、大丈夫なの?」

「久美こそ、凄い汗じゃない」

 まずは顔が見られてホッとするが、足首の白いギプスに気付く。

「骨折?」

「走ってきたの?」

 お互いに相手のことばかり気にかかる。

「私の事はいいから病状教えて」


 場所は救急外来の一角、幸い私が通う医学部の附属の病院だったため距離的には近く、走ったからか五分くらいで着いた。

 『自転車とぶつかって怪我をした』という簡単なメッセージだけではゆみこさんがどんな状態なのかわからなくて、とにかく来てみたのだけど。


「右足首の骨折と、腕は打撲だけよ」

「頭は? 打ったの?」

「ふふっ、さすが医大生ね。お医者さんと同じこと聞いてる」

「笑い事じゃないよ、ちゃんと答えて!」

「打ったけど検査をしてもらって異常なし、でも念の為今日は入院して様子見るって」

「そっか、わかった」

「だから悪いんだけど、着替えとか持って来て欲しくて連絡したの。学校終わってからで良かったのに」

 メッセージにも書いたのにって言われたってさ、あんなメッセージ見たらおとなしく勉強なんて出来るわけないじゃん、心配するに決まってる。

「今から行ってくる、他に欲しいものは?」

「スマホの充電器もお願い」

「了解……あの、さっきは怒鳴ってごめんなさい、無事で良かった」

「私の方こそ心配かけてごめんね、授業の方は大丈夫?」

「うん、ちょうど休講だったから」

 ゆみこさんが気にするだろうから嘘をついた。でもきっと、ゆみこさんは気付いているかもしれない、そんな気がする。


 私は鍵を預かってゆみこさんの部屋へ行き着替えやタオル、歯ブラシ等必要なものを鞄に入れる。えっと充電器もね、病院は退屈だろうから何冊か本も入れた。

 忘れ物はないかな、改めて部屋を眺める。何度もお邪魔しているゆみこさんの部屋はいつも綺麗に片付いていて、どこに何があるかもわかりやすい。

「さすが先生だ」

 私は独りごちた後、目を閉じてひとつ息を大きく吸ってから部屋を出た。






「タクシーで帰るから、わざわざ来てくれなくても良かったのに」

「退院手続きとか、病院のそういう流れも知りたいから」

 私の理由いいわけに、真面目な医学生ね、なんて揶揄いつつ尋ねてくる。

「今日、バイトだったんじゃないの?」

「昨夜その分働いたし、今日も夕方から入るし」

「えっ、また遅くまで働いたの? 危ないからやめてって言ったのに」

 いちいちうるさいなぁ。

「え、何か言った?」

「いいから、荷物かして! 早く車イス乗って!」

「いいよ、歩く。松葉杖の練習しなきゃだし」

 はぁ、もう。

 私はわかりやすく、大きなため息を吐いた。


 事故翌日の土曜日。予定通り一泊の入院だけで済んだゆみこさんの退院時間に迎えに来たらこの対応だ。来るって言ってあったのにだ。

 ギプスに松葉杖だよ? 誰が恋人の一大事に、タクシーで一人で帰らすんだよ。


「杉浦さん、車イスに座ってください。骨折は安静第一なんですよ、なんならもう2〜3日入院しますか?」

 折よく通りかかった看護師さんが声をかけてくれた。

「いえ、入院延長は嫌です」

 渋々という感じで車イスへ座ってくれた。全く世話のやける人だ。


 受付で退院手続きと会計を済ませ、タクシーを捕まえる。

「右足は地面につかないでよ、ほら掴まって」

「わかってるわよ」

 私が差し出した手はスルーして、器用に左足だけでケンケンしながらタクシーへ乗り込んだ。

 私は荷物と松葉杖をトランクへ入れてから、ゆみこさんの隣へ座り一緒に部屋へ帰った。


 ずっとこんな調子だ。自分で出来ることはやりたいらしいので、私は仕方なく後方支援にまわる。

 荷物を持つ、ドアを開ける、靴を脱がす。

「ここにイスがあれば自分で脱げるわね」

「わかった、後で置いておく」

「ありがとう」


「お茶でもいれようか?」

「いい」

「疲れた? 少し休む?」

「大丈夫」

「お昼ごはん、何か作るよ。買い物行って来ようか?」

「後でやるからいいよ」

 ゆみこさんをリビングの椅子に座らせて、私はキッチンの冷蔵庫を覗く。

「食材はありそうだから、作ってもいい?」

「自分で出来るから大丈夫だって、久美だってやることあるでしょ、もういいから」

 やっぱりそうか、きっと私に迷惑かけてるとでも思ってるんだろう。

「私が食べたいんだけど、だめ?」

「だめじゃないけど」

「私が食べたいもの作るからね」

「ん、いいよ」


 許可を得たならこっちのもの。

 お昼はパスタでいいかなぁ、夕食の分も作り置きして多目に作って冷凍もしておこう。

「ねぇ、私も手伝う」

 よたよたとした足取りでキッチンにやってくる。

 きっと、ここで断っても機嫌が悪くなるだけだろう。

「じゃあ、座って野菜切ってもらおうかな」

「りょーかい」

 今日初めて、嬉しそうな明るい声だった。


「ねぇ、手際良いんだね」

 しばらく調理に勤しんだ後、ゆみこさんが感心したように言う。

「居酒屋でバイトしてるからね、随分覚えたよ」

 居酒屋メニューなら、それなりに自信はある。

「そっか」

「よし、まずは食べよ」

 二人分のパスタとサラダをテーブルに並べ、手を合わせる。

「いただきます」

「んん、おいひぃ」

 口いっぱいに入れてモグモグさせている様子を見て嬉しくなる。

「食べたら片付けて夕食の下拵えもしちゃうから、ゆみこさんは少し休んでね」

「ん、ありがとね」

「で、それが終わったらお風呂ね、入れてあげるから」

「えっ、は? なんで?」

「一人じゃ入れないでしょ」

「だからって、え、無理無理」

「ギプス濡らしちゃダメなんだよ?」

「それはそうだけど……え、やだ」

 ヤダヤダと呟き続ける。子供か?

「何が嫌なの?」

「だって、見られたくない」

 ゆみこさんの顔に赤みがさしている。

「あぁ……じゃあ、どうしようか」

 水着で入るわけにはいかないし、目隠しして入る? 無理か。

 ギプスはラップとビニール袋で濡らさないように覆うとして。

「シャワーチェアって、あったよね」

「イス?」

「うん、大きめのやつ」

「うん」

 なら、なんとかなるかな。

「移動だけ手伝うから、シャワーは一人で出来るよね、終わってタオル巻いたら呼んで! それでいい?」

「うん」


 無事にシャワータイムも終わって、私はそろそろバイトの時間なので帰り支度をする。

「久美、ごめんね」

「ん?」

「さっき、わがままばかり言っちゃって」

「いや、逆の立場だったら私だって恥ずかしいと思うから。じゃぁバイトだから今日は行くね」

「うん、ありがとう」

「何かあったら連絡してよ」

「一週間は有休だから大丈夫」

「え、だけ?」

「だけ、とは?」

「一週間だけしか休めないの?」


 忙しいのはわかる。

 社会人はそんな簡単に休むわけにはいかないのも、なんとなくわかる。

 だけど、自分の体のことを第一に考えて欲しい。

 無理して長引いたら? もし慣れない松葉杖で転んだら? 

 ゆみこさんが辛い思いをするのは耐えられない。

「そんな顔しないでよ、一週間って長い方なんだよ」

 どんな顔してるのか、想像はつくけど。

「ギプスは最低3週間くらいでしょ、通勤は?」

「しばらくはタクシー使う、幸い保険も降りるし」

「気をつけてよ」

「わかってるって、さぁバイトでしょ、行ってらっしゃい」

 笑顔で手を振り、送り出される。

 なんだかモヤモヤする。





「ただいまぁ」

 翌日の日曜日、ランチ営業のバイトを終えて、ゆみこさんの部屋へ。

「どうしたの?」

「あれ、来るって言ってあったよね」

「じゃなくて、ただいまって」

「だって、バイト帰りだし。それに昨日行ってらっしゃいって言ったの、ゆみこさんじゃん」

「そうだった? なら、その荷物は?」

 おっと、なかなか目ざといな。

 仕方ない、私はゆみこさんに宣言する。

「ゆみこさんの足が完治するまで泊まります。あ、お母さんにはちゃんと話して許可もらってあるから」

「えっ、なんて」

「大事な人が怪我して不自由な暮らししてるからって言ったら、快く送り出してくれた。ゆみこさん、お昼何食べたの?」

 そんなとか、大丈夫なのにとか言っているゆみこさんを無視してキッチンに歩いて行くと、ゴミ箱にあるものを見つけた。

「カップラーメン?」

「うっ、なんだか作るのが億劫で……」

「……迷惑はかけないようにするから、いいよね?」

「あ、うん」

 少し強引だったかなと思うけど、こうでもしないと断られそうだったから。そうなったら私が心配で眠れないもん。


「シャワーありがとう、お風呂場洗っておいたから」

 食事を終えて、ゆみこさんの後に私もシャワーを借りた。

「え、嘘」

「私だって掃除くらい出来るよ」

「そういう意味じゃなくて」

「うん、わかってる。でも私に出来ることはやらせてよ、そのために来たんだし」

 それでも、大学に行っている間は一緒にいられないのだから、私に出来ることなんて限られている。

「久美……」

 ゆみこさんが私の方へ手を伸ばしている。

「ん、立ち上がる?」

 私が介助すると、そのまま抱きしめられ、ありがと。と囁かれる。

 ギュッと胸が締めつけられた。

 疎まれてもいいと覚悟していた癖にやっぱり感謝されたら嬉しいし、こんなスキンシップされたら期待しちゃうけど。

 我慢だ、今回は看病に来てるんだし、何もしないって決めてるんだから。

「歩ける? 手伝おうか」

 ゆみこさんをベッドまで連れて行き座らせる。

「久美のお布団敷かなきゃね」

「あぁ、私はリビングで寝るから毛布だけ貸して貰えればいいよ」

「え、なんで」

「明日までの課題もあるし遅くなりそうだから。ゆみこさんは、ゆっくり休んで……って、ゆみこさん?」

 あぁ、またそんな顔をするんだから。

「いつも?」

「うん?」

「いつも遅くまで勉強してるの?」

「そうだよ」

「それなのに?」

 今度は私が、ゆみこさんをギュッてする。

「迷惑じゃないし、負担じゃないよ。私がやりたいからやってるの。だからリビングの端っこを私にしばらく貸してください」

 ゆみこさんが遠慮するのもよくわかる。そういう人だって知ってる。でも今回は私の我儘を通させて欲しい。





「ねぇ、珍しいよね。岐城がバイト休むのなんてさ、試験中でも休まなかったのに」

「まぁ、そうだね。実はさ――」

 友人の唯には、ゆみこさんとの経緯を簡単に話した。

「それ、同棲じゃん!」

「違うって」

「そっか、いよいよかぁ」

 何が? って聞くまでもなく、ニヤついている唯の顔を見れば一目瞭然だ。だが期待には沿えないな。

「そういうことはしないから」

「え、なんだぁ、つまんない」

「じゃ、お先!」


 一週間が経ち、先日からゆみこさんは職場である学校へとタクシーで出勤していた。

 私は大学から帰ると、ご飯の準備をしながらゆみこさんを待つ。

 アパートに到着する前にメッセージが入るから、タクシーから部屋までの移動を手伝っている。室内ではもう松葉杖で器用に歩けるようになっていた。

 今日は午前中から雨がシトシト降っていて、帰ってくる頃には止むといいなぁと思い雨雲レーダーを見ていた。幸い、これからお天気は回復の見込みだ。


 いつもならそろそろメッセージが届く頃だなぁと思っていたら、玄関のチャイムが鳴った。

 開けると、ゆみこさんが立っていて、隣には男の人。

「あれ、妹さん?」

 その人は、私を見てそう言う。

「あぁ、えっと――」

「いつも姉がお世話になってます」

 ゆみこさんが何かを言う前にそう言って、男の人から荷物を受け取った。


「わざわざありがとうございました」

「良かったら、明日の朝も迎えに来ましょうか?」

「そんな、大丈夫です」

 二人は玄関で話していたが、私はさっさと荷物を片付け、食事の温め直しをしていた。


「それじゃ、また明日」

 そんな言葉とドアが閉まる音が聞こえて、ゆみこさんがキッチンにやってきた。

「すぐ食べられる?」

「うん、いただく」


「単なる同僚だよ――雨でタクシーの到着に時間がかかるってことでね――たまたまだよ、もう送ってもらわないから」

 多弁なゆみこさんに対し、私は「うん」とか、「そう」とか空返事をしていた。

 そうしていたら「ごめん」と言う、辛そうな顔のゆみこさんを見ることになった。

「別に怒ってるわけじゃないよ」

 それは、私の本音だったけど。

 なんとなくモヤモヤはしていたし、そんな私を見て泣きそうになっているゆみこさんがいるのも現実で。


 失敗、したかなぁ。


「今日も遅くまで起きてるの?」

 夕食と入浴を終えて寝室へ入っていったゆみこさんが、再び戻ってきて私に聞いた。

「あっ、うん。うるさかった?」

 音は極力立てないようにしていたが、小さな音でも気になることもあるだろう。

「ううん、それは大丈夫だけど」

 だけど、に続く言葉を不安な気持ちで待つ。


「たまには一緒の部屋で寝ない?」

「えっ」

「そんな、驚くこと?」

「あっ、いや」

「嫌?」

「じゃなくて」


 もっと別の事を言われると思っていたから。

 勝手に押しかけてきたけれど、あまり役に立っていないって自覚があったから。

 もう私は必要ないって、言われるのが怖かった。


「嬉しい」


 その日は布団を並べて敷いて、手を繋いで眠った。





「次の受診日、いつだっけ?」

 土曜日の午後、久しぶりにのんびりと二人で料理を作っている。

「3日後だよ、もうすぐだぁ」

 ゆみこさんの、もうすぐギプスが外れるって喜ぶ声を聞き、複雑な気持ちになる。

 もちろん、早く治って欲しい気持ちはある。だけど、完治したらもう泊まる理由がなくなるから。


「あれ、ちょっと早くない?」

 まだ三週間経ってない気がする。

「もうすぐテスト期間で忙しくなるから、予約を早めに変更したの」

「そう」

「そういえば……久美の方は?」

「え、なに?」

「期末の試験とか」

「あぁ、うん」

「うん?」

 歯切れの悪い私の返事で、何かを感じたようだ。

「今、試験期間中だけど――」

 大丈夫だよって言おうとしたのに。

「えっ、なんで? 何で言ってくれないの?」

 怒られた。


「あのね、久美がいろいろ手伝ってくれるのは嬉しいの。でも、それで久美の勉強がおろそかになるのは嫌なの。私の事より自分の事を優先して欲しいの、わかるよね?」

「なんだか先生みたいだね、あ、先生か」

 和ませたかっただけなのに。

「笑い事じゃないんだよ」

 なんでそんな怒るんだろう。

「わかってるって! わかるけど、ここでだって勉強は出来るし」

「でも、家事を手伝ってくれたら時間だって少なくなるし、こんなリビングの片隅では質も落ちるでしょ?」

「そんなことは――」

「もう、私は一人でも大丈夫だから」

「え、出てけってこと?」

 確かに笑い事ではない、笑えない。

「わかったよ、出て行く。だけどそれは最初に言ったように、ゆみこさんの足が完治したら、ギプスが外れたらね。自分の言葉には責任を持てって幼稚園の頃からおばあちゃんに言われてたから、そこは譲れないよ」


 ギクシャクしたまま、それでも一緒に過ごした3日間。





「ただいま」

 その日は珍しく、そう言ってゆみこさんの部屋へ入った。

 ゆみこさんの病院受診の日。有給が取れたから午前中に行くと言っていた。順調にいけばギプスは外れ、荷重制限がなくなる――足を地面について体重をかけても良い――筈だ。


「おかえり」

 そう言って、おぼつかない足取りだけれど、玄関へ迎えに来てくれた。

 白いギプスはなくなり、松葉杖も消えていた。


「痛くない?」

「平気、これからはしばらくリハビリに通うけど」

「良かった……治って良かったね」

 素直にそう思った。

「ありがと、ご飯出来てるよ」

「作ってくれたの? 嬉しいなぁ」

 最後の晩餐かぁ、なんておどけて見せたら複雑そうな顔をする。


「これ、受け取って欲しい」

 食後に、そう言って渡された封筒。

「なに、これ」

 確認しなくても中身がわかってしまったから、冷たい声が出た。

「ずっと、バイト休んでくれてたでしょ。だから――」

「待って――ゆみこさんは、私がこれを受け取るとでも思ってるの?」

 悔しいとか悲しいとか怒りとか、よくわからない感情が押し寄せてきて、涙が止まらなくなった。

「久美……」

「わかってない……ゆみこさんは私の気持ち、全然わかってないよ」


「ごめん」

 抱き寄せられて、体を預けた。

 止めようと思っても止まらない涙を、無理に止めなくてもいいやと思えた好きな人の体温。


 散々泣いて落ち着いた後、私の気持ちを話した。

 わかってないと相手を責める前に、自分の気持ちを伝えてなかった事に気付いたから。そう、まるで子供だ。


「私ね、ずっと悔しかった。私が免許と車を持っていたら、ゆみこさんの送り迎えも出来たのにって。私の出来ることなんてたかが知れている。別に一緒にいなくたっていいレベルなんじゃないかって。自分が不甲斐なかった。だけどね、ゆみこさんが怪我した時、私に最初に連絡してくれたでしょ? それがとっても嬉しかったんだよ。だから少しでも何かしたくて、ここに居座ってた。私の勝手な我儘なんだ」

 だからこれは受け取れない。



「じゃあ、リハビリ頑張って! 私も残りの試験、頑張るね」

 そう言い残し、三週間過ごしたゆみこさんの部屋を後にした。

 二人とも微妙な笑顔だったけれど、悲観することはない。

 今まで二人で築きあげてきた絆は、こんなことで壊れはしないと思っている。


 私には、今やるべきことがあるのだから泣いている暇なんてない。






『久美、起きてる?』

 久しぶりのメッセージが届いたのは日付が変わった頃で。

 こんな時間に? 何かあったのかと心配になった私は返信をするよりも先に、電話をかけた。


「どうしたの、何かあったの?」

「えっ、ごめん。何もないよ」

「そっか、それなら良かった」

 無事なら良い、ホッとしたのが声でも伝わったらしく、小さく笑った声がした。

「久美、忘れてるでしょ?」

「え、何?」

 何かやらかしたのだろうか。

 でも、ゆみこさんの声は怒っている風ではない。

「誕生日、おめでとう」

「あっ」


 すっかり忘れていた、自分の誕生日。

「ありがとう」

「今日、会える時間ある?」

「あー、えっと。まだ試験の教科が残ってて」

「そう……もしかして今も勉強してたの?」

「あぁ、うん」

「ごめん、邪魔しちゃったね」

「ううん、声聞けて嬉しい」

 誕生日の日の、初めての会話の相手がゆみこさんだったことが、感激だ。

 新しいこの一年がハッピーなものになる予感しかない。

 会いたい。けど……


「試験が終わって落ち着いたら連絡するね」

「ん、わかったよ。その時は二人でお祝いしようね」

 ゆみこさん、眠いのかな? なんだか声が掠れていたが、私は大して気にも止めず、勉強を再開した。



 この時、なぜ気付かなかったのだろう。

 いつもそうだ、私は自分のことばかりで、まるで成長していなかった。







 やっと終わった。


「やったぁ、終わったぁ」

 同じ感想を叫びながら近づいてくる友人は、また合コンにでも誘ってくるのだろうか。

「岐城、これからどうするの?」

「もちろん、バイトだよ。だから合コンは行けないよ」

 がっかりするのかと思ったら、今日は笑顔が帰ってきた。

「あのね岐城、私ね、恋人出来たんだぁ」

 だからもう合コンは卒業なんだと満面の笑みだ。

「唯、まじ?」

「まじ!」

「やったね、おめでと」

「ふふん、これから会いに行くんだ。岐城はバイト終わってから?」

「私は、試験の結果が出てからかな、会うのは」

「そうなの? へぇ、案外さめてんだね」

 長く付き合ってるとそうなるの? と、不服顔。

「なんで?」

「だって、大変な試験が終わったらすぐに会いたくなるもんでしょ、かけがえのない相手なんだもん」

 それはまぁ、私だってすぐに会いたいんだけど……

「まぁ、人それぞれかぁ。それよりね――」

 黙り込んだ私に、恋人の好きなところや可愛いところを語り始める唯。

「あぁ、そろそろバイトの時間だ。今度ゆっくり聞くから、じゃあね」

 あの唯がねぇ――恋をすると、あんなデレた顔になるのか。幸せそうで何より、時間があれば出会いからゆっくり聞いてみたいと思った。



 それから数日後、全ての試験結果が出て進級も確実になり、大学も春休みに入る。

 ゆみこさんの職場である中学も一足早く春休みだから会えるだろうか、ダメ元で電話をかけた。

「今から?」

「ごめん、急すぎるよね。また日程合わせよ――」

「ううん、いいよ。来て!」

 何故だろう、凄く慌てている様子だけど。

「本当にいいの?」

「うん」



「ちょっと買い物だけしてくるから、待ってて」

 部屋に着くなり、ゆみこさんが出掛けると言う。やっぱり慌てている。

「え、大丈夫?」

「すぐ戻ってくるから、帰らないでよ」

 帰らないけどさぁ。

「何を買いに行くの?」

「食材とか飲み物とか」

「だったら、一緒に行くよ」

「え、でも」

「荷物持ちでいいから、さっ、行こう」

「あ、う、うん」


 なんだろう、何かが普段と違う――違和感。

「ねぇ、こんなに? ごちそうだね」

 買い物かごに、次々と入れていくゆみこさん。

「だって、お祝いだし」

「あっ、そっか」

「もしかして、また忘れてた?」

 なんだ、私のために?

 なんだぁ、そっか。嬉しいな。

 きっと今の私は、あの時の唯以上ににやけているんだろうな。

 アルコールも何本か買って、最後にケーキ屋さんへ寄って帰った。



「え、お酒は飲めないの?」

「少しなら大丈夫だけど、すぐに赤くなる」

 家で試しに飲んだ結果だった。

「父親がそういう体質だったみたい。アルコールを分解する酵素が少ないんだと思う」

 私が小さい時に他界した父の話を、母や祖母から聞いていた。

「なんだか言い方が医学生っぽい、あ、医学生か」

「そうですが、何か? あ、ゆみこさんは遠慮しないで飲んでね」

「久美のお祝いなのにね、じゃぁ私のを少し分けて飲もうよ」

 形だけでもと、乾杯をする。

「ありがとう、料理も美味しい」

「うん、いっぱい食べて」


 さっきまでの違和感はなくなっていた。いつもと変わらない夜、食事をしながらの会話。


「大学生活は楽しい?」


 そう思っていたから、そんなゆみこさんの質問にも平気で答える。


「この前ね、いつも合コンに誘ってくる友達に恋人が出来たんだよ」

「へぇ」

「もう、デレデレでさぁ」

「合コン、行ってるんだ」

「え、あ、違う! 行ってないよ。行くわけない……から。嘘、なんで――」

 ゆみこさんの表情が崩れて、涙が溢れていた。

 咄嗟に動けなかった。

 初めての事だったから、触れたら壊れてしまいそうで。


 だけど、私が傷つけてしまったのは確かなこと。

 いつから? あの違和感はそういうことだったの?


「ゆみこさん、触ってもいい? 触るよ」

 頬を伝う涙を指で拭う。

 こんな時なのに、綺麗だなぁって思ってしまって、そんな自分に嫌気がさす。

「ごめんなさい」

 この前、ゆみこさんが泣きじゃくる私にしてくれたように、私もそっと抱きしめる。嫌がられたらどうしようと思ったけど、幸い拒否されることもなく、ゆみこさんは私の腕の中にいる。


 二十歳になったからといって、その日から大人になる訳ではない。歳を一つ重ねても、すぐに成長出来る訳でもない。


 思い上がっていた。

 私とゆみこさんは分かり合えているって、勝手に思い込んでいた。

 まるで一人で恋愛していたみたいだ。



「ごめんね、泣いたりして。もう大丈夫だから」

 落ち着いた後は、いつものゆみこさんに戻っていた。

「ねぇ、聞いてもいい? ゆみこさんの気持ち。いつも私の気持ちばかり押し付けて、ゆみこさんの気持ちを考えてなかったから」

「そんなことはない、久美は私のことを考えてくれていたよ。でもそうね、恥ずかしがらずに私の気持ちを話さなきゃね」




「私ね、久美の人生の邪魔をしている気がしていたの。まだ若くて、これからいろんな経験をして充実した人生を歩むはずの久美を縛ってるんじゃないかって。大学生活だって、もっと楽しんでいいの、それこそ合コンなんかもたくさん参加したって――」


「待って、それは誤解だから。合コンなんて行ってないし、それでも大学生活はちゃんと充実してるよ」


「うん、わかってる。それでも私と付き合っていなかったらって考えることもあって、その方が久美は幸せなんじゃないかって。でもね、矛盾してるの。そう思ってたくせに、ちょっと距離を置かれたくらいで私は捨てられるんじゃないかって不安になったりして。落ち着いたら連絡するって言われた時、あぁもうダメなのかなって思って、だから今日連絡が来た時には、準備も何も出来てなかったけどとにかく会いたくて、一刻も早く会いたくて。本当にもう、恥ずかしい話よね」


「待って、距離を置いたつもりなんてないけど?」


「だって、誕生日に会えなかったし」

「それは、試験中だったから。ゆみこさんが気を使うと思って」


「だったら、どうして試験終わっても連絡くれなかったの?」

「えっ」

「ごめん、待ちきれなくて調べたの。もうとっくに終わってるでしょ」

「それは……ちょっと待ってて」


 私は鞄から目的のものを取り出し、ゆみこさんへ差し出した。

「私はずっと、これをゆみこさんに渡すことだけ考えてた」

 それまでは会えないって思っていた。

 馬鹿だった、独りよがりだった。

 ゆみこさんの気持ちを少しでも気付けていたら、不安にさせることもなかったのかもしれない。


「試験の結果?」

「そう」

「凄い……頑張ったんだね」

「最初の5教科が、ここにいた時のだよ。他の教科と変わりないでしょ?」

「うん、全部上位だね」

「ゆみこさんと一緒に暮らしていても、ちゃんと出来るって証明が欲しくて」

「そうだったんだ」

「会えなくてごめん、何も言わずにごめんね」

「嫌われたんじゃなくて良かった」

 心底ホッとしたような顔も、初めて見たかも。

「私がゆみこさんを嫌いになるなんて、天と地がひっくり返ってもありえないから。あ、そうだ!」

 私は再び鞄から目的のものを取り出した。


「これ、手紙を書いたの。二十歳になったら渡そうと思って」

 いざ渡そうと思ったら、なんだか恥ずかしいな。

 だけど、ゆみこさんは驚きながらもなんだか嬉しそう。

「あの、恥ずかしいから読むのは私が帰ってからにしてくれる?」

「うん、わかった。後でゆっくり読むね」

 私の渾身のラブレターは、無事にゆみこさんの手に渡り、私たちは途中だった食事を再開した。



 ケーキを食べて片付けをして、順番にお風呂に入る。

 今日は少しだけどアルコールも摂取したので、泊まっていくことにした。

 明日からはまたバイトの日々が始まる。

 春休みのような長期の休みは、稼ぎ時だから。


「ゆみこさん、お風呂ありがとって、あれ、もしかしてまた泣いたの?」

 涙はなかったけれど、鼻が赤くなっている。

「我慢出来なくて、あの手紙読んじゃって。それで嬉し泣き」

 感動しちゃったよって感想を言ってくれる。

「あぁ、ははっ――」

 やっぱり恥ずかしくて照れるけど。


「ゆみこさん、私、口下手だけどこれからはちゃんと伝えていくね」

「そうね、私もそうするわ」

「ゆみこさんに出会えたこと、一緒にいられることに感謝してる。ありがとう」

「私も同じ気持ちよ、久美は私の大切な、かけがえのない人。好きよ」


 その言葉だけでも嬉しくて舞い上がってしまうけれど。

 ゆみこさんは「顔赤いよ」なんて言いながら近づいて来る。

 私は「お風呂上がりだもん」と、言い訳をするが、そんなのお見通しだよね。


 あれは何年前だったっけ、教壇に立つ貴女の顔を見つめ続けた日々。

 私は今も変わりなく大好きな笑顔を見つめている。


「ゆみこさん、近いよ?」

「ちょっと黙って」

「……」

「one and only」


 そして唇が重なった。




「ねぇ久美、一緒に暮らそうか」

「ほんとに? いいの?」

「でもお母さんに許可を取ってからだよ。近いうちに挨拶に行きたいんだけど、どうかな」

「わかった、予定聞いておくね」


 ちょうど進級するタイミングだし、これからは専門的な勉強になるし、二年後には病院実習も入ってくるから、理由付けにもなる。もちろん二人で支え合って生きていきたいのが一番の理由だけど。


「よっしゃぁ」

 浮かれる私とは対照的に、ゆみこさんは神妙な顔だ。

「そんなに心配しなくても、うちの母親なら大丈夫だよ」

 緊張するのは仕方ないけど、うちは元々、放任主義だし反対することはないだろうから。

「うん、そうだね。許可貰えるように私がしっかりしなきゃだね、頑張るね」


 真剣な表情も素敵だなぁ。

 それが、私との将来を考えての事なのだから、もうこれは見惚れるしかない。


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