第2話 kiss me please
冷たい風が頬を刺す。
春めいてきたとはいえ、朝晩はまだまだ冷える。
約束の時間までは、まだ十分余裕がある。
逸る気持ちを抑えるように、胸に手を当てた。
風になびいた髪を、もう一方の指で耳にかける。
あれから三年、長いようで短かった。あと少し……
「綺麗だね」
左後方から、声がした。
懐かしさに心が震えた。
すぐに振り向きたい気持ちを抑えて、前方に広がる海に沈む夕陽を見つめてた。
フワッと隣から暖かい空気が流れてきて、横を向く。
会ったら何を言おう、あれもこれも言わなきゃと、ずっと考えていたのに、顔を見たらそれらは全て消えて。
「綺麗ですね」
しばらく見つめ合って出てきた言葉に、少し遅れて恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ、綺麗な島ですね」
言い直してみたけれど、たぶんお見通しだろう。
「ありがとう。あなたも大人っぽくなって」
びっくりしちゃった。なんて子供っぽい言い方で。
「先生は、変わらないですね」
「ん、喜んでいいのかしら? まぁいいか、案内するわ、行きましょう」
差し出された手に。
いいんだよね、もうその手に触れても。嬉しくて涙が出そうだ。
そっと手を伸ばすと、待ちきれないようにグッと引き寄せられた。
「わっ」
手を繋ぐんだとばかり思っていたら、抱き寄せられた。
そして一瞬で先生の腕の中へ。
「会いたかった」
そんな声が聞こえた気がしたのだけど、その言葉を聴いた後のことは--ほとんど覚えていない。
「びっくりしたよ、いきなり号泣するんだもの」
「ごめんなさい」
三年間、我慢に我慢を重ねた結果なのだろう。貴女に触れた瞬間、一気に感情が高ぶって、泣き喚いたらしい。
「ううん、嬉しかったよ。あれが本音でしょ?」
「えっと、何言ったか覚えてないんだけど」
「あら、無意識であんな情熱的なことを?」
「え……」
何を言ったんだろ、なんか恥ずかしい。
「ふふふ」
会ってからずっと笑顔が絶えない貴女を見ていたら、恥ずかしさもどうでもよくなった。どうせ私の気持ちはバレバレだろうから。
「好きです」
今の気持ちを素直に言葉にしたら、貴女は少し驚いて、それでも顔をほころばせて「私も好きよ」と囁いた。
「あ、そろそろ良さそうね、食べましょう」
「はい」
私たちの目の前には、ぐつぐつと煮えたつ鍋があって、美味しそうな匂いも立っていた。
「これ、何ですか?」
「フグだよ、
「マジで? 初めて食べたかも。美味し」
思わずがっついて子供っぽかったかなと思ったけど、貴女はそんな私を嬉しそうに見つめていた。
「いっぱい食べてね、タコも名物だから、このタコ飯も美味しいよ」
「はぁい」
私が卒業した翌年に、貴女はこの島に赴任した。
島と言っても、本土に近くてフェリーに乗れば十分程度で着く。都心からでも二時間ほどだ。
小さな島で、周囲をぐるりと歩いても5kmくらいだと言う。
会えない距離ではなかったが、私はあの日の約束通り、会いには来なかった。その代わり、定期的に手紙を書いた。時々我慢できずに電話をすることもあった。ビデオ通話は、顔を見ると会いたくなってしまうので、やめておいた。
貴女の話の中に出てくる、この島の景色や人々、その日常を想像するだけで心がぽかぽかした。
だから、再会の場所はこの島でと決めていた。
「あ、センセイ!」
廊下を歩いていたら、可愛い女の子が手を振っていた。
「お風呂ですか? ごゆっくり」
女の子の隣にいた女将さんもこちらに気付いた。
「お料理美味しかったです。ありがとうございました」
「お口に合って良かったです。センセイの大事なお客さんだから腕によりをかけたって、料理長が申してましたよ」
ニコニコと話す女将に向かって「料理長ってお父さんでしょ?」と突っ込む女の子。いつもこんな風な会話をしてるんだろうなと微笑ましくなった。
「ねぇ、センセイ」女の子ーー小学生かなぁーーが話しかけていたので。
先に行ってますね、と私は浴室へ向かった。
それにしても、大事なお客って……貴女も、この日を楽しみにしていてくれたの?
お風呂で体も温まったけれど、さらに胸の奥も暖かくなっていた。
「いいお湯だったわね」
少し遅れて帰ってきた貴女も、ほんのり赤い顔で。
「なにか飲む?」
冷蔵庫を覗き込んでいた。
「あの子、生徒さん?」
ウーロン茶を受け取りながら聞くと。
「そうなの、今は低学年の担任なんだ。可愛いよぉ」
ビール片手に窓辺に向かう。
今夜はこのーー可愛い生徒さんのお家であるーー民宿に二人で泊る。
カーテンを開けると、海が広がっていた。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
ビールとウーロン茶で乾杯をする。
「まだ未成年かぁ、一緒にお酒が飲めるまであとーー二年かぁ」
そっかぁ、と言って美味しそうに飲んでいる。
「そんなに美味しいもん?」と口にしてしまう程に。
「飲んでみる?」
「え、いいの? 先生なのに?」
「うっ」
動きが止まって、考えている。
きっと頭の中では『女教師、未成年の元教え子にアルコールを強要!』なんていう見出しが出ているのではないだろうか。
困ってる顔も可愛いな、って思いながら。
「いただきまーす」と、ビールの缶を奪って飲んでみた。
「ん、苦っ」
一口飲んで返すと、それをまた貴女は美味しそうに飲んだ。
その口元を見つめていたら、クスっと笑って。
「間接キス……とか思ってる?」
「なっ」なんで分かるんだ。
視線を外して横を見たら、布団が二組並べてあるのが目に入って。
「あっ」
「顔、赤いよ? アルコールに弱い体質かもね」と言いつつ、ニヤニヤしていて。
「大丈夫、今夜は何もしないから安心して」と今度はケラケラ笑う。
「ちょっ、人の心の中を読まないでください」
慌ててウーロン茶を飲みほしたけど、ウーロン茶もほろ苦かった。
「高校生活、どうだった?」
おとなしくそれぞれの布団に横になり、それでもこのまま眠ってしまうのは勿体ないなぁと思っていたところ、そんな質問が来た。
「まぁ、楽しかったかなぁ」
貴女と一緒に過ごした中学の方が楽しかったけれど。
「モテモテだったんでしょ? 女子校だもんね」
「うーん、まぁ、そうなのかな」よくわからないけれど。
早く大人になりたかったし、貴女に会ったときに愛想を尽かされたくなくて。絶対いい女になってやる! という思いで過ごしていたら、平凡だった成績もいつの間にか上がっていたし、部活では部長を務め、生徒会の委員にもなっていた。そんなだったから、下級生に手紙やプレゼントを貰うこともあった。丁寧にお礼を言って、にっこり微笑んだだけで、きゃぁきゃぁ言ってどこかへ行ってしまう。ただそれだけの事だ。
私は、
「先生、手を繋いでもいいですか?」
「ん、いいけど。もうあなたの先生じゃないから、その呼び方は--」
「じゃ、ゆみこさん?」
「あっ、なんか照れるわね」
そう言いながら、繋いだ手はそのままだ。指先に貴女の体温を感じる。
「あったかい」
「明日、ごめんね。ゆっくりしてもらいたいのに仕事で。春休みなのに職員会議なんてね」
「大丈夫です。私も午後からバイトあるし、適当に帰りますから」
「大学生活も充実しそうね」
「忙しくはなるかも、でも時間作って会いに来ます」
「あと一年は、
「は? そんな訳ないじゃないですか」
「だってあなた、こんなに綺麗になっちゃって、私はこれからおばさんになっていくのに……つりあわない」
最後の方は涙声になっていた。
「なんだ、泣き上戸なんですか? そっち行ってもいいですか?」
「え?」
「何もしませんから、安心してください」
さっきのお返しで、そう言いながら貴女の布団に潜り込み、涙を手で拭う。
「恥ずかしいから、そんなに見ないで」
「ゆみこさん、綺麗です。何もしないって言ったけど……kiss me please 」
二人の距離はゼロになる。
「あったかいです、先生」
「先生じゃ--」
「やっぱり先生です。私は貴女に会って恋をした。そして、暖かで優しい感情を貴女が教えてくれた」
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