純愛
hibari19
第1話 I love you
中学三年の春、もっと英語が話せるようになりたいと思った。一年の時からもっと勉強しておけば良かったと後悔もした。もしも、英語の成績がずば抜けて良かったなら--あるいは、全く出来ずに毎回赤点を取るような成績だったなら--貴女の、その澄んだ瞳に私が映っただろう。貴女の記憶の片隅に残っただろう。
初めての授業の時に、そんな事を考えていたなんて、貴女が知ったらどう思うだろう。
私の成績は中の上、そう並だ。なんの変哲もない。
私にとっては英語担当の教師は一人だけれど、貴女にとっては数いる生徒の一人でしかない。
どう頑張っても、一目置かれるような成績を取れるとは思えない。かと言って、わざと赤点を取って補習を受けるようにする勇気もない。
授業中は、堂々と貴女を見つめられる。
長く伸びた黒髪が、潤んだ瞳が、流暢な発音と共に動く唇が、チョークを持つ細い指が。全てが堪らない。
見つめ続けていると、ごくたまに視線がぶつかりそうになる。貴女は平等に、生徒一人一人に視線を送るから。そんな時は、恥ずかしいから俯いて教科書を読むふりをして、その後は窓の外へ視線を逸らす。再び貴女を見れば、もう他の生徒を見つめている。
そんなことを繰り返し、一回目の定期テストを終えた。頑張ってはみたが、やはり成績は少しだけ上がっただけだった。
とある授業の終わりに貴女が言った。
「みんなに配るプリントを忘れてきちゃったので、日直の人はこの後職員室まで取りに来て」
え、日直。私だよ?
ドキドキしながら足を運んだ。
「あの……」
職員室へ入ることよりも、貴女への第一声が。
貴女は私を正面から見つめて、ニッコリと笑った。
「あ、日直さん?」
あぁやっぱり名前覚えられてないんだな、とチラッと思ったけれど、そんなことよりこんな近くでバッチリ目が合って恥ずかしさがMAXで。
それなのに貴女は。
「このプリント、配っておいて。あとこれ、飴ちゃんあげる」
「はぁ」
子供か。
「あれ、飴ちゃん嫌い?」
「いえ、好きです」
貴女がね。
「ふふ、良かった」
その笑顔は反則ですよ、先生。
それから、時々授業後に用事を言いつけるようになった貴女。
何故か、私が日直の時が多くて、その度にお菓子をくれた--グミだったり、クッキーだったり。
内心では嬉しいのだけど表情には出せないでいたら、貴女は、何が好きなのかしらと呟いていた。
お昼休みに廊下ですれ違った。
「あ、日直さん?」と声をかけられた。
「いえ、今日は違います」と言ったのに。
「あら、そう。放課後時間ある? 頼みたいことがあるの」
人の話聞いてます? 日直じゃないっての。
「あぁ、はい」
暇だから行くけどーーいや、用があっても貴女の頼みなら何をおいても行くけれど。
「まずは、これをシュレッダーにかけて」
「次はこれ、ホッチキスで止めてね」
「ありがと、はい、どっちがいい?」
散々、雑用を言いつけ終わった後で、今日は飲み物をくれた。
コーヒーとココアの二択だった。
「こっち」
「あら、大人なのね」
コーヒーを選んだら、そんな風に言うから。
「子ども扱いしないでください」
思わず口をついた。
はっ、しまった。こんな強い口調で言うつもりなんてなかったのに。
私は貴女に憧れて、少しでも貴女に近づきたい。でも貴女にとって私は、ただの子供で。
いや、そもそもこんなことでイラつくこと自体子供じゃないか。
「ごめんなさい」
貴女はきちんと謝ってくれたのに、目も合わせられず。
「いえ、今日は帰ります」
逃げるように帰った。
その後も、何事もなかったかのように何度も用事を頼まれた。
そのおかげで、少しずつ打ち解け、話も出来るようになってきた。未だに、見つめられたら顔が熱くなるのは変わってないけれど。
相変わらず、用事はただの雑用で私じゃなくてもいいようなもの。
「先生、なんでいつも私なんですか? 暇そうにしてたから?」
「一番、気になったんだよね」
「えっ?」
それって? どういうこと? 心臓が暴れ出した。
「いつも、外を見てたでしょ? 私の授業、つまらない?」
「は?」
なんだ、そういうことか。
視線を逸らすために外を眺めていたっけ。
「そんなことないですよ」
「じゃ、私のこと嫌い?」
「そんな訳ない......じゃないですか」
顔に熱が集まるのを自覚して、何を言ってるのか分からなくなった。
「え、どっち?」
貴女はクスクスと笑っていた。
保健委員の資料を持って保健室へ行った。
「ありがとう、ご苦労様。ところで、今悩みとかない?」
養護教諭の遠藤先生は、いつでも、誰にでも、この質問をする。
「特にないです」と、いつもなら答えるのだけど、今日はしばらく考えた。
「どうした? なんでもいいよ、気になるなら言ってみて」
「あの、英語の成績を上げるにはどうしたらいいかなって」
「ふむふむ、英語かぁ。ちなみにどうして成績を上げたいのかな?」
以前は、貴女に私の存在を知ってもらいたかった。そのために成績を上げたかった。
でも今は、ちゃんと存在は知られている、はずだ。だから純粋に成績を上げて認められたい。褒められたい。貴女の教えてくれる教科を好きになりたい。
「えっと、好きになりたいから」
「ほぉ」遠藤先生は、視線を動かした。
「そんなの簡単よ」
「へ?」
声が聞こえた方を見れば、貴女がいた。
「成績を上げられて、英語が好きになる方法、教えてあげる」
「先生? なんで」
なんで、こんなところにいるの。
聞かれてた。
私、変なこと言ってなかったかな。
ばれてない......よね?
私の驚きなんて全く意に介してないようで、嬉々として続ける。
「普段から英語で喋るの、どう、簡単でしょ?」
「いや、無理」
「In English,please 」
「いやいや」
「In English,please」
「うぅ--What did you here?」
「Oh, I was taking a nap.」
「まじで?」
先生が保健室で昼寝って。
「
と、ウィンクなんかされたら、堕ちないわけがないじゃないか。
それから、貴女との会話では時々英単語が交じるようになったけれど、成績が大幅にアップすることはなかった。
それでも、今までよりも会話が多くなったから、私としては大満足だ。
他の生徒とは普通に日本語で話しているから、特別感があってそれもいい。
そんなふうに浮かれていたら、季節は進んでいた。
「大丈夫?」
珍しく、真面目な顔の貴女がいた。
「What ?」
「ため息が多いよ」
珍しく、日本語で返ってきたし。
「そうですか?」
「気付いてない方が心配だわ。なに? 受験の悩み?」
「別に。寒いからですよ」
はぁぁ、と息を吐いて手に吹きかけた。
ほんとは気付いてる。受験よりも憂鬱な事--卒業--つまり、貴女と離れる事。それが、どんどん近づいているのだ。
明日で二学期が終わる。
休みが明ければ、二か月なんてあっという間だ。
「そうだ、冬休みどっか行こう!」
「はい?」
「勉強ばかりじゃなくて、息抜きも大事なんだよ」
「へ?」
「いつも、いろいろ手伝ってくれるからお礼も兼ねて特別に連れてってあげよう」
「どこへ?」
「ん〜どこがいいかなぁ。任せてくれる?」
「はぁ」
頭が追いついていかない。
なにこれ、どういう状況?
どこか行くって、出掛けるってことで合ってるのかな?
それって二人で?
いやいや、あんま期待しない方がいいか。他の先生や生徒も誘うかもしれないし。
結局、聞けなかった。
二人で行くの?
それはデートなの? とは。
「日時と集合場所、明日までに考えておくから」
「はい」
約束の日、私は駅にいた。時間は少し早めだ。キョロキョロと周りを眺めるが、同じ学校の子はいないようだ。
スッと車が近づいてきて停まった。
「お待たせ、乗って!」
貴女の声がした。
「えっ」
集合場所は駅だったから、電車で出掛けると思ってたのに、車?
おずおずと助手席へ座ると、静かに走り始めた。
暴れるな、心臓。落ち着け!
「どうした? あ、車酔いする? これ飲んでいいからね」
ペットボトルのお茶が用意してあった。遠慮なく一口飲んで、後ろを振り返る。誰も乗ってない、二人きりだ。
「ん? 小さい車でごめんね」
「いえ、あの、二人で?」
「うん。だからさ、少し遠出するね。バレるといろいろ厄介だから」
「はい」
ようやく落ち着いていた心臓がまた暴れ出した。
「海?」
「冬の海って好きなんだよねぇ。寒いけど、出てみる?」
「はい」
海岸線を少し歩いて、砂浜に降りた。
ゆっくり歩きながら、いろんな話をした--英語も交えて。
進路のことから、最近ハマっているスイーツの話や、他の先生の噂話まで。
時々は止まって海を眺めたり。
「波ってほんとに白いんだ」と言ったら「詩人だねぇ」なんて返された。
私は、この景色を一生忘れない。
潮風になびく黒髪を見て、卒業したら髪を伸ばそうと誓った。
「楽しかった?」
家まで送ると言ってくれたけど、駅に自転車を置いてあるから、朝と同じ場所で降ろしてもらった。
「はい。明日死んでも後悔しません」
「やだ、死なないでよ?」
「それくらい楽しかったです」
「ん、ではまた。新学期にね」
休みが明けたら、一気に受験モードで。周りの雰囲気はピリピリしてるし、案の定、時間が駆け足で過ぎていく。
先生達も忙しくなり、貴女からの声かけも少なくなっていた。
「ここは、いつも穏やかでいいですね」
ストーブもあって、暖かい。
保健室へ行くと、つい探してしまう。
「今日はいないよ」
遠藤先生は微笑みながら、自分から行ってみたら? と言った。
ここにいないということは、職員室かぁ。
「先生、あの、英語の長文で教えて欲しいところが--」という体で話しかけたが。
「あぁ、ちょうど良かった。ちょっと手伝って。これコピー10部」
いつも通りの展開だ。
「あぁ、これもお願いね」
「はい」
机の上の資料を渡された時にチラッと見えた、チョコレートの山。そう、今日はバレンタインデー。
いっぱい貰ってるんだな。
「ふぅ、おかげで助かったわ。チョコ食べる?」
机の引き出しを開けようとする。
「いえ、チョコは苦手なので」
「そう」
「それに、貰ったものをあげるなんてダメですよ。あげた人の気持ち、考えてください」
「えっ?」
私の視線の先ーーチョコの山を見て理解したようで。
「あぁ、そうね。で、あなたは誰かにあげるの?」
「ん?」
今度は、貴女の視線の先を見たらーー私のカバンの中。
貴女に渡そうと思っていたチョコレートの箱が見えていた。
「これは、違っー」
「じゃ、誰かに貰ったの? 苦手なチョコなのに」
珍しく怒っているような顔に、なぜか素直になれなくて。
「先生には関係ないでしょ、帰ります」
なぜチョコが苦手なんて嘘を言ってしまったのか。
なぜ素直にチョコを渡せなかったのか。
後悔してももう遅い。
私立の入試が始まったため、あれきり話をする機会がないまま卒業する日がやってきてしまった。
もう会えなくなるのだから、今日こそは気持ちを伝えよう。
そう思ったのに、なんで?
嘘でしょ。
なんで卒業式なのにいないの?
式の間も、その後も、ずっと探しているのに、どこにもいない。
校庭では、みんなが写真を撮っている。
「あ〜いたいた」
そう言って近づいてきたのは遠藤先生で。
「遠藤先生! 杉浦先生は? どこにいる?」
「それなんだけど、今日お休みなの」
「は?」
「インフルエンザだって」
「うそ」
「はい、笑って」カシャ。
え、なに?
遠藤先生は何故か私の写真を撮って満足している。笑ってと言われたけれど笑えるハズもなく、茫然自失している顔だろうけど。
「何撮ってんですかぁ」
「頼まれたから」
「誰に?」
「内緒」
そう言って、スタスタと行ってしまった。
気持ちすら伝えられないまま、私の初恋は終わった。
涙すら出ない、卒業式だった。
公立の入試を終え、合格を報告に行った。
卒業から、たったの二週間なのに、既に懐かしい感じがするのは、自分が私服だからかな。
暖かくなって、校門の桜の木は三分咲きくらいだ。
「綺麗だね」
貴女の声が聞こえた。
振り返れば、きっとそこにいる。
私が貴女の声を聞き間違えるはずないのだから。
ゆっくりと振り返った。
私の大好きな笑顔があった。
「もう、なんでインフルなんかなってるんですか? 伝えたいことがあったのに」
「ごめん。遅くなっちゃったけど、卒業おめでとう。合格もね」
「ありがとうございます。先生のおかげで楽しい学校生活でした。それと--」
勇気を貰うために、一度桜の木を眺め、それから貴女の目を見つめた。
「I love you.」
「Me too. but ……三年待てる? あなたが高校を卒業するまで」
答えはイエスしか思い浮かばなかった。
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