ヒロくんとわたし
平賀学
ヒロくんとわたし
「あの」
声を掛けるとヒロくんは振り返った。とても冷たい目をしている。わたしのことをきっと嫌っている。
放課後の昇降口、ヒロくんの下駄箱に靴はない。週に二、三回くらいあることだ。みんな飽きない。
「あのね、うさぎ小屋、行ってたから」
どもりながらそれだけ伝える。ヒロくんはしばらく黙ってわたしを見て、それからふいと顔をそらして、靴下のまま校舎の裏手のうさぎ小屋の方へ向かった。
ヒロくんがいなくなったあと、周りをきょろきょろと見る。昇降口に他に人はいない。誰にも見られていない。よかった。安心するのと一緒に、とても嫌になる。
一か月前、ヒロくんの前に靴を隠されていたのはわたしだった。
昔からどもる癖をよく笑われていたけれど、だんだん笑われるのがそれだけじゃなくなって、歩き方や、笑い方や、書写の筆の持ち方もバカにされるようになって、そのうち筆箱やノートなんかの持ち物にいたずらをされるようになった。消しゴムはよくなくなったし、体育の時間にわたしとペアになる男の子は吐く真似をした。先生は、帰りの会で、みんな仲良くするように、と一回言ったきり、なんにも見えてないみたいにしていた。
きっとこんなふうにバカにされる恥ずかしい子はわたしだけだから、お母さんにもお父さんにも言えなくて、泥まみれになってゴミ箱に捨てられている靴を拾って、べしゃべしゃになるまで水に浸して、乾かなくて汚れも落ちなくて、どうしようどうしようって泣いていた。
毎日、今日は汚されても平気なものを盗まれますようにってお祈りしていた。
「なあ、やめろよ」
それが、一か月前、昇降口でヒロくんが言った言葉だった。
いつもの男の子たちが、わたしの靴を下駄箱からつまみだしていた。わたしの菌がうつるからって指先でつまむみたいに持っていた。わたしはそこにちょうど通りがかってしまって、全部が終わってから靴を取りに行こうと思って、見つかる前にそっと離れようとしたところだった。わたしは、びっくりして足を止めて、柱のほうに隠れた。
ヒロくんは同級生だ。小さい頃はよく遊んだ気がするけど、みんなにバカにされるようになってからはあんまり喋ったことがなかった。
男の子たちは、顔を見合わせた。それから、「なんて?」っておもしろそうに言った。教室で、わたしに聞こえるように悪口を言うときと同じ調子。
「やめろって言ってるんだよ。バカじゃねえの」
ヒロくんの背中しか見えなかったから、どんな表情をしているのかはわからなかった。
でも、それを言われた男の子たちの方は、一度顔をくしゃっとつまらなさそうにした後、にやにや笑った。
「ヒロ、吉田と付き合ってんの?」
「吉田のこと好きなんだ」
「げえー!」
一人が吐く真似をしてみせた。わたしは指先がすうっと冷たくなった。心臓がどくどくいって、血が集まる感じがした。
その音がうるさかったせいか、男の子たちの一人がわたしに気が付いてしまった。
「なあ、おい、吉田!」
こっちを見て、大きな声でわたしを呼ぶ。わたしは息ができなくなりそうだった。
「こいつお前のこと好きなんだってさ! 返事してやれよ、お前も好きなんだろ。オニアイだよお前ら」
にやにや笑顔が並んでこっちを見ている。隠れていたわたしに近づいてきて、返事を待っている。おもしろくて、笑えるやつ。
空気が足りなくて白黒してくる景色の中で、わたしは愛想笑いをした。こうしたらみんな嫌なことをやめてくれる。
「そんなわけないじゃん」
こんなときだけつかえずに言葉が出てきた。
しばらく間が空いて、男子たちが大笑いした。「ヒロ、振られてんじゃん」「だっさ」「かわいそお」背中を叩かれながら、ヒロくんは何も言わなかった。男の子たちを無視して、自分の靴を出して、そのまま帰ってしまった。
その次の日から、みんなにバカにされるのはヒロくんになった。
服の流行がかわるみたいに、ヒロくんにどういたずらしたらおもしろいか、みんな競っているみたいだった。わたしの方はすっかり飽きられたみたいで、目にも入ってないようだった。男の子たちにバカにされなくなったら、女の子たちも、今までのことがなかったみたいに話しかけてくることが増えた。みんな何を考えているのかわからなくって怖かった。まるで友だちみたいに接してくるのが怖くて、バカにされなくなっても、わたしは学校に行くのが嫌だった。あいかわらず先生は、みんな仲良くするように、って言ったきりだった。
あと数か月。六年生の冬だったから、あと数か月がんばったら、卒業できる。
自分に言い聞かせながら、ヒロくんが今までわたしがいたところにいるのを、笑われてもバカにされても何も言い返さずにいるのを、心臓が痛くなる気持ちでみていた。何より、どこかで安心している自分がいちばん嫌だった。もう靴が汚れた言い訳を考えなくてもいいし、ノートをすぐなくすことをごまかさなくていい。
あのとき、ヒロくんがやめろって言ってくれたとき、下駄箱で、なんて言ってたらよかったんだろう。
考えてもわからなかったけれど、わたしがしたことは、とても悪いことのように思えた。
卒業式は、やっと来てくれたという気持ちしかなかった。みんなが感動したみたいに泣いているのを、いつも靴を隠してきた男子が顔をくちゃくちゃにして泣いているのを、ぼんやり、遠い世界のできごとみたいに見ていた。
式が終わったあと、女の子の輪に誘われるのが嫌だったから、人のいないところを探しているうちに、校舎の裏のうさぎ小屋まで来た。
小屋の前にしゃがんで、金網越しに、うさぎたちが無表情に草をかじっているのを眺めていると、後ろから足音が近づいてきた。
振り返って、胸がぎゅっと縮こまる気がした。ヒロくんが、黒い卒業証書入れを持って、こっちを見下ろしていた。
何か言わないと。きっと怒っている。わたしがあんなことを言ったせいでヒロくんはずっとわたしのかわりにバカにされてた。何か言おうとして、でも言葉が出てこなかった。
ヒロくんはわたしの隣にしゃがんだ。どうしよう。どうしたらいいかわからない。視界に、ヒロくんの靴が見える。白かった靴は、何度も汚されて茶色っぽくなっている。わたしと一緒だ。
「引っ越すんだ」
ヒロくんがぽつんと言った。
「中学から、遠いとこ行くんだよ。けっこう前から決まってた」
ヒロくんは、うさぎたちをじっと見ながら、ひとりごとみたいに喋る。
「だから、その前に思ってたこと言ってやろうとしたんだよ。もっと早くやればよかった」
それきり黙ってしまった。わたしは、ヒロくんの視線の先をたどった。すこしはげているうさぎだ。三年生のとき、ヒロくんとうさぎ当番が一緒になって、はげてるから校長って名前をつけたうさぎだった。あのときヒロくんがおかしそうに笑ってたのを思い出した。
ごめんなさい。そう言おうとして飲み込んだ。
「ありがとう」
つかえながら言った。たぶんあのとき言えばよかったことだ。
ぽたぽた涙がこぼれた。お母さんが迎えに来るまで、二人でじっとうさぎを見ていた。
ヒロくんとわたし 平賀学 @kabitamago
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