伍 記憶の話

 夕暮れの中手を引いて、未希は結美を伴って帰宅した。連絡もなく突然増えた人数に驚くことも怒ることもなく、仙狸は優しく彼女らを迎え入れる。

「すみません……、急に押し掛けたみたいになってしまって……」

『良いのですよ、気にしないで。二人より三人の方が作り甲斐がありますから。それに、だいたい連絡なんて寄越しもしないですから、今さらです』

「……未希……?」

「……望さんなら、言わなくても分かってくれるから……」

 タラの芽の天ぷらを口に運びつつ、冷たい視線から目をそらす。そのまま現実逃避気味に、揚げたて熱々、サクサク食感に苦味が香る春の山菜を味わう。向かいの席では、結美が炊きたてのタケノコご飯を頬いっぱいに詰め込み、幸せそうに目を細めている。連れてきた時の悲嘆に暮れた気配は薄れ、普段の明るさを取り戻しているように見える。

「結美ちゃん、しっかり食べてくれ。遠慮しても腹は満たせないからな」

「うっ……。ありがとう……ございます、貴仁さん……」

 未希の隣に座る貴仁が、酒の入ったグラスを傾けて柔らかく笑う。普段は酒を飲もうとも口を開くことはなく、二人きりの食卓は静まりきっている。だから、貴仁が積極的に口を開くのは、未希や仙狸以外に誰かが居るときに限定されるのだ。そんな、いつもより賑やかな時間は静かに、あわただしく流れていった。

「……聞かないんだ、未希」

「何が、聞かない、なんだ?」

「……なんで呼んでくれたの?」

「静かな食卓に飽きたから」

「……そっか……。ありがとう……」

 夜。一人には広すぎて、二人にはちょっと狭い、そんな部屋に布団を敷き、二人寝転がりながら話す。実際、未希は幼馴染みが己の声を掛けた理由を問う気はない。というより、察しているが故に踏み込む気がない、という方が正しい。家族、というモノが理解できないから、深く踏み込んで地雷を踏み抜きたくはないのだ。

「明日には……。明日には、元気になるから……」

「無理しなくて良い」

 布団の上で寝られず、雑談をかわす。向かい合って横たわる幼馴染みへ、休みはまだ続くから、と慰めにならない慰めを口にする。不器用な言葉に、結美は僅かに笑い声を漏らした。その微かな笑い声を不愉快に思うことはなく、未希はゴロリと背を向ける。そのまま睡魔に身を委ねようとして、大気を震わせた大咆哮に飛び起きた。

「未希! なに今の!!」

「分からない。だが、明らかにまずい事だけは分かる」

 寝間着のまま外に飛び出そうとして、玄関に至る廊下で貴仁と仙狸に止められた。二人とも、彼女らと同じく大咆哮に起こされたらしい。

「兄さん! 望さん! 何故止めるのです?! あの咆哮、間違いなく現世を……!」

「だからだ。今は夜。夜はかれらの時間だ。どれだけ人間が宵闇を払おうと、夜は闇を残す」

『闇はわれらの棲み処。人が踏み込むべき領域ではない』

「でっ……でも……!」

『夜闇に踏み込むならば、例え境界の守り人であろうとも無事に帰してはやれぬよ』

「行くなら日が出てからだ。しっかり休んで体調を整えておけ」

 夜もふけ、朔の星空は静寂に満たされている。いかに街灯や店の灯りがあろうとも、全ての闇は払えない。闇は人知の及ばないモノ共の棲み処にして、何者にも侵せぬある種の神聖さを保つ。人の時間ではないならば、貴仁と仙狸の言葉の通り、行くべきではない。それでも、と焦燥感か使命感か食い下がる未希の切れ長の目を、良く似た貴仁のあかい瞳が覗き込む。普段より開かれている緋を認識した瞬間、彼女の意識が闇に落ちた。


「……めっっっっちゃ、朝。すっごい寝たし、めっちゃすっきりした……」

「さすが兄さん……。術を掛ける早さは変わらない」

 意識を刈り取られた、と気付いた時には既に初夏の日差しが差し込む爽やかな朝になっていた。二人は見事に兄達の思惑通りに身体を休めたことになってしまった。小鳥の囀ずりに混じって味噌の溶ける匂いがする。既に朝食も完成している様子だ。

「未希って、術掛かりやすい方?」

「兄さんと望さんが相手の時と不調の時以外術式は返してる」

「わぁ信頼が厚い」

 結美は容易く術にかけられ寝かされた事を不満に思ってるらしく、向かいでタケノコ入りの味噌汁を啜る未希を見る。だが、その返答を聞いてため息をつくはめになった。そうだった、術者として未希は上位の存在だった、と。そうこうしているうちに、普段よりもやや多めの朝食を平らげた未希が席を立つ。慌てた結美も、残りの卵焼きを口に詰め込み手を合わせる。準備をしたら、昨晩響いた咆哮の出所を探さねば。


 常人には分からない咆哮には、奇妙な気配が混じっていた。その気配を辿れば、発生源はやはり旧上弦第二小学校。奇妙な符合に不可思議な納得感を持ったまま、未希は今度こそ錆びた校門に手を掛ける。

「旧第二、懐かしいね。閉校して結構経つけど、やっぱりあの噂は続いてるの?」

「寂しがり屋さんの大好きな人、だろう? 昨日聞かれたよ。……そういえばあの噂、肯定したらどうなるか知ってる?」

「二、三日行方不明になってから、校庭の……あの、なんの木だっけ実のなる木。その木の近くから見つかるよ。行方不明の間の記憶は無かったらしいね」

 校門は軽い力で容易に来訪者の入校を許し、二人は剥がれたコンクリート片が散乱するコンコースを歩く。学校に入った時点で気配が霧散してしまい、手がかりが失せてしまった。こういう時に限って、他の手段も無く八方塞がりという状態に陥ってしまう。闇雲に探すだけでは埒が明かない。

「で、こういう時に限って寂しがり屋さんの大好きな人、を聞いてくることもない、と」

「……なら、校庭の木を調べるだけだ。多分、その木が鍵になる筈だ」

 元々山だった場所を拓いて作った旧第二小学校の校庭には、元の山の名残がある。その場所には僅かながら木々が鬱蒼と聳えている。学校が機能していた頃は立ち入り禁止だったが、その理由に寂しがり屋さんの大好きな人、の噂が絡んでいたのは暗黙の了解だ。

「ちょっと暗過ぎない?」

「……気持ち悪い匂いがする……。腐葉土より酷い」

「? そうかな。ただの木の匂いだと……え?」

 薄暗い森に踏み込み、辺りを見渡す。踏み込んだ瞬間から不快な臭いが鼻を突き、未希の眉間に皺が寄る。その行動に首を傾げた幼馴染みの顔を、突然驚愕が彩る。二人はいつの間にか、黄色い空と岩と砂浜が支配する地に立っていた。

「……何、ここ」

「……現世でも隠世でもない。別の異界だ、着けて。多分、アレが一連の、噂も含めた異変の元凶だ」

 黒狐の面を着けて見上げれば、黄色い空に金色の龍が躍る。それは牙を剥くと、二人目掛けて真っ直ぐに急降下してきた。十メートルはゆうに越す巨体の真下にいればどうなるか等、想像するだけでもおぞましい。二人は左右に分かれて攻撃を避け、黄色い砂塵が舞う中心を見据える。頭から高速落下した龍はその砂埃の中から、金色の巨体をくねらせ未希に向かって追撃を仕掛けて来た。結美の方など見向きもしない。

「みっ……じゃなかった、要!」

「こいつ……! ただの龍じゃない?! 何か抱えてるのか?」

 真正面から特大の咆哮を受けて音圧で飛ばされ、砂の上を転がされる。龍の反対側に避けた結美の悲鳴が微かに聞こえたが、反応するより先に追撃が来る。小さな的目掛けて振るわれる爪も体躯に合わせるように相当に大きい。掠めただけでも致命傷は免れない。

「ただの龍じゃないよね?! なんか纏ってる!」

「不浄だ。……厄介きわまりないな。神とも称される神獣をも堕とす程の濃度とは」

 巨体の頭の下を潜って反対側に回避した未希の側に結美が駆けつける。が、すぐに黒いモヤを纏った龍の尾が動いて地面を叩き付け、砂塵と共に二人を分断する。巨体に見合わぬ高速での突進を繰り返すせいで、攻撃どころか動きを止める隙さえ見当たらない。龍体を狙う結美の雷も、未希の呪符もかすり傷どころか触れる事さえ許されない。

「ダメだ、こいつ! デカイくせに早いのなんで! 当たらないんだけど!」

「動きが止められないからな! 何か、弱点みたいなものがあれば……!」

 右に左に、疲労と砂塵が絡んで重くなる足を動かし、迫りくる牙を爪を紙一重で避けきる。己の体躯と同じ位の龍の顔面が迫るだけでも恐ろしいのに、開かれる口の中に見える鋭い歯が己を噛み砕かんと追ってくるのだ。僅かでも体勢を崩せばどうなるか。

「そのっ、程度でっ、怯むと思うな!!」

 狐の面越しに紅い目を見開き、噛みつきを右に飛んで避け、閉じた口の端を掴んで飛び上がる。そのまま鼻先に手を付き、古今東西あらゆる生物が鍛える事が出来ない弱点、眼球に向かって蹴りを放った。鱗も皮膚もなく、守られるモノの無い筈の柔らかな眼球はしかし、彼女の鋭い蹴りを分厚い瞼で覆って守ってみせる。そのまま鼻先で彼女の腹を突き上げ、黄色い空に弾き上げた。軽い身体は思ったより高く跳ね上がり、龍が飛ばねば追い付けぬ程高く飛んでいく。

「……土の相克は木……。百聞は一見に如かずとは言い得て妙だな」

 腹部を突き上げられて空に在っても、未希に焦りの色は見えない。下から駆け昇る龍を見下ろし、ただ呪符を構えただけである。触れて解析した属性に対応させる為、彼女は敢えて飛ばされた。ある程度練られた霊気を元手に、龍の動きを止める手筈を整える。

「……木天励起萌芽一藤……!」

 眼下に見える金色の龍目掛けて呪符を離す。呪符は風に舞う花弁のようにひらひらと、龍に向かって落ちていく。そしてそれは、太い蔓を生やして向かって来る龍の身体に巻き付いた。巻き付いた蔓は遠目からでもはっきり分かる位に龍を締め上げ、飛行能力をも奪う。それでももがく金の龍の頭に、強風と深緑の具足を纏う未希の渾身のかかと落としが決まる。強風で落下速度を上げ、質量を増した攻撃に耐えきれなかった龍が地面に落ちた。

「えっ……と、何が絡んでるの……?」

「藤の蔓だ。地に根差しながら他の木に絡み、相当な力で締め上げる。土天に座するんだ、到底耐えられまい」

 砂塵を巻き上げて地に落ちた龍を呆然と見る結美の傍らに、微風と共に着地した未希が解説する。事実、自然の藤は他の木に絡み付き締め上げ、養分を奪い成長する。それを木ではなく生体に宿したのだ、動きを止める以上の効果も期待していたのも否定できない。

「土天?」

「触って分かった。耐えられない筈だが……」

 結美から不審そうな目を向けられても、未希は特に変わらない。いつの間にか着けていた深緑の籠手を締めて、未希は砂塵が収まりつつある落下地点を睨んでいる。その中心から藤の花弁と蔓を散らして、長身の青年が三叉矛を持って飛び出し未希に襲い掛かってきた。身に纏うのは中華風の甲冑。金色の短髪は砂塵に揺れ、茶色の瞳は光を持たずに濁っている。それでも突き出され、振るわれる刃は的確に、深緑の籠手で刃で弾く未希の首を狙う。結美の方はまるで眼中に無い。

「……人型の方が早いのは当たり前、か」

「……マジで私の方見ないの、一貫してるの凄いね……」

 何事か叫ぶ人型のソレの矛を受け止め、彼女は仮面の内側で紅い目を細める。彼女の左腕から藤の花が咲き、蔓が素早く矛に巻き付き動きを封じる。慌てた様に矛を手放し、距離を取った事が、ソレの運命を決定した。結美があらかじめ仕掛けておいた符術から、特大の落雷がソレを打ったのだ。砂塵の中に倒れたソレの身体を、動けぬ様に藤の蔓が強く巻き付く。

「さすがにもう動けないでしょ」

『グッ……ゥゥ……。ドコニ……』

「うわっ、喋った?! というか、喋れるの?!」

「……違う……」

「えっ? 未希?」

「……アレは……、アレはそんなに濁った存在じゃない」

 黒いモヤを纏い三叉矛を握り締めて、ソレはまだ戦う意志を見せる。それが未希には酷く不愉快に映った。

 ――知っている、彼の目は大地の険しさを孕んでいる事を――。

 ――知っている、彼の姿は堂々としていて凛々しい事を――。

 ――知っている、こんなにも醜く、誇りさえかなぐり捨てたような姿を晒せるような存在ではない事を――。

 ――彼女は、知らない筈なのに知っている――。

「……穢れに閉ざされたまなこで何を探す? 目を開け、目の前にある者を見ろ!」

 困惑を通り越して不安げな表情を見せる結美が、思わず未希の真名を呟いた。しかし未希は、それに反応することなく動きを止めたソレの前に膝を付く。黒いモヤを纏った身体に手を翳し、モヤを吸収していく。モヤが取り除かれていくにつれて瞳に光が戻り、彼の目は確かに未希を見た。

『……アァ……。ァ……るじ……』

「……え?」

 固かった表情が緩み何事か呟くと、未希が聞き返すより先に砂の塊となって風に消えた。彼が消滅すると共に、二人もまた黄色い世界から日差しが差し込む木立の中に立ち尽くしていた。二人の背後には朽ちた大木の切り株、足元は腐葉土でふかふかしている。

「……なんだったんだろう……。あの場所も、あの龍も、一体……」

「……一種の異界……多分、神域の類いだろうな」

「うぇぇ、神域? 時間差アリだと、今が本当に私達の時代と一緒か謎なんだけど大丈夫?」

「時間は……、ほぼ現世と変わらないな。良かった」

 人知を越えた場所である神域は、相応にして時間の流れが現世と異なる場合が多い。二人とも昔神域に迷い込み、現世で数日行方不明になるという失態を犯したことがある。その為、神域と思われる場所に踏み込む時には、それ相応の準備をする。とはいえ今回は全くの想定外。一応、未希が持ち歩いているウエストバックの中には神域と現世の時間差を図る道具がある。長針と短針がそれぞれ二対ある時計のような形のそれは、現世との時間差がない事を示していた。

「神様だったんだ、あの金色の龍。でさ、未希はアレのこと知ってるの?」

「何がだ?」

「だってなんか話してたし、変だったよ?」

 仮面を外して長い焦げ茶のポニーテールを振った結美は、同じく仮面を外してボブショートの黒髪をかきあげる未希に聞く。聞かれた未希は聞かれた事を噛みしめて、結果首をかしげることになる。

 ――知らない筈を知っている――。

 全てはこの一言に集約される。

 ――何らかの激情を覚えたのも事実――。

 ナニカで封をされている、あるいは書き換えられた記憶がある。

 生まれては消える。疑問は尽きない。それでも一つ、幼馴染みに返す言葉はある。

「多分、いずれ分かる」

 朽ちた大木の切り株に背を向けて、幼馴染みと共に廃校を出る。初夏に近付きつつある陽光は、不愉快な暑さを二人の帰路に残していった。

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