#19 水鏡


 扉を開け、庇の下から灰色のコンクリートへと足を踏み出した瞬間、細かい霧雨が、しっとりと肌を包んだ。


 そういえばあの日も、こんな雨が降っていたな、と思いつつ、屋上の囲い壁にもたれるようにして立つ黒い背中に、一歩、また一歩と近付いていく。髪を揺らしていく風に乗って、かすかに鼻歌のような響きが、聴こえた気がした。


 残り五歩ほどを残した位置で、自然と足が止まる。ちいさなハミングの余韻が、雨の中に溶けてゆく。振り返らない背中に、どんな言葉をかけるべきか、少しだけ迷って。



「――――音色さん」



 結局、胸の奥からぽつりと零れ落ちたのは、彼の名前だった。



「お仕事中にお邪魔してしまって、本当にごめんなさい。……お話が、したい、です」



 祈るようにそれだけ告げて、ただ、待った。細かな水滴が、睫を、頬を、少しずつ濡らしていく感触を覚えつつ、音色さんの背中を見つめる。


 少しくしゃっとしている、鴉の濡れ羽色の髪。ゆったりとした、黒のパーカーとパンツ。まだ肌寒い時期にもかかわらず、素足に突っかけた紺色のサンダル。


 それらすべてが、なぜか、薄墨色の空から、コンクリートの灰色から、浮き上がっているように思えて。気のせいだろうか、と瞬きをひとつしたそのとき、ゆっくりと振り返った音色さんの表情が目に映って、小さく息を呑んだ。


 ところどころ、まばらに伸びてきている髭。少し輪郭が鋭くなったように思える頬。疲労の滲んだ目元。


 水底から空を見上げているかのような、どこか茫漠とした、浮世離れした気配に包まれたその身にあって、ただ一点、異彩を放つのは。



 ――うつくしい獣のような、嵐を宿した、強い、眼。



 ここではない、どこか遠くの一点を見定めているかのようなそのまなざしに、ああ、このひとは、かみさまを見つめているのだな、と改めて思い知る。



「よく、わかったね」



 感情の読めないまなざしと声に少しだけ気圧されつつも、彼が返答をくれたことに、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。応えを口にしようとして、はたと自分がしでかしてしまったことが頭を過ぎり、深々と頭を下げた。



「音色さんに、謝らないといけないことがあります。――わたし、岡崎さんと一緒に、勝手に音色さんのお部屋に入ってしまいました。本当に、ごめんなさい。……岡崎さんが、ヘッドホンと器材がなくなってるから、音色さんは曲を創りに出たのかもしれないって、気付いてくださって。それから岡崎さんと一護さんが、スタジオの候補を絞り込んでくださって、こちらに辿り着きました」


「……マンションから、どうやって」



 平坦な声音で問われ、おずおずと顔を上げる。音色さんの表情に怒りは浮かんでいないように思えたけれど、その推測が、確かなものか全く自信がなかった。



「それも、岡崎さんと一護さんと、管理人さんが協力してくださいました。岡崎さんが囮になってくださっている隙に、クリーニング業者さんに変装した一護さんが入ってこられて、わたしが隠れたランドリー籠を回収して、車に乗せて運んでくださったんです」


「そう」



 無表情のまま、ひとつ頷いた音色さんは、淡々と、事実を、糾弾を、口にする。



「探さないで、って岡ちゃんには送ってたんだけど、どうして来たの。別れようって、言ったよね」



 突き付けられたその言葉を、今度は、怯むことなく受け止める。まっすぐに音色さんの瞳を見つめて、再び、告げた。



「音色さんと、お話がしたいんです。――少しだけ、聴いて、いただけませんか」



 答えは、返ってこない。音色さんが、ゆっくりと、ひとつ、瞬きをする。その瞳に、わたしを、映している。


 それだけで、充分だと、思った。



「音色さん、この前、おっしゃいましたよね。わたしは、音色さんのことを好きなわけじゃなくて、好意を寄せられているから、ただ報いようとしているだけなんじゃないかって」



 ――そもそもきみは、別に俺のこと、好きでも何でもないんでしょう。

 ――きみはさ、俺に、何も望まないよね。

 ――ただ、好意を寄せられてるから、懸命に、返さなくちゃ、って思ってるだけで。



「わたし、あのとき、何も言えませんでした。もしかしたらそうなのかもしれないって、自分を疑ってしまって。自分の気持ちに、自信を持てなくて」



 ――お母さんのときみたいに、義務感を抱いてるだけなんじゃないの?

 ――やさしくしてくれたひとを、ただ、手放したくないだけなんじゃないの?


 最初は、確かに、そうだったのかもしれない。

 けれど、今は。



「わたし、ほんとうは、ずっとわからなくて、怖かったんです。どうして音色さんが、何も持っていない、空っぽのわたしのことを、好きだ、って言ってくれるのか、全然わからなくて。自分ではわからないから、そのうち嫌われてしまうんじゃないかって、こわくて。自分に自信がないから、うまく気持ちを受け止めることも、返すことも、できなくて。音色さんに何を返せるんだろうってずっと考えていて、でも、お姉ちゃんの現身であるわたしには、何一つ返せるものがなくて。こんなに与えられて、もらってばっかりなのに、これ以上何かを望むことなんて、赦されないと思っていました」



 お姉ちゃんの偽物でも抜け殻でもない、いまの、わたしは。

 いいえ、きっと、空っぽだった、あの頃でさえ。



「それなのに、心の底では、望んでしまって。あなたのそばにいたいって想うのを、止められなくて」



 かつての酩酊事件の後、明日にでもこの家を出て行く、と音色さんに告げられた時、自分が何を感じたのか、はっきりと覚えている。


 ――行かないで。

 ――そんなの、絶対に、耐えられない。



「一護さんに初めてお会いしたあの時も、本当は、ずっと、胸がもやもやしていました。音色さんが、わたし以外の人と、晩ご飯を一緒に食べるのかな、って思ったら、すごく嫌な気持ちになって。お隣さん、って言ってもらえて嬉しかったはずなのに、あの時は、他人だ、って突き放されたように聞こえてしまって、心が痛くて」



 もっと、綺麗な感情なのだと想っていた。自分の醜い面をまざまざと突き付けられて、逃げ出したくなった。知りたくなかった、と、ただ穏やかで心地いい感情だけを抱いていたかった、と、今でも願ってしまうのに。



「そんな自分勝手なことを考えちゃだめだって、迷惑がかかるから離れなきゃいけないってわかっていたのに、どうしても、あなたの、そばにいたくて。どうしてなんだろう、って、ずっと考えていました」



 睫の上に載っていた細かな水滴が、瞬きをした途端に、雫になって頬を伝っていく。それはいつしか、知らずこの身に降り積もっていたものが、流れ出すかのように、ゆっくりと。



「わたし、音色さんに言われて、気付いたんです。相手が自分のことを好きじゃなくても、やさしくしてくれなくても、ただ、わたしが、そのひとのことを、好きでいればいいんだ、好きでいてもいいんだ、って」



 この世でいっとううつくしい瞳に映る、己の姿に、励まされて。



「音色さんが、わたしのことを、嫌いになっても。冷たくされたとしても。それで、音色さんがいままでわたしにくれたものが、消えるわけじゃないから。わたしはあなたに、返さなきゃいけないんじゃなくて、返したい、から」



 言葉が、足りない、と。

 いくらあっても、この気持ちに、こころに、追いつかない、と思う。

 どれほど言の葉を重ねても、ほんとうに伝えたいことは、手の中から、するりと抜け出ていってしまうのが、もどかしくて。


 本当は、音色さんみたいに、上手に伝えられたらいいのだけれど。

 わたしの想いは、わたしにしか、言葉にできないから。


 だから、どんなに不器用でも、拙くても。

 ようやく見つけたたったひとつを、心から欲した望みを、万感とともに、音に、乗せる。




「わたし、音色さんのことが、好きです。――これからも、わたしの名前を、呼んでくれますか」




 目が眩むほど、怖かった。望むことは、伸ばした指先を振り払われる恐怖と隣り合わせなのだと初めて知って、身体が、足が、震え出しそうになる。

 逃げ出したくてたまらなかったけれど、心に灯火のように宿るあたたかな記憶が、かろうじてわたしを、その場に縫い留めてくれた。


 ――鏡花さん。


 わたしが何度、差し出された手を振り払っても、その声に背を向けても。

 それでもあなたは、恐れを乗り越えて、諦めずに手を差し伸べ続けてくれたのだと、ようやく実感できたから。


 それまでずっと、揺らがなかった音色さんの瞳が、痛みを堪えるように、細められる。噛み締められた唇が、ゆっくりと、ほどけていって。




「ごめん。――呼べない。俺には、その資格がない」




 絞り出すような、痛みの滲んだその声に、微笑を浮かべて、一歩、近付く。見開かれた瞳を、まっすぐに見上げて、その問いを口にする。



「どうして、呼ぶ資格がないと、思われているんですか?」



 ――私はね、心にひとつ、秘密がある。


 きっと、音色さんが抱えている真実は、自分の職業が露見することへの恐れでも、周囲に及ぼす影響への憂慮、でもなくて。


 だからこそ、いま、頑なに口を噤んでいるのだろう、とわかったから。


 ずるいと知りながら、かつて音色さんがわたしに告げた言葉を、そのまま返した。



「もっと、わたしや、周りの人を、頼ってください。わたしのことも、わざと自分から遠ざけて、これ以上傷つけまいとするくらいには、大事に想ってくれてるんですよね。わたしだって、音色さんが、大事なんです」



 瞳が、苦しげに揺れる。その双眸が、もうやめてくれと、それ以上言わないでくれと、訴えている。



「資格がないと言うのなら、理由を、教えてください。あなたのほんとうを、わたしに、教えてください」



 それでも、言葉を紡ぎ続けた。最後まで、言い切った。


 あなたが、あの海で、わたしに手を伸ばすことを、諦めなかったように。

 今度は、わたしが、あなたに、手を差し出したいと、想ったから。


 ただその想いだけを込めて、まっすぐに、音色さんの瞳を見つめた。ややあってから、逃れるように、音色さんが目を逸らす。俯いたまま、痛みをこらえるようなまなざしで、表情で、固く、唇を引き結んで。



 静寂を、少しだけ弱まってきた霧雨が、やさしく、包み込んでいく。


 

 伏せられた音色さんの睫は、かすかに震えていた。きれいな横顔だ、と、こんな状況にもかかわらず、見惚れてしまう。


 不意に、お姉ちゃんの横顔に、似ているな、と思った。


 顔立ちは全く違うけれど、自分の中にある何かを見定めているときの、静かな横顔が。伏せられた睫に翳る、瞳の色が。透きとおるような、触れてはならないような儚さを孕んだ、そのまなざしが。まったく動いていないはずなのに、言葉にならない音を、想いを紡いで、かすかに震えているように見える、唇が。


 はっとするほど、お姉ちゃんの面影と、重なって。


 ほんの少しだけ、怖くなった。

 いつかあなたも、わたしの手の届かない遠くに、消えてしまうんじゃないかって。


 ひやりとするものが心の片隅を過ぎったそのとき、雨にとけるような、ちいさなこえが、静寂の中に、広がった。




「……自分が、こわいんだ。僕は、人を、愛せない。――愛せるような、人間じゃない」




 音色さんの声は、震えていた。断罪を待つ人のように、絶望と、恐怖に満ちた、昏い目をしていた。



「ずっと、〝普通〟がわからなかった。小さい頃から、感情と呼ばれているものが何なのか、理解できなかった。もちろん、感情そのものを、持ち合わせてなかったわけじゃない。ただ、純粋に、なぜ自分の胸の中にあるものを、嬉しい、とか、哀しい、とかいう言葉ひとつに集約してしまうのか、どうしてみんなそのことに違和感や抵抗感を抱かないのか、わからなかった」



 ぽつぽつと、たどたどしく。途方に暮れた幼子のような、弱々しい声で。

 それでも、音色さんは、語り始めてくれた。





 どうして、プレゼントをもらったら、「嬉しいねえ」なの?

 何で、この気持ちが、嬉しい、だって決めつけるの?

 嬉しい、ってなに? 楽しい、と、悲しい、と、腹が立つ、と、どう違うの?

 みんな、自分の中にあるものを、どうやって、好き、とか嫌い、とか、判断してるの?

 どうすれば、他の人の気持ちが、わかるようになるの?



「ねえ、どうして泣いてるの?」「悲しいの? 嬉しいの?」「どうして悲しいの?」「どんな風に悲しいの?」「怒ってるの?」「ねえ、どうして?」「なんで、聞かれるのがいやなの?」



 感情というもののかたちを知りたくて、他人にそんなことばかり訊いていたものだから、友達なんて一人もできなくて、仕方がないから一人でできることばかりしていた。


 読書も、その一つだった。けっして目にすることのできない、他人の心の動きが詳細に記されている物語に、ああこれで他人のことが理解できるかもしれない、と夢中になった。群れの中で生き延びるために、むさぼるように読みふけった。他人に対してどういう風に振る舞えばいいのかを、物語から学んだ。感情というものを理解するために、もっともっと言葉を知りたい、と思った。


 けれど、いくら読んでも、語彙を増やしても、言いたいことには、胸の中にあるものを表すには、足りなくて。少しずつ近付いてはいるはずなのに、どうしても、指先が届かなくて。


 なぜだろう、いったい何が足りないんだろう、と問い続けていた僕に、答えをもたらしてくれたのは、音楽だった。


 出逢った瞬間に、ああ、これだ、と直感した。


 みんなが単に喜怒哀楽と呼ぶものも。それよりももっと豊かで複雑怪奇な、心というものの輪郭も。


 これを通してなら理解できる、伝えられる、と思った。



 それからは、蜜月だった。僕はすっかり、音楽の魅力に溺れ、頭から爪先まで浸りきって、すっかりふやけているような状態に陥っていた。


 食べることも眠ることも、風呂に入ることも、トイレに行くことすら、億劫で、面倒で。自分の肉体が生きるために発する信号が、邪魔で仕方なくて。学校に通うことも、勉強も、クラスメイトの機嫌を取って笑うことも、何一つ価値がないことのように、思えてきてしまって。


 自分の中で鳴り響く音楽だけが、その頃の僕のすべてだった。


 狂ったように音楽にのめり込んでいる僕を、家族は案じていた。そしてある日、ご飯よ、と呼びに来てくれた母親に、一瞥すらくれず、僕は言い放った。



「うるさいな。邪魔しないで」



 意識をすべて頭の中のメロディに集中させていたから、自分が何を言ってしまったのか、しばらく気付きもしなかった。その言葉が自分に返ってきたのは、しばらく経って、不意に目の前に、ハンバーガーを差し出された時だった。


 視界を塞がれたことに苛立ち、睨むように顔を上げると、母親と目が合った。文句を言おうと開きかけた口を、その表情が、噤ませる。



「……これなら、片手で食べられるでしょう。身体が資本なんだから、面倒でもちゃんと食べて、寝なさい。――お願いだから、もっと、自分を大事にして、音色」



 祈るような。痛みを堪えて、今にも泣き出すのを我慢しているような、目を、していた。それでも母は、内心の哀しみを悟らせぬよう、笑顔を浮かべていた。いつも底抜けに明るい母の、見たことがない表情に、ようやく、罪悪感が押し寄せてくる。



「……ごめんなさい」


「あら、なんのこと?」



 とぼけたふりをして、僕の机の上にハンバーガーを置いた後、母は部屋から出て行った。扉が、ぱたんと音を立てて、閉ざされたそのとき、僕は、自分の本性を、宿命を、思い知った。



 これほど、大切に想われているのに。あいされているのに。

 それでも、僕は。

 音楽を、選んでしまうのか、と悟って、愕然とした。


 初めて、こわい、と思った。

 自分の感情も、こころも、人生も、当たり前のように、音楽に捧げようと、なにひとつ疑いも抱かずに考えていた自分が、急に恐ろしくなった。


 こんなことを続けていたら、大切なひとたちを、そばにいてくれるひとたちを、絶対に傷つける。

 自分をあいしてくれるひとを、邪魔だなんて、思いたくない。それなのに、どうしようもなく、ひとりにしてほしいと、願ってしまう。

 音楽と僕のあいだには、何人たりとも、立ち入らせない。


 こんなのまるで呪いだ、と思った。


 吾妻音色、という、自分の名前も。お前は音楽から逃れられないのだと、これは宿命なのだと、突き付けられているようで。



 ずっと、〝普通〟に、憧れていた。けれど僕は、結局、どこまで行っても異質なままだった。

 この魂も、心も、身体も、とうに音楽に、喰われてしまっているから。どうあがいても、もう逃れることは、できないから。

 

 だから、他人に、〝普通〟の幸せを、あげることができない。

 きみを、いちばんに想うことができない僕に。

 きみの名を、呼ぶ資格はない。





「いつか、きみに向かって、邪魔するな、って言い放ってしまいそうな、自分が怖い。疎ましい、って心の中で思ってしまいそうな、自分が怖い。――きみよりも音楽の方を優先させてしまう、自分が、いやだ」


 血を吐くような声音で、絞り出すように呟いた音色さんの言葉を、受け止めて、じっくりと咀嚼して。

 それでも、どうしてもわからなかった素朴な疑問を、おそるおそる、口にした。



「音色さん、とても大切なことを、話してくださって、ありがとうございます。……あの、まだ理解が及んでいなくて、本当に申し訳ないんですけれど。――どうして、わたしより、音楽を優先させてしまうことが、いけないんでしょうか?」



 それまでずっと逸らされていた音色さんの目が、こちらを向いた。見開かれた瞳は戸惑いと驚きに揺れていて、その反応に、何か変なことを言ってしまったのではないか、と思わず身構えた。



「だって……そんなこと、赦されない、でしょう。いちばん大切な存在が人間じゃないなんて、あいしてくれる人をいちばんに想い返せないなんて、」



 ――人間として、駄目でしょう。



 その乾いた笑顔が、底無しの絶望に呑まれたその瞳が、あまりにも、苦しそうで。知らずもう一歩近付いて、濡れた頬に、手を伸ばしていた。

 びくりと、広い肩が跳ねる。頬に触れかけていた指先が、止まる。怯えたように伏せられたその目を惹き付けられるように、瞳に、声に、ありったけの想いを込めて、告げる。



「……わたしの母が、いちばんに想っていたのは、いなくなってしまった姉のことでした。わたしのことを、想い返しては、くれませんでした。……それも、赦されないこと、でしょうか?」



 焦ったように瞳を瞬き、ごめん、そんなつもりじゃ、と音色さんが呟く。ゆっくりとかぶりを振り、そういう意味ではないのだ、と示して、続ける。



「それでも、わたしは、母のことを、諦めきれませんでした。心の底では、好きなままでした。母がわたしのことを忘れていても、わたしのことを見てくれなくても、本当は、ずっと。――だから、愛するひとが、自分のことをいちばんに想ってくれないのには、慣れっこです」



 笑って告げて、そっと、音色さんの頬に、指先を添える。未だに逸らされたままの双眸が、ちいさく、震えた。



「八年と少し、待っていました。……だから、音色さんが、音楽に夢中になって、わたしのことを忘れてしまっても、平気です」



 ああ、あの経験があってよかったと、いまこの瞬間、心から想えた。そう想わせてくれたのは、目の前にいる、このひとだった。



「もしも、音色さんが、わたしのことを、思い出せなくなってしまっても。そうしたら、何度でも、魔法の言葉で、思い出させてみせます」



 いつの間にか、降っていた霧雨は、止んでいた。

 どうか。どうか、あなたの心に降り続ける雨を、ほんの一瞬でも、晴らせますようにと、祈りを込めて。



「――――貴下は、私を、知りますまい!」



 告げると、音色さんの顔が、くしゃりと歪んだ。その唇が、ちいさく、でもはっきりと、紡いだのは。



「――――忘れません」



 あいの、ことば、だった。わたしが一番好きな物語の、忘れられない、一節だった。

 でもそれは、あの物語の二人だけの、特別な、ことばだったから。


 いまこのときだけは、わたし自身の、わたしだけの言葉で、どうしても伝えたくて、懸命に、口を開いた。



「音色さん、わたし、ずっと、〝普通〟が、わかりませんでした。お姉ちゃんのふりをして、〝普通〟に近付こうとしていました。だけど、時々、自分が、何のために生きているのか、わからなくなってしまうことがあって。ずっとこのままなのかなって、誰からも必要とされないのかなって、誰にも心を開けないまま、ずっとひとりなのかなって、やりたいことも自分がどうしたいかも一つもないのに、生きていていいのかなって、虚しくなってしまうことが、あって。いろんなことに疲れちゃって、何もかも投げ出してしまいたくなった瞬間が、あって。消えてしまいたいって、強く、願っていて。――そんなとき、あなたのうたに、出逢ったんです」



 ポケットから取り出した缶バッジを、肌身離さず持ち歩いているお守りを、音色さんの前に、そっと、差し出して。



「あなたのうたが、わたしを、救ってくれました。……さみしいのも、苦しいのも、わたし一人じゃなかったんだって。わたしはひとりじゃないんだって、この世界のどこかに、わたしと似たさみしさを持っているひとがいるんだって、心を分かち合えるひとにいつか出逢えるかもしれないって、想えたんです」



 物語の中には、わたしと〝同じ〟存在が、たくさんいたけれど。

 本を閉じて、現実の世界を見渡したら、わたしは、ずっと一人ぼっちで。

 だから、この世界にも、わたしと同じ、〝普通〟に上手く馴染めないひとが他にもいるんだとわかったあのとき、どれほど、救われたか。



「わたしは、音色さんが、音楽を、続けていてくださったから。あなたの音楽に、心を救われて。――こうして、あなたに、出逢えたんです」



 だからどうか、嫌わないで。音楽を愛するあなたを、厭わないで。

 音楽が、いちばんでいい。自分を、赦してあげてほしい。認めてあげてほしい。

 それが、あなたなのだから。

 そんなあなたが、わたしは好きなのだから。

 音楽を愛するあなたが、わたしをあの日、救ってくれたのだから。



 音色さんの瞳から、ぽろりと、心の欠片が、溢れ出す。いつかとは逆に、今度はわたしが、その頬を拭って。



「もしもあなたが、自分を信じられないのなら。――わたしの目に映る、あなたを信じて」



 どうか、わたしを見て。

 その祈りが、願いが、天に通じたかのように、俯いていた音色さんの瞳が、そのときわたしを映した。



 どうか、信じてほしい。

 わたしが、わたし自身よりも、あなたを信じているように。

 わたしを、わたしの瞳に映るあなたを、信じて。



「音楽が、音色さん自身なら。無理に、自分から切り離そうとしないでください。どうか、目を、背けないでください。……わたしは、ずっと自分の本心に、蓋をしていました。でもそうしていたら、その感情が手をつけられないほど大きくなっていて、余計に向き合うのが怖くなってしまって。心が縛られて、ずっとそこから、動けなくて。でも、どうしようもない自分と向き合って、本心を認めたら、じゃあどうすればいいのかって、やっと考えられるようになったんです。――わたしも、一緒に、考えます。どうすれば、音色さんと、音楽と、一緒にいられるのか」



 そのとき、雨上がりの空から、うっすらとした、光が射した。

 それはさながら祝福のように、わたしの上に、音色さんの上に、コンクリートに広がる水鏡の上に、降り注いで。


 あたたかい雫を零し続ける音色さんの瞳に、ひかりが、宿る。



「あなたは、わたしに、忘れていた名前を、声を、こころを、くれました。――それがどんなに嬉しかったか、どれほど救われたか、わかりますか?」



 あなたは、誰にも忘れられていた、自分自身にすら存在を否定されていた、わたしの名前を呼んでくれた。お姉ちゃんの現身ではない、〝鏡花〟の存在を、認めてくれた。肯定、してくれた。


 だから、今度は。

 わたしが、あなたに、伝えたい。




「これからも、ずっと。――――あなたの名前を、呼んでいいですか?」



 それは、あなたがそばにいなければ、叶わない願いで。

 あまりにも身勝手で、いっそ傲慢な。

 それでも、心からの祈りを、願いを、想いを込めた。

 精一杯の、告白だった。




「――――僕も、きみの名前を。……一生涯、呼び続けても、いいですか」




 できれば、すぐ隣で。

 かすれた声で付け足された言葉に、どうしようもないくらい胸が震えて、視界が滲んで、揺らいで、溢れて。


 好き、や、愛している、では、あなたへの想いは、到底言い表せない。

 わたしにとって、あなたがどんな存在か。

 あなたが、どれほど大切か。


 それらすべてを、伝えられる言葉を、どうしても見つけられなくて。

 だから、万感の想いを、ありったけ込めて。



「――はい。……はい。――――――――――音色、さん」



 あなたの、名前を呼んだ。


 すると音色さんは、何も言わないまま、静かに顔を傾けて。

 触れるように、ほんの一瞬だけくちづけてから、ただ、わたしを見つめた。


 そのまなざしで、すべて、伝わってきた。




 重ね合わせたわたしたちの指先は、今、確かに触れ合っていて。

 今後、どれほど迷って、苦しんで、互いに傷つけあったとしても。

 このぬくもりを、けして忘れることはないだろう。

 きっと互いに、手を伸ばし続けるだろう。

 そんな、静かな確信と静寂だけが、二人の周りに満ちていた。




 ゆっくりと、頬と髪を撫でるように、吹き抜けていった風は。



 涙と、それから、春の匂いがした。



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