手を洗う

@katsue

第1話手を洗うか、洗わないか

 あれは確か、中学3年のある日のこと。居眠り明けで、まだボーッとしていた僕の耳に、一度も話したことのないクラスメート数人の会話が飛び込んできた。「地球上で最もエコロジーな人類は、ホームレスだよな。」「あいつらは勇気があるよ。」「勇気なんか要らないよ。“手を洗わない”を選択し続ければ、簡単に成れるようになるって。」「まあな。女できないし、就職もできない。」「“手を洗わない”勇気が要るよ」「そうでもないぜ。聖書に“あの人は、食事の前に、手を洗わなかったから、キリストじゃない”って書いてある。洗ってたら、廻り廻って、磔にならずに済んだ、とか。」「クリスチャンに聞こえたら面倒だから、この話は止め。トイレ行ってくるわ。」「手を洗い忘れちゃダメよ。」


 あれからどれくらい経っただろう。高校、大学、就職。手を洗う度に、あの盗み聞きした会話を思い出す。確かに、手を洗わない勇気は、僕には無かった。だけど手を洗ったあとに、手を拭いて湿ったハンカチが、時間が経つと臭くなって、ポケットまで臭くなるのが嫌で、会社のトイレにペーパータオルが備えつけなのをいいことに、ハンカチを持たなくなった。ランチも、トイレにペーパータオルを提供してくれている店が、お気に入りだ。


 トイレに行くと、よく鉢合わせする男性がいる。同じフロアーの、隣の会社の人らしいが、ペーパータオルがあるのに使わずに、あくまでもハンカチで手を拭く男だ。ランチ時間に、外で見かけたので、あとをつけてみて、彼の入った店に、偶然を装って入ってみた。豚の生姜焼きを注文してみたが、脂身の自己主張が強くて、僕の好みじゃなかった。トイレに入ってみたら、ペーパータオルが無かったので、仕方なく、自然乾燥だ。そういえば、大学の頃から付き合っている彼女の、入りたがる店も、微妙に趣味に合わず、自然乾燥率が高い。

 「キャ、冷たい。」僕に何の断りもなくいきなり手を繋ごうとして、まだ濡れている手を掴んだ彼女は、「ハンカチ持たないなんて、だらしない。前からそんな人だったっけ?」と、僕を蔑むような目で詰った。「君の方こそ男の手を、勝手に掴む女だったっけ?」

 元々、彼女から告白してきて、顔が可愛い方だから、ほだされYESな形で始まったふたり。だけど、味の好みが微妙に合わないのに、男が支払いする慣習に、少し嫌気が差してきた頃合。

「ごめんね。でも、これ使って。」彼女の差し出したハンカチを、受け取ると、既にジメッとしていて、萎えた。「僕たち別れようか。」「なんで?」「今まで黙ってだけど、食の好みが合わないんだよ。」「…わかった。でも、それ使って。」「迷惑。」彼女は、黙ってハンカチを受け取ると、目に涙を浮かべながら、黙ったまま走り出した。こうなることを、うすうす勘づいていたかのようだった。


 家に戻ると、親父が晩酌中だったので、僕も缶ビールを空けながら、一部始終を話した。親父は酔っ払っているのか、妙なことを言い始めた。「なあ、この世界は、見えない無數のコロニーで出来ていて、各コロニーには、暗黙の了解と、タブーが存在していて、タブーを侵して地雷を踏むと、孤独を強いられるようになる。」なるほど、僕と彼女のコロニーは、彼女がタブーを侵して、破綻してしまった。でも、僕がもしも、手を洗わなかったら、彼女は何も気付かず、関係は継続していたのかもしれない。


 皮肉だけど、彼女と別れた次の日から、緊急用に、ポケットにハンカチを入れておくようにした。「だらしない」のは、ご指摘の通りだから。でもよりは戻さない。せっかくの自由を謳歌しよう。


 それから、どういうわけか、彼女と別れた日を境に、ハンカチ氏と、トイレで遭遇しなくなった。びしょ濡れハンカチの゙コロニーからの脱出みたいじゃないか、まるで。酔っ払いの゙戯言でもない現実なのかもしれない?いや、偶然だろ?いや、もともと隣の会社の、特定の人物とだけの遭遇自体が不自然だったじゃないか。見えないコロニーは、実在する?手を洗うか、洗わないかの゙コロニーもあるのかな。


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