鮮血の剣

護道 綾女

第1話

 闇の中で仄かな黄色い光球が揺れている。

 夜の帝国正教会サヴェージ修道院の回廊で、もしそれを目にしても何も恐れることはない。それは修道院を守るためのランタンの光なのだから。

 いつものように回廊を巡回していた僧兵マイクル・コーヴェンは、中庭から差し込む月光が、回廊の床に奇妙な影を形作っていることに気づいた。近づくとそれは灰色の小石によるものとわかった。中庭に敷かれている砂利の一つに違いない。しかし、修道院の砂利であっても自ら礼拝に赴くことはない。

「コーヴェンより監視所へ、侵入者の形跡あり、確認を要請する」コーヴェンは喉元の通信石が仕込まれたゴルゲットに向かってつぶやいた。

「監視所、了解。確認作業に入る」

 他に何か形跡はないかと、ランタンをかざし付近を探してみる、するとうっすらと残る泥靴の跡が見つかった。長く幅は広いおそらく男物と思われる。コーヴェンはその報告も監視所に上げておいた。

「アダムより監視所へ、礼拝所異常なし、侵入の痕跡もなし」アダムの声がコーヴェンの頭蓋内に響く。

「監視所、了解。塔のメイドではなさそうだな。要警戒」

 塔のメイドが時折夜中、礼拝堂に佇み祈りを捧げていることがある。しかし、彼女は僧兵たちに危害を加えることはない。では、誰なのか。面倒は願い下げだ。

 アダムが祭具室の確認結果を告げる。異常なし。

「二クラスより監視所へ、地下宝物庫前扉の封印が解かれている。宝物庫内確認のため応援を要請する」

「監視所、了解。第二分隊は二クラスと合流し宝物庫確認へ、他は引き続き警戒態勢を取れ」

 警戒態勢の引き上げの指示が出され、コーヴェンは手持ちのランタンの遮光板を下ろし光を消し、邪魔にならぬよう腰のベルトに取り付けた。回廊が闇に包まれる。彼は額に上げていた暗視眼鏡を装着した。再び目の前に光が戻ってくる。最近支給された補助装備で闇夜を昼間に変えることができる。少し重いが役に立つ。ゴルゲットなどと同じく、渡来人技術により作られたものだ。コバヤシと呼ばれている魔法の素養をまったく持ち合わせない者たちだが、彼らが作り出すものは魔法そのものだ。

 宝物庫付近で二人の侵入者発見の報がゴルゲットを通じ届く。賊は宝物庫になど何の用があったのか、あそこには宝などない。危険物保管庫だ。そういえば、つい先日ダフ・マッケイ特別部副部長が何かを持ち込んでいた。あれは何だったのか。

 頭蓋内に流れる宝物庫付近での乱闘騒ぎの中継に耳を傾けつつ、周囲を警戒を続けていたコーヴェンは視界の隅に奇妙な揺らめきを発見した。それは転生の輪に戻れず、この世を彷徨う霊体などではなく、紛うことなき姿を隠した生者である。隠れ蓑で姿を隠した何者かがそこにいる。それはゆっくりとした動きでコーヴェンから遠ざかろうとしていた。

 コーヴェンは素早く揺らめきとの間合いを詰め、それの胴部と思われる辺りに激しく棍棒で数度突きを入れ打ち据えた。手ごたえは十分だった。

 隠れ蓑の欠点は性急な動きに耐えられず、その機能を維持、発揮できないこと、そしてその構造が脆いことである。揺らめきは消え、その場に琥珀色のぼろ布を被り、古びた剣を手にした男が姿を現した。

 男は右手で胸を押さえ、左手で剣を杖のように使い体を支えていた。荒い息をし、脂汗をかいている。かろうじて立っている状態のようだ。

「武器を捨て、その場に伏せろ。抵抗は無意味だ」コーヴェンは男に告げた。

 しかし、男が剣を手放す気配はない。虚ろな目付きながらもコーヴェンにその切っ先を向けてくる。

 力づくで取り上げりしかないと判断したコーヴェンだが、男の持つ剣が鈍く赤い光を発していることに気がついた。

 これは予想外に面倒なものを相手にしているのかも知れない。彼の判断は正しかった。

 一瞬のめまいの後、コーヴェンは男の剣が自分の鎖帷子を貫き胸に深く食い込んでいるのを目の当たりにした。不思議なことに痛みは一切感じられなかった。



 まもなく千年の都に陽が沈む。千年といってもそれは長い期間というたとえにすぎない。

 この地が実際に帝国の首都として機能を始めたのは五百年ほど前である。帝都旧市街は帝国とともに栄枯盛衰の歴史を重ねてきた。それに対して新市街が発展を始めたのはここ二百年のことだ、そしてその成り立ちは他の街にみられるそれとは大きく異なっている。

 新市街の成り立ちは吸血鬼アクシール・ローズが長年の放浪生活に終止符を打ち、現在新市街と呼ばれている地域に自らの要塞となる高層建築物を建てたのが始まりである。当時そこは痩せた土地が広がっているばかりで、人が住んでいるのは海辺に点在する集落のみだった。そこに住んでいる者といえば帝都には住むことができない貧民たちや帝都を追われたもの、そして少し事情があるはぐれ者ばかりだった。そのためそこが顧みられることはほとんどなかった。

 裕福な魔導師を装っていたローズは現在の新市街となる地域を広範囲にわたって買い取り、裕福な高位魔導師に相応しい要塞を作り上げた。

 要塞が完成し付近の土地が整備された頃、ローズの正体が露わとなり帝都は大混乱となる。齢千年を越える高齢の吸血鬼。高度な意識操作能力と帝都を灰燼と化すことも可能な魔力を有する伝説級の呪われし者。同時期は折し悪く、皇帝崩御に伴う混乱の真っただ中とあって、帝都は損害とその成果を天秤にかけ、ローズの討伐ではなく旧市街の防衛を優先することとした。

 彼女の正体を知り、帝都の加護も期待できず、一時は恐慌状態に陥った集落の住民たちだったが、自分たちが狙われる対象ではないとわかると騒ぐ者は少なくなった。彼女が狙うのは住民たちがよそ者と呼ぶ者たちであり、それも月に数人という程度である。

 さらに、住民たちに都合がよかったのは、彼女が同族を仲間として受け入れるタイプではなかったことである。彼女はやがて新市街と呼ばれるようになる地域を自分の縄張りとし、そこに入ってくる同族や他の呪われし者をためらいなく排除した。それによって長年顧みられることのなかった地域に平和が訪れた。彼女を無理に排除する必要はない。そばにいて、よそ者でなくなればよいのだ。奇妙な共生生活の始まりである。

 新市街は今では彼女の要塞の周辺も含めて、労働者相手の商店や飲食店、住居がひしめく活気のあふれる街となっている。


 夜が訪れローズが目覚める時となった。

 住民たちが塔と呼ぶローズの要塞、その最上階のローズの居室ではメイドのフレアが主人の着替えの準備を済ませ、繊細な細工の施されたランプに火を灯した。夜目が利く二人に灯火は必要ないのだが、ローズは雰囲気づくりのため使用している。

 テーブルには新聞、業務報告の資料の束、その他下着やコルセットなど着替えが所狭しと並んでいる。今夜は観劇の予定があるため重厚な鋼の衣装掛けには部屋着のブラウスなどではなく。外套やドレスなどが並べられている。

 これでローズがいつ現れても問題はないはずだ。

 見た目は碧眼で金髪の愛らしい少女のフレアではあるが、彼女も呪われし者の一人である。狼人の呪いに囚われており、その年齢は三百歳を超えている。ローズと同じく放浪の末、帝都に流れ着いた。普段ならためらいなく排除している狼人をローズが傍に置いて五十年が過ぎた。その理由は今まで誰にも語られたことはない。

 フレアが白いエプロンを外し、黒の外出着に着替えたところで、彼女はきれいに整えていたはずの資料の束が乱れていることに目がとまった。

 フレアはため息をつき、自分以外誰もいないはずの部屋に向かい話しかけた。

「ローズ様。お目覚めなら姿を見せてください。お芝居に遅れてしまいます」

「あら、それは大変ね」焦りなど微塵も感じさせない口調の女性の声。

 声と共にローズはフレアの目の前に姿を現した。

 彼女はテーブルに添えてある猫足椅子に寝間着のまま座り新聞を読んでいる。

 これはローズがたまにフレアに対して仕掛けるいたずらの一つであり、高齢の狼人でも彼女の意識操作能力から逃れるすべはないことを示している。

 ローズは立ち上がり、その場に寝間着や身に着けている下着を全て脱ぎ捨てた。フレアはそれを素早く回収し、彼女の着付けを始める。下着は普通の人間が使用している高級品と変わらないが、コルセットは特別な補強が施された品である。フレアは人間なら潰れてしまいそうな力で締め上げるが、ローズは効いている様子がない。

「コバヤシ様からの荷物は無事届いたようね」ローズが背後にいるメイドに話しかけた。

 資料には既に目を通している。

「はい、プラントの故障は予想していたほど深刻ではなかったそうで、簡単な部品交換で済んだそうです。おかげで注射針やチューブ、献血パックなどは発注分すべて正教徒第一病院へ納品することができました」

 コバヤシは渡来人とも呼ばれている者たちである。彼らは空に浮かぶ雲ほどに巨大で、水底を這う生き物に似た奇妙な造形の船とともに帝国領の砂漠地帯に突然現れ、二度と動けなくなった。姿こそ人と変わらないが彼らには魔法に関する素養は全くなかった。

 しかし、それを補って余りある科学技術をもっていた。紆余曲折はあったが、帝国は通商の独占を条件に彼らの居留と帝国内での移動の自由を認めた。それ以降、渡来人技術と魔法の融合は加速し、帝都に浸透しはじめている。

 渡来人技術によって作られる製品のおかげで衛生的に管理された献血が可能になり、ローズは食事のために人を手に掛ける必要がなくなった。彼女は見返りに病院など医療機関などに莫大な金銭的な支援を行っている。血の提供者はローズの支持者や、採血後に振舞われる高級菓子などを目当てにやってくる者が多数おり事欠くことはない。

「もう御覧になってるとは思いますが…」フレアは前に回り、着つけたドレスの襟元を整えつつ言った。

「何かしら…」

「エリオット様からの件です」

 ダンスホールの店主であるジョニー・エリオットはローズの賃貸物件の管理を任されている一人でもある。それらの上に立つのがフレアとなっている。

「彼に任していた物件の借主が消え失せた件かしら?」

「はい、エリオット様によると、奴の行方は今仲間総出で捜索中です。踏み倒された分の金は今しばらくお待ちくださいとのことです。」

「まったく……」

 ローズが力を使い見えない腕でフレアを持ちあげる。見えない踏み台に乗りフレアはローズの唇に筆で紅を差す。彼女はローズの頭一つ分背が低い。

「彼らしくもない。エリオットさんには今回に限り不問に付すといっておきなさい。言うまでもないけど貸し手はよく審査するようにとも注意しておきなさい。続くようなら残念だけど……。彼はよく働いてくれるから、そんなことになってほしくはないと伝えておいて……」

「はい。そう伝えておきます」

 ドレスの細部が整えられ、漆黒の髪には櫛が入れられ美しい光沢を放っている。しかし、これらが人々の目に入ることはまずない。腰まで流れる漆黒の髪や、コルセットに支えられドレスに丸みをもたらせている豊満な乳房、血のように赤い瞳も目にする者は限られている。

 フレアがローズの濡れたような光沢のある黒い仮面をローズに手渡す。そしてフード付きの外套を着せかける。これも美しい黒を基調にしたものである。ローズの動きに伴いしなやかに動き、フレアが軽々と扱うことから羽のように軽いものと思われているが、実際は魔獣の革が使用されているため完全武装の板金鎧と変わらぬほどの重さがある。そして背面には見る者を圧倒する蒼い幻龍の文様が施されている。

 最終的に装いが整うとローズの肌の露出は鮮やかな紅を施した口元と、手先のみとなる。すべては彼女の無意識での魔力の漏出を防ぐための処置。街で偶然近くにいた住民が彼女の力に当てられ昏倒するなどのことがあっては面倒だからだ。

 居間に据えられた柱時計が時の鐘を打った。

「行きましょうか」ローズの声とともにベランダに面したガラス扉の掛け金が外れ、扉が外へと開け放たれる。

「あっ、わたしにはお構いなく。階段から降りますので……」ローズの意図を察したフレアは長手袋と手提げバックを手に昇降階段へと続く扉へと走り出す。

「手にしたものは落とさないようにしっかりと持ってなさい」

 フレアを素早く捕らえたローズは、彼女の腰に手を回し有無を言わせず肩に担ぎあげた。

 彼女はフレアを担いだまま外へ、そしてベランダを横切り、手摺の上に立った。

「静かにしてなさい。怪我するわよ」

 塔のベランダは帝国大聖堂の尖塔より高い位置にある、そのためフレアの体の優れた耐久力と治癒力をもってしても、地面と激突すればひどい苦痛を味わうことは間違いない。

 ローズ達の背後で音を立ててガラスの扉が閉まり、それを合図にローズは空中へと飛び出した。最初は制御することなく自由落下し、人のいない場所を目指し軌道を修正し、三階分ほどの高さで急停止する。そこからは木の葉のように静かに舞い降りる。ようやく拘束を解かれたフレアはローズの傍に降り立ち、ひざまずき着地する。

 塔のある新市街第三区は労働者向けの商店や飲食店がひしめき、夜中まで人通りの絶えない場所であるが、ローズのお膝元立とあって、黒い外套の女とそのメイドがいきなり上空から降ってきても、もはや驚くものはいない。地上に降り立ったローズを目にした通行人や商店の店員たちは、口々に彼女に対し夜の挨拶をする。中には店内から彼女の姿を見に出て来る者たちまでいる。ローズは彼らに対し鷹揚に手を振ってこたえる。彼らにとってローズは危険な吸血鬼ではなく、少し変わってはいるが世話になっているお金持ちである。

 ローズが彼らの相手をしているうちにフレアは塔の玄関わきの車庫を開放し、幌付き二輪馬車の起動準備を始める。馬車といっても客車を曳くのは生きている馬ではない。これもコバヤシ製自動機械、黒い鉄馬である。しかし馬というのも少し不適切な表現かもしれない。二足歩行で足先は蹄ではなく三本指の鉤爪、後部は跳ね上がった鳥の尾羽を思わせる意匠となっている。どう見ても首のない巨大な黒い鳥である。

 フレアはローズがゆるりと席に着くのを確認し、足元の加速ペダルを軽く踏んだ。二本足の鉄馬はゆっくりと歩みだす。

 街路ではまだローズに向かい手を振る者がいる。

「時間に余裕はありそう?」背後からローズの声。

「道中何もなければ、歌劇場のロビーでお知り合いの方とお話しするぐらいの余裕はあると思います」フレアは鉄馬の制御盤に付属している時計に目をやった。



 ビビアン・クアンベルが劇作家として活躍したのは今から百年前ほど前のことである。一般には悲劇作家として有名であるが、多数の喜劇も世に残している。今回の公演は彼女の人気喜劇の一つ「誰がコマドリを殺したのか」である。五年ぶり十二回目の再演である。自らの勘違いから祖父の死因に不審を抱き、暴走する主人公の姿を描く物語であり、最後は演者全員による東方の踊りにより締めくくられる。帝都新市街の事実上の支配者であるアクシール・ローズのお気に入りの演目の一つでもある。もちろん彼女も初日から足を運び、今夜は二回目の観劇である。

「まぁ、ローズ様はクアンベルさんにお花を贈られたことがあるんですか」

「あら、話したことなかった?公演の時には欠かさず送っていたわ。後はお葬式の時も……。すべて無記名しておいたから、大量の贈り物の中に紛れ込んで目立たなかったでしょうけど……」

 帝国歌劇場への途上、ローズを乗せた鉄馬車が新、旧市街を隔てるガ・マレ運河に差し掛かる頃にはすっかり通りから人通りは消えていた。この辺りは工房区と呼ばれ住む人は少ない場所となっている。

「変な気を遣わせると気の毒でしょ。百年近く前の話よ。今は誰でもわたしに声を掛けたり、手を振ったりしてくれるけど、あの頃はまだ化け物扱いだった。仕方ないことだけどね」

 鉄馬が発する低いうなりと足音、そして石畳を転がる車輪の音だけが響く街路に、けたたましい鐘の音が混ざってきた。フレアは背後から迫る鐘の音に道を譲るために馬車を左側に寄せ、停車させた。その直後、鐘の音がローズたちの傍を通り過ぎていった。鐘の音の主は二頭立ての鉄馬が曳く大型の六輪馬車。蒼い車体には黒い文字で帝都警備隊と書かれている。

「何かあったようですね」遠ざかっていく警備隊の馬車を眺めながらフレアはつぶやいた。

「何かあっても、わたしたちには関係はないわ。行きましょう」

「はい」

 目立つ脅威ではなくなった二人に帝都が求めているの帝都民への不干渉、人対人のトラブル、犯罪には手出しは無用というのが暗黙の取り決めとなっている。帝都としてはこれ以上街をかき回されてたくはない。

 しかし、すべてはローズの気分次第、取り決めはしばしば破られ、帝都はローズに遺憾の意を表す抗議文書を度々送る羽目になっている。

「急ぎましょう。開演の時間に遅れたくはないわ」ローズはつぶやいた。

 馬車を先に進めると、前方にさっきローズたちを追い越していった警備隊の馬車が路肩に止められているが見えた。別ルートで駆けつけて来た隊士も合流し、馬車は二台に増えていた。傍で慌ただしく動く警備隊員たちの姿が見える。彼らが駆けつけた理由はこの辺りにあるようだ。

 ローズは彼らが馬車を止めている手前で右折し、路地へ入るようフレアに指示を出した。裏道を行けば歌劇場の裏手辺りに出ることができるはずだ。今は警備隊と無駄に接触したくはない。

 しかし、今回の騒ぎの拠点はまさにその少し先だった。フレアが馬車を進ませてた先では警備隊が狭い路地を封鎖し、その傍には野次馬の住民たちがが群がっていた。とても馬車で通り抜ける余裕はない。万能と思われているローズも予知能力は持ち合わせてはいない。フレアも匂いに敏感ではあるが、それで何が起こっているか判断できるわけではない。

「あのまま直進したほうがよかったわね」ローズは目の前で展開している騒ぎを前に苦笑した。

「下がりますね」フレアは鉄馬の制御盤に後退の指示を打ち込み、馬車は静かに後退を始めた。

 馬車がゆっくりと後ろへ二、三歩動いた時、その気配を察した一人の中年女性が後ろを振り向いた。

「あらっ、フレアさん…ローズ様も、こんばんは」

 その声を聞いた野次馬たちが一斉に振り返り、中の数人が馬車の傍まで押しかけ、ローズに向かい夜の挨拶を始める。他の者たちもそれにつられて馬車の前まで寄ってくる。運河を渡って旧市街というこの辺り、ローズの影響力も薄くなっているはずなのだが、今夜に限って違ったようだ。

 フレアはに危険がないように停止させた。封鎖線の向こうの警備隊員たちは困惑顔である。新市街出身でローズ達に好意を持つ者も少なくないが、事件現場に顔を出されては職務上差し障りがある。

 やがて、野次馬たちは封鎖線の向こう側のことをローズ達に説明を始めた。要約すると最近属州のスラビアから出稼ぎに帝都にやってきた青年が、何者かに殺害されたとのこと。青年が発見されたのは警備隊員がいる辺りで、付近にめだつ血痕がないことから殺されてからここまで運ばれてきたのかもしれないとの声もあった。発見者によると物音がして、恐る恐る外へ出てみると被害者が倒れていた。後は大騒ぎになって警備隊に通報したということだ。それは無理もない。けんかや窃盗ならともかく、殺人はもっと東の危ない地域で起こる事だと皆思っているのだ。

 野次馬たちによる事件の説明が一段落した頃、馬車の背後の街路が騒がしくなり白い鎖帷子の一団がなだれ込んできた。背中に帝国正教会の紋章が描かれた鎖帷子を身に着け、白い両手棍を手にした集団。彼らは通常の僧兵とは異なり帝国正教会特別部、通称白服と呼ばれる教皇庁直属の治安部隊に所属する者たちだ。そして集団の最後に白い法服の二人組が現れた。二人のうちの一人、金縁眼鏡を掛けた長身痩躯の男が速やかに現場の指揮を執り、野次馬となっていた住民たちの集まりを解散させ、事件現場へと乗り込んでいった。片割れの小太りの小男はその様子を冷めた目で眺めている。

 ローズの馬車の存在も気に留めている様子はない。

「なんでしょうね。金縁眼鏡はともかく、小太りまで出てくるなんて……」フレアが怪訝そうにつぶやいた。彼女も正教徒ではあるが白服部隊のことはあまりよくは思っていない。

 金縁眼鏡のダフ・マッケイは特別部の副部長、現場レベルでの最高幹部である。小太りはその上司で部長のリズィー・ストランド。ストランドまで現場に現れるのは異例のことである。

「気の毒な出稼ぎ青年のために、ストランド部長自ら事件の陣頭指揮を執る。新聞ネタには面白そうだけど、何かありそうね。フレア、明日にでも今何が起こっているか、教えてもらえるかしら」

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