4-2

『やあ、カシム。元気? 刑事さんがアランのことで、君に話を聞きたいんだって。もしよければ付き合ってあげてくれないかな。刑事さんの連絡先は以下の通り……』

 青年にテキストを送りつけて、ぼくは車を発進させた。その次の瞬間には着信を受けたデバイスが、うるさく鳴りわめき始める。

「思ったより早かったな……」

 ぼそりとつぶやいて、ぼくはスピードを上げた。紫外線を九十九パーセントカットしてくれるサングラス越しでも、ブリズベンの空は眩しい。

 しばらくは気分良く車を走らせていたけれど、想像よりもしつこい着信音についに根を上げて、ぼくはついに車を脇に止めた。

『今、運転中』

 再度テキストを送りつけると、すぐに今度はメッセージを受信する音が立て続けに鳴り響く。

『刑事って一体どういうことですか、ルーク』

『一方的に用件だけ送るのは感心しません』

『電話とって、ばか!』

 次々と画面に浮かび上がる青年の言葉に、ぼくは思わず吹き出してしまう。

『今から仕事だから、また後で電話する。ごめんね』

『刑事さんは、たぶんアランの交友関係を知りたいんじゃないかな』

『連絡先は、サミュエル・ロビンソン警部補だ。ロビンソン警部補って呼んでやってよ』

 今度は少しだけ間を置いて、『わかりました』『ありがとうございます』とメッセージが送られてくる。それを確認して、今度こそぼくは目的地を目指して走り出した。

 カリーナはブリズベン中心街から南へ、車で約二十分の郊外にある。主に住宅地で構成されていて、時間帯によってやや混雑することを除けば住みやすそうな地域だ。人口の増加が始まったのが五十年代・六十年代にかけてだからか、全体的にまだ新しい印象だった。

 アプリの案内に従って車を進め、住宅地の一角にたどり着く。指定された住所に駐車をして、ぼくは改めてその家の外観に目を走らせた。その家はよく目をひいた。こんな家は初めてだった。こんな――値段が高いと一目でわかること、ただそれだけを基準に飾り立てられた家は。

 明らかに使われていないバルコネットの装飾過多な手すりを見上げ、思わず暗澹としたため息を落とした。さりげなく横目で観察した前庭は、外から見た部分についてはまめにきちんと整えられている印象だったけれど、外から死角になった場所には壊れた鉢植えと枯れた植物が積み上げられている。大きなリビングの窓がすぐ正面にあるということは、これが家の中から見た前庭の光景なのだろう。

 気を取り直してデバイスを手に取り、この家の住人に電話を掛ける。すぐに電話と扉の向こうから、同時に女性の声が聞こえてきた。

『こんにちは』

「こんにちは、ルーカスです。今日はご予約をありがとう」

 玄関のドアが控えめな速度で開くのに合わせて、ぼくは満面の笑顔で片手をあげたた。

 今日のお客様は、ぼくの出資者からの紹介だった。つい先日、突然ぼくのメール宛に部屋のインテリアデザインの依頼が送り、まだ大したやり取りもしていないうちに突然前金が振り込んできた依頼人だった。まあ紹介者が少し変わった人だから、依頼人だって変わった人なのだろう。

 そう思っていたけれど、スクリーンドア越しに初めてみるその女性は想像していたよりもずっと静かな印象だった。年齢は五十歳前後だろうか。長くてややパサついたブラウンヘアーと美しい黒い目が印象的で、どこか影のある表情が清潔感のあるきちんとした身なりをややくすませている。

「初めまして、ルーカス。マリアよ。今日は来てくれてありがとう」

 スクリーンドアを開けながら、女性が笑ってぼくに手を差し出した。儚げな雰囲気と、強い印象を受ける黒い瞳のギャップに驚きながら、ぼくも右手を差し出してその手を握る。

「こちらこそご依頼ありがとう! 部屋のインテリアコーディネートだよね」

「ええ」

 ぼくの言葉に小さく頷き、マリアはぼくを家の中に招き入れた。

 玄関を入ると、横三メートル、奥行きが二メートルほどのエントランスがあった。大きなベージュのタイルでできたその空間の右手には部屋につながるドアがあり、奥にはダイニングにつながる廊下が伸びていた。ぼくの来訪に合わせて掃除をしてくれたようだった。廊下の隅にはうっすらと埃が積もっていたけれど、それほど年季の入ったものというわけでもなさそうだ。

 廊下を抜け、赤褐色のアンティークも華やかなダイニングへと足を踏み入れた。

「外観と随分印象が違うね。このダイニングはあなたが?」

「そうよ。外観は夫の趣味なの」

「なるほど」

 朗報だ、とはさすがに口に出さない。

 マリアに促されて、住人の数に見合わない大きなダイニングテーブルに腰掛けると、すぐに目の前にお茶が差し出された。ウェッジウッドだ。ぼくの好きなジャスパー。紅茶はおそらく、アーマッドティのバニラフレーバーじゃないかな。同じフレーバーのものを、ぼくも自分用にいくつか置いていた。彼女の息子の部屋のインテリアコーディネートと聞いていたけれど、当の本人は家にはいないようだった。

「以前から、ジェーンにあなたの話を聞いていたのよ」

 ぼくの向かいに腰掛け、マリアがそう切り出した。ジェーンとは、ぼくの出資者の女性のことだ。中途半端なDIYの尻拭いの相談にくる、ぼくのお得意様でもあった。

「彼女には、腕はいいけれどお勧めはしないとは言われていたのだけれど」

「ジェーン……」

「けれど最近色々あって、あなたのことを思い出したの。気分を一新するためにも、一度全部、部屋を変えてしまった方がいいのかもしれないと思って。最後までジェーンには止められたんだけれど、でも……」

 マリアがぼくを見て、気を取り直したように笑った。

「そういえば、あなたはこのダイニングをどう思う?」

「素敵なインテリアだと思ったよ。センスも良くてこだわりも見えて、まだあなたに会って少ししか経っていないけど、あなたらしい雰囲気だと思う」

 ぼくの言葉に、マリアはじっとぼくのことを見つめた。説明を求める強い黒い目に、ぼくはその時、なぜか強い既視感を覚えた。

「……ええと、もしかしてジェーンから何か聞いてる?」

 マリアが小さく小首を傾げた。そのジェスチャーの意味に気づいて、ぼくは困って首を横に振る。

「最近は、ぼくも気をつけているんだ。面白がってくれる人もいるけど、怒らせちゃうことも多くて……」

「ジェーンがあなたのことを『部屋から魔法のように情報を読み取る子なの。本人も気づいていないようなことまで口にしちゃうから、紹介する相手を選ぶ』って、言っていたわ」

「大げさだ。単にちょっとした生活ぶりとか価値観が分かるだけなんだ」

「それでも興味深いわ」

 なんだか変な話になってきた。

 やや困惑はしたけれど、とはいえ最近は珍しい話ではなかった。家のインテリアの相談よりも、ぼくの部屋への意見を聞きたがるリピーターの人も多い。

 それでもまだ少し悩みつつ、ぼくはおとなしく椅子に座り直して両手を組んだ。

「あー、ちょっと踏み込んだ質問をしちゃうんだけどさ、マリア。この家の男——あなたの夫って、どんな人なんだろう」

 ぼくの言葉に、ぎょっとしたようにマリアが体を大きく後ろに引いた。警戒するような、ややこわばった微笑で答える。

「どんなって——なんというか、男らしい男よ」

 その答えに、ぼくは事前に確認していたこの家の間取りを頭に思い描きながら、指であごを撫でた。男らしさとは無縁な、ツルツルのあごの感触。

「そこの、リビングルームに面した扉の向こうがあなたの部屋。一緒に暮らしている子供が一人いるね。その子がさっき通り過ぎた玄関近くに面した部屋住んでいて、反対にこの家の一番奥が旦那さんの部屋。あってる?」

「ええ、その通りだけど……。一体どうして」

 家具の配置から、とだけ答えた。本当は、夫を語る彼女の態度からみた二人の関係性も根拠になっている。

「——ものすごくストレスが溜まっていると思う。この家には彼の居場所が感じられない」

 もの問いたげに視線を上げた彼女の目に、ぼくは視線を合わせた。

「彼はこの家に来て、より威圧的にならなかった? マリア。彼の、っていうのはつまり、あなたの旦那さんのって意味なんだけど」

「何ですって?」

 ぼくは、彼女の声の不穏な低さに気づかないまま続ける。

「格調高くしようとしているんだけど、このリビング・ダイニング全体にいまいち調和がとれてない感じがあるんだ。無理をしてるね。居心地の良さを後回しにしちゃうほどの憧れ、というわけでもないよね。旦那さんへのメッセージなのかな、この部屋にふさわしい品位を——違う、そうか」

 謎が解けた気がして、ぼくは明るく言った。

「この格調高さは、あなたの無意識の防御なんだ」

 そういって顔を上げたぼくの目に、彼女の燃え上がる瞳が飛び込んできた。その形相に思わず飛び上がりそうになったけれど、ぼくの表情に気がついた彼女はすぐに目を瞑った。深く深呼吸をして、その手の震えが止まる頃には表情は元の穏やかなものに戻っていた。

 びくびくと縮こまって反応を待つぼくに、マリアが微笑んだ。

「ごめんなさい、ルーク。ちょっと驚いただけよ。あなたの言う通りだと思う」

 そして、慌てて謝ろうとするぼくを遮って続ける。

「わたしの、息子の部屋も見てもらえないかしら」

 急に話が依頼内容へと転換して、ぼくは少しだけ言葉を詰まらせてしまった。

「息子さんの部屋って、元々デザインの依頼をしてくれていた部屋のこと?」

「そうよ」

「さっきからちょっと気になってたんだけどさ。息子さん、今日家にいないみたいだけれど……」

 ぼくの言葉にマリアは少しの間黙り込んだ。そして、面白がるような呆れたような、少し奇妙な顔で笑う。

「……それは、大丈夫。あの子はもう家を出てしまっていて、わたしはあの部屋を整理するように言われているの」




「入って。この部屋からあなたが感じ取ったものを、わたしに教えてほしい」

「オーケイ」

 そう返事をして、ぼくは彼女に言われるままにその部屋へ足を踏み入れた。

 その百五十平方フィートほどの空間は拍子抜けするほど閑散としていた。

 タイルの床にはおざなりにラグが敷かれ、白い天井には白熱電球がぽつりと設置してあった。置かれた家具は机とベッドと本棚だけのようだ。机もベッドも、サイズから見ておそらく五、六歳頃から使い続けているのだろう。質はとてもいいものだし、年齢に合わせて高さの調節はできるようではあったけれど、それでも使用者の実際の年齢にはそぐわないように思えた。

 本棚は――言い方は悪いけど安物の粗悪品だ。たぶん二十五ドルくらいのやつ。ぼくだったら同じ値段でも、絶対に違う棚を選ぶ。

 あまりインテリアに興味がなくて、ミニマリストで、そして必要なものは全てこの部屋からすでに持ち出してしまった男の子といったところだろうか。

 この部屋を別の用途に使うのか、それとも部屋の持ち主のために取っておくのかマリアに尋ねようとしたぼくは、奇妙なことに自分の体が動かなくなっていることに気がついた。――人は皮膚でも物を見ているのだ、といつだったか専門学校の教師が言っていた。目をつむっていても、目隠しをしていても、人の心は部屋の色に影響を受けるのだと。あの時の先生の言葉が、初めて実感を持って理解できた気がした。ぼくの意識はただ驚いて目を白黒させているだけだというのに、皮膚の方はすでに何かに気がついて、ざわざわと大騒ぎしている。――脳裏に、ほうきを握りしめた子供の影がよぎり、ぼくは慌ててそれを頭から追い出した。いつの間にか早鐘を打ち始めた心臓に向かって深く息を送り込むと、改めて注意深く部屋に目を向ける。

 入り口から見て正面の壁には、控えめな大きさの窓が設置されていた。窓のすぐ側は灰色のブロック塀で、カーテンはない。薄い薄い合板でできた本棚は、厚みの分を縦横に引き伸ばしたかのように容量だけはたっぷりあった。質ではなく容量で選んだ本棚なのかもしれない。それではなぜ棚の中身はこんなにがらんとしているんだろう。古ぼけたいくつかの教科書とノート、そして難しそうな専門書が一冊。

 徐々に悪寒がひどくなってくる。この部屋からは奇妙なほど、部屋の持ち主の個性が見えてこない。それなのにこの、喜びと呼べる全てを諦めてしまった空っぽの空間に、ぼくは強い既視感を覚えていた。

 机に目を向ける。子供の安全性を第一に考えて作られた、丸みを帯びたフォルム。天板部分の端の部分だってきれいに角が削られている。その緩やかな線を描く部分に滲んだ、茶色く濁ったしみ。全身がぞっと慄き、その戦慄に数秒遅れて、ぼくはそれが血の跡だと気がついた。

「……この部屋で、幸せそうな笑顔を浮かべるとしたら、あなたはどういう時なのだと思う?」

 ぼくの背後で、マリアが静かな声で問いかける。

「あの子は幸せだったのか、それとも……ルーク、あなたになら、あの子の笑顔の意味が分かるのではないかと思ったの」

 その時、初対面の時のまだ畏まったサミュエル・ロビンソン警部補の声が耳の奥で再生された。

 ――忙しいところ申し訳ありません、ポッターさん。ご友人のことで、あなたにお聞ききしたいことがありましてな。

 そう、あの時ぼくは初めて彼のフルネームを聞いたのだ。

 ――アラン・マクスウェル。彼のことはご存知ですね?

 刑事の声に、送付されたPDFファイルのイメージが重なる。契約書ほどの拘束力はないけれど、サービスへの承諾サインと連絡先を記載してもらった電子ファイル。名前の記載欄には流麗な筆記体で『マリア・マクスウェル』と確かに書いてあった。

 思わず振り返った瞬間、マリアと目が合った。見覚えのある黒い目に、ぼくの中に強烈な懐かしさと悲しみが吹き荒れる。

「アラ……」

 そのまま絶句してしまったぼくをマリアが静かに見つめていた。やがてゆっくりと口角をあげ、悲しげに微笑む。それは彼女が見せた、初めての本当の笑顔だった。

「わたしはアランの母親です。ルーク、生前のあの子と仲良くしてくれて、本当にありがとう」

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