第七章 愛される幸せ

第25話 それでは皆様ごきげんよう

 聖女の大反乱が終わりを迎え、リンフォード帝国は平穏を取り戻した。


 皇帝陛下は聖女の無茶苦茶な統治の尻拭いで、毎日忙しくしている。皇后陛下は体調を崩して休んでいるため、ミカが皇帝陛下と皇后陛下の補佐をして政務に励んでいる。


 そしてフレッドは。


「ユーリ、俺はコンラッド伯爵へ聖剣を返してくる。折れてしまったから、その埋め合わせもしてくるつもりだ。なるべく早めに帰ってくるから、どうか待っていてくれ」

「……わかったわ。荷物も整理したいし、一度自宅に戻っていてもいいかしら?」

「そうだな。クリストファーもバスティア王国へ強制送還したから、もう安心だ。念のため近衛騎士を護衛につけるから、自由に過ごしていてくれ」

「ありがとう。気を付けて行ってきて」

「ああ、最速で戻ってくる」


 フレッドはそう言って、私の髪をひと束掬い上げてキスを落とした。その仕草にドキッとしたけれど、すぐに平静を取り戻す。フレッドは名残惜しそうに皇太子妃の部屋を後にした。




 私は決めていた。

 決心したのはコンラッド辺境伯の屋敷で、フレッドが聖剣を抜いた時だ。フレッドを見つめるイリス様の瞳は、憧憬の念が宿っていた。フレッドは義理堅いから私の護衛騎士のままでは、自分の心に素直になれないだろう。


 確かに私とミカとへレーナが転生してきて、原作とはまったく違う物語を紡いでいる。でもクリストファー殿下が王太子であったり、その婚約者が私であったり、ミカが皇女でフレッドが皇太子なのも変わらない。それなら。


 フレッドがイリスに心を奪われないと、誰が言い切れるだろう。

 人の気持ちは簡単に変わるのだと私は知っているし、それが普通だと理解している。ただ、簡単に受け止められるかといわれたら、さすがにそれはしんどい。


 それがずっとそばにいてくれたフレッドならなおさらだ。フレッドのサファイアブルーの瞳に浮かぶ熱が冷めていくのを、私は見たくない。


 だからフレッドを解任して、私はひとり旅に出ることに決めた。

 私を護衛してくれる女性騎士には、何日か経ってからフレッドに渡し忘れたものがあると言って、後を追ってもらおう。


 女性騎士に託すのはフレッドの専属護衛の解任状とそれまでの給金だ。中身が金貨だとわからないように、五十枚ずつ束ねて紙で巻いた。ジャラジャラしないので、貴重品だといえば信じるだろう。


 私は皇太子妃の部屋から私物をすべて持ち出し、侍女と騎士にはフレッドが戻るまで部屋には誰も入れないでほしいとお願いした。これで私の荷物がなくなったことは発覚しない。

 最後にミカへ手紙を残して一度帝都の自宅に戻った。




 久しぶりの我が家は、私とフレッドが出た後に片付けられたのか綺麗に整理整頓されていた。女性騎士にはリビングで待ってもらうことにして、キッチンでお湯を沸かす。


「なんだか久しぶりな気がするわ……」


 ここでフレッドとふたり、ゆっくりと穏やかな時間を過ごした。私だけに見せるフレッドの笑顔が浮かんでは消えていった。

 戻れるなら、あの時に戻りたい。でもそれはもう叶わない。私は前に進み続けるしかないのだ。


「……まあ、前世でもひとりだったし、どうってことないか」

「なにかおっしゃいましたか?」

「ううん、なんでもないの。久しぶりだから懐かしいなって思っただけよ」


 にっこりと微笑む女性騎士に聞こえてなかったようで、ホッとする。


 二日後にフレッドの忘れ物が見つかったと言って、女性騎士へ解任状と金貨を持たせて後を追ってもらった。コンラッド辺境伯で必要になるし、後続の騎士の手配も私がするから問題ないと急かした。


 それから大急ぎで化粧水の権利も店舗と工場の運営者へ書き換えて、自宅の不用品は売り払った。もうお金は十分すぎるほど貯まっているから、また新しい事業を始めてもいいし、一生まったりのんびり暮らしてもいい。


 もしフレッドがこの家を訪れた時のため、なんの心配もなくイリス様を娶っていいと手紙を残す。そして誰もいない空間へ向かって呟いた。


「それでは皆様ごきげんよう」


 こうして私のひとり旅が始まった。




 気ままに馬車に乗り好きなところで降りて、なんの計画も立てずに宿を取った。

 その土地の名物を食べたり、美しい水晶の館や、絶景と言われる虹色の湖を見に行ったりした。疲れたら宿でダラの時間を過ごし、帝国内を転々として歩いた。


 そんな旅を続けて二週間が経とうとしていた。

 その日、宿の食堂で朝食を食べていると、宿屋の女将が主人と話しているのが耳に入った。


「ええ! ついに皇太子様が婚約するのかい!」

「そうらしいぞ。なんでも隣国の貴族のお嬢様だってよ」

「へえ。そりゃあ、めでたいね! 結婚式には隣国からもお客さんが来るかもしれないねえ!」


 フレッドが婚約……そうか、もうバスティア王国から戻ってきたんだ。隣国の貴族令嬢というと、やっぱりイリス様と結ばれたのか。

 それなら、こうして離れて正解だった。私がいたら、フレッドの恋路を邪魔してしまうところだった。


 目頭に熱いものが込み上げてきたけど、瞬きしてやり過ごす。何度も大丈夫だからと自分にいい聞かせた。


 それから数日間は宿に引きこもった。泥沼に沈んでいくような気持ちをそのまま受け止め、なにもせずに無気力な状態で時間は過ぎていく。


 ボーッとベッドの上で天井を眺めていた。

 目を閉じれば浮かんでくるのはフレッドの嬉しそうな笑顔。優しく細められたサイファイアブルーの瞳。私を包み込む逞しい腕。


「ダメだ……今さら気が付いたってどうにもできないんだから。フレッドはもう……」


 フレッドはもう他の人を選んだのだから。


 こめかみを伝う涙が枕を濡らしていく。

 わかってた。ずっと前から気付いていたのに、見ないふりをしてきた。


 私はフレッドが好きだ。

 心が悲鳴を上げるほど、フレッドが好きだ。

 今でも、きっと、これからも。




 それから三日は泣いただろうか。

 あまりにも食事に来ない私を心配した女将さんが、部屋を訪ねてきた。泣きすぎて目を真っ赤に腫らした私を見て、慌てて冷えたタオルを用意してくれる。


「あんた、なにかつらいことがあったのかい?」

「……私の好きな人が、他の人と婚約したみたいで……」

「ああ、それは悲しかったね……でもねぇ、ご飯は食べないと身体に悪いよ。今スープを持ってくるから、それだけでもお腹に入れな」

「……ありがとうございます」


 女将さんが持ってきてくれたスープは、野菜の旨みがギュッと詰まっていて、とても優しい味がした。

 思っていたよりもお腹が空いていたみたいで、一気にスープを飲み干す。


「あはは、それだけ食べられるなら大丈夫だね! あんた、よかったらウチで働かないかい? 忙しくしてる方が気が紛れるよ」


 女将さんの言葉に私は考えた。確かに前世は仕事が忙しかったから、そうやって過ごしているうちに恋愛の嫌なことなんて忘れてしまっていた。

 そうだ、時間があるから逆に考えてしまうのだ。


「あの、今日までの宿代はお支払いするので、明日から働かせてもらえますか?」

「もちろんさ! 先月バイトの子が辞めたばかりで困ってたんだ。助かるよ」

「なにからなにまで、ありがとうございます」


 そう言って頭を下げると、女将さんは豪快に笑った。




 それから私は従業員用の部屋へ荷物を移して、新しい生活を始めた。


 朝早く起きて朝食の準備を手伝い、それが終わったらチェックアウトした客室の清掃だ。清掃の後は大量の洗濯をこなして、宿泊の予約をしているお客様の確認して昼食を急いで平らげる。


 宿泊のお客様が来る前に部屋の準備を整えて、夕食の準備を手伝った。チェックインしたお客様のご要望をひと通り聞き終えて、なにもなければ夕食をとりやっと休むことができる。


 目の回るような忙しさだったけれど、あっという間に一カ月が過ぎた。身体を動かしているうちに悲しくて涙をこぼすこともなくなった。


「本当にユリちゃんが来てくれて助かってるよ! こんなに働き者だと思わなかったわ」

「そうだな、ユリちゃんの用意してくれた化粧水も好評で、お客様も増えたもんなぁ」


 女将さんとご主人にはとてもかわいがってもらっているので、宿屋の売りになればとオリジナルの化粧水を作って客室に常備した。すでに帝国では私の開発した化粧水が数多く出回っているので、これくらいなら目立たない。

 この宿オリジナルにすれば、お客様が増えると見越したのだ。


「いえ、私が一番つらい時に優しくしてくれたので、恩返しができたらと思ったのです。お役に立ててよかったです」

「もう、本当にいい子なんだから! そんな見る目のない奴はあたしがぶっ飛ばしてやるよ!」


 女将さんの力こぶを見て笑いながら、もし前世で両親が生きていたらこんな感じだったのかなと思った。

 そろそろバスティア王国にいる両親に手紙でも出さないと………と考えていた時だ。


 ひとりの旅人がやってきた。フードを目深にかぶり、キョロキョロと辺りを見回している。初めてのお客様のようだ。私の方を見て息を呑む気配がした。

 気のせいかと思って掃除を始めると、女将さんが愛想よく声をかける。


「いらっしゃいませ〜! ご予約のお客様ですか?」


 それなのに女将さんを無視して、私の前まで大股で近づいてくる。なにか粗相でもしたかと思うけど、今来たばかりのお客様なので心当たりがない。


「……と見つけた」


 こぼれ落ちる掠れた声は。


「ユーリ。やっと見つけた……!」


 私を抱きしめる逞しい腕は。フードが外れてあらわになったサラサラの艶のある銀の髪は。煌めくサファイアブルーの瞳は。


「フレッド……」


 恋しくて恋しくて今でも胸の奥を締めつける。

 誰よりも大切な人だった。



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