第2話 目指すはダラのプロ

「ユーリ様! ユーリ様! お気を確かにしてください!」

「主治医はまだなの!? ユーリ、今医者を呼んでいるから、もう少しだけ耐えるのよ」


 泣きそうな若い女の子の声と、私の手を握るひんやりとした細い指。重だるくて寒さに震える身体。朦朧とする頭で考えた。


 うっさいなあ……ていうか、なんで朝っぱらからこんなに人がいるの? はあ、それにしてもクラクラして起きられない。昨日間違いなく飲み過ぎたわー……って、今何時!? 遅刻する!!


 ぱちっと目を開くと、見たことのない景色が飛び込んできた。

 心配そうに私を覗き込む紫の瞳。メイド服を着た十代後半くらいの女の子。天井には天使とお姫様が戯れる絵。やけに凝った模様の壁紙。私の部屋じゃない。


 私の部屋は真っ白な壁だ。しかもおかしなことに、経験したことのない記憶が、頭の中を流れていく。

 目の前の紫の瞳の女の人はいつも優しく微笑んで、このメイド服の女の子もニコニコしながらたくさん話しかけてくれていた。

 ——違う、違う違う違う。女の人はお母様で女の子はモニカという名前の専属メイドだ。


 私はユーリエス・フランセル。バスティア王国の公爵令嬢だ。王太子であるクリストファー殿下の婚約者で、一週間前から熱が下がらなくて寝込んでいた。あまりにも高熱が続いてわけがわからなくなってしまった……でも思い出した。

 あれは、いわゆる前世の記憶だ。でもなんだかごちゃごちゃしてて、今は考えられない——


 再び意識は真っ暗な闇の中に落ちていった。でもこれだけは理解していた。

 私の未来は絶望的だと。




 翌日には嘘みたいに熱が下がって、頭の中はスッキリはっきりしていた。一気に前世の記憶が押し寄せてきたので、それから三日間は混乱する部分もあったけれど、記憶がしっかり整理されてだいぶ落ち着いている。


 紅茶を口に運びながら、私は改めて自分の現状を把握しようと思考を巡らせた。


 どうやら前世の私は、今の私に転生してきたようだ。しかも前世の記憶によると、婚約破棄された上にクリストファー殿下に断罪される悪役令嬢だ。そんな馬鹿みたいな話と思うけれど、現実問題として私の身に起こっているのだから受け入れるしかない。


 だけど物語は始まっていないとわかる。『勇者の末裔』は五百年前に邪神を倒した英雄が忽然と姿を消したことが始まりだ。


 その末裔である辺境伯令嬢のイリスが主人公の物語で、馬に乗り、野を駆け、剣を振り回し、それはもうお転婆な女性だ。ある日の夜会でクリストファー殿下と出会い、お互い恋に落ちるけれど王太子には婚約者がいるので気持ちを抑えていた。


 それでもどんどん心惹かれ合い、私が刺客を送った際に証拠を掴み断罪。その後もなんやかんやあって、ようやくイリスとクリストファー殿下は結ばれる。そんなお話だと美華が言っていた。


 物語の人物像と、私が知る辺境伯令嬢イリス様の性格や素行とも合致している。それであれば、まだクリストファー殿下と出会っていない。クリストファー殿下には公爵家の諜報部員がついているから、もし新しい女性と出会っていたらなんらかの報告が来ているはずだ。


 私は浮気性のクリストファー殿下に振り向いてもらいたくて、相手を排除するためにいろいろやっていたのが役に立った。


 浮気性で婚約者が一週間も高熱で寝込んでいるのに見舞いにすら来ない薄情者に、一瞬で冷めたけれど。前世の記憶が戻ってからは、だいぶ価値観も変わってしまって、なぜあれほどあんな男に入れ込んでいたのか不思議なほどだ。


 いや、でも最近の流行りはモブキャラ?とかいうのに転生して、前世の知識で認められていくとかそういう物語じゃなかったの? うう、美華の話をもっとちゃんと聞いておけばよかった……!


 ていうか、酔っ払ってお風呂で寝ちゃって死んだなら美華は大丈夫なんだろうか?

 両親が死んでから、ずっとふたりでやってきたのに……ひとりで立ち直れる?


 あの子をひとりで泣かせたかと思うと、いてもたってもいられなくなる。


「でも……今の私じゃなにもできない……」


 ポツリと呟いた言葉を、ため息でかき消した。

 元の世界に帰る方法があるのかすらわからないのだ。ただギュッと拳を握って、耐えるしかない。でもきっと、美華なら大丈夫、私と違って友達もたくさんいたし、この前告白されたって言ってたし、きっと立ち直れるはず。


 美華のことは気になりつつも、自分の現状も捨て置けない。なにせこのままでは早かれ遅かれ処刑されてしまう。

 しかも残念なことに転生特典のようなものはないらしく、なんていうか、ただぶっ込んだだけみたいだ。ないものは仕方ないけれど、そうなったら私が頼れるのは朧げな物語の記憶と、前世の知識だけだ。


 それならば、クリストファー殿下の矯正は可能だろうか?

 クリストファー殿下は現在二十四歳、私は二十一歳。年下のしかも舐め腐っている相手から小言を言われたところで、聞く耳を持たないだろう。性格を変えるのは無理だ。つまりクリストファー殿下の浮気癖も治らない。


 これは前世でも経験した。浮気する奴はどんな状況でも浮気するし、それが悪いことだと思っていない。なんなら『俺に浮気させるお前が悪い』とかとんでも理論を持ち出してくる。ああ、これはDV気質のある男の場合だ。

 そうでなくでも『もう二度としません』と言いつつ、裏では浮気相手と切れていなかった。

 クリストファー殿下なら前者のセリフを言いそうだけれど。


 それに今でさえ私が婚約者ということで、クリストファー殿下の政務の手伝いをさせられている。民の血税で生きてるんだから自分でやれよと思うし、なによりも社畜だった私はもう馬車馬のように働くことにうんざりだ。

 一番に愛されない生活も、枯れ草のように潤いのない毎日も、なにもかも。


 そうなると、問題は私がクリストファー殿下の婚約者でいることだ。この先、物語が始まればヒロインが現れ、クリストファー殿下は真実の愛に目覚める。そして私が浮気相手を排除してきた証拠を突きつけ、稀代の悪女だと言って処刑するのだ。


 原作でクリストファー殿下が浮気しまくっていたとか、そういう描写があったかは知らないけれど、私からみたらただの浮気男だ。


 それなら危険を排除して、前世の知識を活かしてお金を稼ぎ、引きこもって悠々自適の生活ができるのでは!?

 ただグーダラして、自由気ままに生きていけるのでは!? それはつまり、夢にまで見た生活の不安のないプロのダラ!!


「決めたわ! 私、ダラのプロになるわ!!」

「……ユーリ様、大丈夫ですか?」


 後ろでお茶のおかわりを用意していたモニカが、怪訝な表情で私を見つめている。高熱が続いたせいで頭がおかしくなったと言いたいみたいだ。モニカはもう八年も私の専属メイドを務めている信頼できる使用人で、こんな風に気軽に話してくれる。

 公爵家で長く働く使用人たちは、親しみを込めて私をユーリと呼んでくれた。父も母も愛情を込めて私を大切に育ててくれたのだ。


 前世では得られなかった温かいものがここにある。相変わらず男運だけは悪いみたいだけど、愛情あふれるこの公爵家のみんなにはこれからも笑顔でいてほしい。


「コホン。大丈夫よ。それより紙とペンを用意してくれる? リストを作りたいの」

「承知しました」


 そのためにはなにから始めればいいのか。

 処刑を避けられたら一番いいけれど、私はこの物語がいつ始まるのか知らない。最悪、私が処刑されたら公爵家にも累が及ぶのは明白だ。


 私はさまざまなケースを考え、TODOリストを作り上げていく。前世の記憶も思い出したことで、できる幅が増えたのでなんとかなりそうだ。 


「よし、方向性は決まったわ。ふふふ、絶対に危険を回避して、ダラのプロになるのよ……!」

「ユーリ様……まだ完全に回復されてないのですね。おかわいそうに」

「大丈夫よ、モニカ。至って正常だわ。これから手紙を書くから、それを届けるように手配してくれる?」

「はい、承知しました」


 こうして私は破滅回避の一歩を踏み出した。



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