第8話:地下最奥の秘密

 当初タガート聖堂本体で生じた爆発は、もちろん警備を撹乱かくらんするための陽動だ。

 アランが指揮する「夜鳥」の成員に実行させ、聖堂関係者の注意を引き付ける算段だった。

 尚、この爆発を起こすために使用されたのは、魔法の類ではない。悪徳官吏ボッツの一件で、ケズイックの隠し倉庫から収奪した「火竜石」だ。早速ここへ何個か持ち込んで、効果を試してみたのだった。


 続けて混乱を助長するため、私が墓地や地下霊廟れいびょうの死体から不死族アンデッドの群れを作り出した――

 私が習熟しているのは、主に聖職者が行使する治癒魔法だけじゃない。暗黒魔法や古代魔法についても、高位のそれをひと通り身に付けている。


 子供の頃から魔法の勉強は大好きだった。

 いや、転生前から勉強が好きで、ずっといっぱい勉強したかったのだ。

 だから聖職者になってからも、勉強できるものは何でも勉強してきた。

 それが治癒魔法以外のもので、邪悪だと考えられている魔法でも。


 もっとも司教区長館の貴賓室から、他の場所に埋葬されている死体をあやつることは、いくら私でも普通は不可能だ。特殊な補助が必要になる。

 そこで今回は「屍の粉末ゾンビパウダー」と呼ばれる魔法の触媒を、事前に用意していた。

 私は魔力付与術によって、任意の物質から簡単な魔法の品物を生成できる。

 そうして「屍の粉末」には、暗黒魔法の適用範囲を拡大する効果があるのだ。


 魔法行使に際しては、あらかじめアランが墓地の各所に粉を散布しておいてくれた。

 また地下霊廟にも、私が自分の手で安置されている遺体のそばに細工をほどこした――

 そう、ひつぎそなえた花に「屍の粉末」を付着させてあったのだ。


 これにより司教区長館の中から、暗黒魔法で不死族の群れを操ることが可能なのだった。

 事前に花そのものを用意したのはハロルドだったから、誰にも怪しまれなかったと思う。



 尚、こうした諸々の工作は、おおむね計画通りに奏功したと言えるのだが。

 結果として立ち現れた状況は、すべてが想定内だったわけではない。


 例えば今、司教区長館の地下通路を下っていることは、まさに思い掛けない展開だ。

 地下霊廟奥の区画には、犯行前にはオリヴァーが聖堂本体側から侵入する計画だった。

 平時は警備の目が厳しい場所も、混乱に乗じれば突破できるだろうと踏んでいたのだ。

 だがこんな隠し通路で司教区長館から、私がじかに踏み入ることになろうとは。


 ……いやまあ正直言えば、

「マレットの悪行に関する決定的な証拠が、聖堂地下の最奥に眠っている」

 とした場合、こういう秘密の通路が存在することは、あり得る気がしていた。

 出入りする際に必ず地下霊廟を経由するしかないのでは、マレットも気軽に立ち入れないはずだと感じていたからだ。

 とはいえ「あり得る」と予感していても、実在する前提で犯行計画を練ることはないけれど。


 ――ただこれはむしろ、好都合かもしれない。


 私は、この目で聖堂地下の最奥が確認できることを、前向きにとらえはじめていた。

 ついさっきマレットは、皆にこの先で見たもののことは口外するな、と念押ししていた。

 しかも貴賓室を出て以後、ここへ避難するに際して、身辺警護の守衛さえ連れていない。

 地下最奥に随行ずいこうを許されなかったのは、使用人たちやキャロルだけじゃなかったわけだ。


 その意味を考えれば、やはり地下最奥には何か、後ろ暗い秘密があるに違いない。

 秘密が悪事の証拠なら、すぐにも混乱に乗じ、マレットを抹殺する予定だった。

 人目に付かないように消す手段は、いくらでもある。


 ちなみに晩餐会がもよおされたことも、そもそも最初は想定外だったわけだが――

 あえて当夜に計画を実行した結果としては、かえって騒ぎが大きくなったため、事態が上首尾で経過しているように思う。


 他には、晩餐会の出席者をまとめて知ることができたのも、ある意味で僥倖ぎょうこうだ。

 彼らは皆、マレットと何かしらやましい接点がある者ばかりだろう。

 それは言い換えれば、誰も彼も誅するべき人間だということだ……。




     ○  ○  ○




 下り通路をしばらく進むと、前方にまばゆい光の存在を認識しはじめた。

 徐々に強い光源に近付いているのを、皆が肌で感じていたように思う。

 いっそう地下深い場所へ潜っているにもかかわらず、奇妙な現象だ。


 それからほどなく通路が途切れ、広い空間に出た。

 大きな円形の広間で、天井がとても高い。周囲の壁は階段状の傾斜になっていて、高い位置になるにつれ、部屋の中心から外側へ離れている。

 つまり全体を見ると、すり鉢型の形状になっていた。

 私たちが立つ位置は、丁度その底に当たる場所だ。


 そうして周囲を取り巻く階段状の傾斜には、なんと大量の植物が生い茂っている。

 この空間にあふれる光景は、段々畑の真ん中に佇んでいるような錯覚を抱かせた。

 また、さらに詳しく観察していくと、天井の縁には数箇所、ちいさな穴が穿うがたれていて、そこから水が常に流れ込んでいるのがわかった。これが植物を育てているのだろう。

 ペティグルー近辺の街道で、アランが豊富な水源について話していたことを思い出した。



 だがここへ踏み入った直後、真っ先に私の目を引いたのは、頭上で輝く物体だった。

 直径二メートル余りの、オレンジ色に光る球体。それが網状の鉄鎖に包まれて、天井から吊り下げられている。その周囲では、白い魔力の粒子が鉄鎖を伝いながら、球体の内外に出入りしていた。そうすることにより、ここと各所で魔力を循環させているらしい。


 ――これが古代遺物アーティファクト「破魔の宝珠」なのね。


 私は、まぶしさでわずかに瞳を細めつつ、輝く球体を見て確信した。



 一方、地下空間らしからぬ光景を目の当たりにし、他の部分に気を取られていた人物もいる。

 晩餐会の出席者の一人で、商人らしき風体の男性は、繁茂する植物に驚きの声を上げていた。


「こ、この大量に生い茂る植物は、もしやすべて『ラメドの樹』なのでは……!?」


「ぐふふ。お気付きになられたか、タガート聖堂地下最奥の秘密に」


 マレットは、下卑げびた笑いを漏らし、商人の見立てを肯定した。



 ――ああ、やっぱり! これがタガート聖堂に「喜捨きしゃ」が集まる理由だったんだ。


 隣で会話を聞いていて、一気に多くの謎が解けた。


「ラメドの樹」から採取できる葉は、特殊な薬の原料となる。

 精神をたかぶらせ、快楽をもたらす成分が含まれているからだ。ただし同時に脳の機能を破壊し、幻覚を見せる作用もあって、多量に摂取すると命に係わる。

 そのためラメドの薬は、多くの国で禁忌薬物に指定され、使用が違法とされていた。

 転生前に暮らしていた世界で言うところの、「麻薬」の一種と同じだと考えていい。

 私も薬学の知識はあるけれど、実際に栽培されているラメドは初めて見た。


 とはいえ個人的には、それほど驚きは感じない。

 禁忌薬物の取引は、反社会的組織の資金源として、いかにも定番の手口だ。

 それに何となく、こういうものを聖堂のどこかで見られそうな予感はあった。


「破魔の宝珠」を得たことが、マレットにとっては邪悪な福音だったに違いない。

 その魔力は、地下の栽培場を照らし続け、ラメドを生育するために極めて有用だ。

 おまけに聖堂最奥まで立ち入ることが可能な人間も限られるから、ここは禁忌薬物の生産地として非常に秘匿性が高い。


 司教区長館から下りてくる際、通路にレールが敷かれていた理由も察しが付いた。

 収穫したラメドの葉を外へ運び出すため、台車のようなものを走らせているのだ。

 地上に出てすぐそばに厩舎があるのも、馬車に乗せるのが便利だからだろう。



 ケズイックの官吏ボッツから「喜捨」と称して多額の金員を受け取っていたのも、ラメドの葉を大量に裏で取引していたからに違いなかった。


 あとは他にも、ホジキンソン子爵の娼館に関する噂が思い返される。

 ホジキンソンの死後、解放された娼館から救い出された娼婦の多くは、なぜか廃人化していたという話があった。あれもたぶん、禁忌薬物を大量投与されていたからだったのだろう。

 あの娼館には、たしか聖職者も出入りしていた、とオリヴァーから聞いている。

 その聖職者というのは、きっとマレットの手下だったのだ、と私は推断した。


 タガート聖堂の悪徳司教は、ブラキストン州全域にラメドの禁忌薬物を流通させ、巨額の富を得ていたのだ! 




「――まったく、本当に最低の金蔓かねづるを作り出したものだな」



 と、そのとき。


 不意に低く落ち着いた声音が、聖堂最奥の広間に響き渡った。

 周囲をぐるりと見回すと、樹が茂る高所の一角に人影が佇立ちょりつしている。

 黒ずくめの着衣を身に纏う青年だ。腰から長剣をひと振り下げている。


 泰然と構える長身は、紛れもなくオリヴァーのそれだった。

 ……ただし頭部には黒い頭巾を巻いて、顔を隠している。

 たった一人で、こちらをやや離れた位置から眺めていた。


「聖職者の身分を隠れみのにしつつ、禁忌薬物で金儲けするのは楽しいか? タガート聖堂の司教として『破魔の宝珠』を好きに扱える立場でなければ、決して実現できない手口だな」


 オリヴァーは、群生する樹々のあいだをすり抜け、階段状の傾斜を下りてきた。

 どうやら事前の計画通り混乱に乗じて、ここには地下霊廟から侵入したらしい。

 私たちが通った出入り口の他にも、外部とつながる通路があるのだろう。



 辛辣しんらつな言葉を掛けられ、マレットは声を荒げて誰何すいかした。


「きっ、貴様は何者だ! この聖堂で先程から狼藉を働いている一味の者か!?」


「悪徳司教に名乗る名はない。だが折角の機会だから、ひとつだけ教えてやる――」


 オリヴァーは頭巾の隙間から、切れ長の目で鋭くマレットをにらんだ。


「この聖堂には『夜鳥』という組織の密命でやって来た。ここでいかなる悪事がくわだてられているか調査し、それと確証が得られれば、おまえをすぐにも破滅させるためにだマレット」


「……よッ、『夜鳥』!? 『夜鳥』だと!! まさか近年ブラキストン州で噂になっている、あの犯罪組織のことか!? 高貴な身分の人物を次々と殺して回り、貧民共の一部から妙な称賛を集めているという、義賊気取りの咎人とがびと集団……」


 組織の固有名詞に反応したのは、地下最奥まで付いてきた貴族の一人だ。

 オリヴァーは「ほう、知っていたか」とつぶやき、目だけでそちらへ一瞥いちべつくれる。

 貴族は短い悲鳴を上げて、後退あとじさりした。


「もっともそれとわかったところで、このあともう何の役にも立たないだろう。なぜなら今ここに居合わせている者は皆、生きて再び地上へ戻ることがないからだ」


「ふん、何を馬鹿なことを申すか。貴様一人でどうするつもりだ」


 オリヴァーが冷たく言い放つと、マレットは逆に脅してきた。

 晩餐会の出席者で、貴賓室から引き連れてきた人間は、私を除いても二〇名近い。

 曲がりなりにも剣の心得がある貴族とか、魔法を習得している聖職者も含まれている。

 侵入者一人ぐらいなら、数のちからでどうにでもできると思っているのだろう。



 しかしオリヴァーは、ひるむ素振りを見せなかった。

 にわかに着衣の懐へ手を入れると、拳よりひと回り大きな物体を取り出す。

 表面は黒いが、深紅の静かな光を帯び、それが明滅して輝く鉱物だった。


「火竜石」だ。

 さっき屋外で使用されたものの他にも、オリヴァーがひとつ所持していたのだ。

 それを右手で握り直すと、いきなり大きく振りかぶり、天井目掛けて投擲とうてきした。

 マレットたちは呆気あっけに取られた様子で、身動みじろぎすることさえ忘れているようだった。

 希少な「火竜石」を初めて見て、危険物だと気付かなかったせいかもしれない。



「火竜石」は次の瞬間、頭上に吊るされた「破魔の宝珠」とぶつかり――

 閃光をともなって、激しい爆発を起こした! 


 私は咄嗟とっさに床へ身を伏せ、左右の耳を両手でふさいだ。

 おかげで間一髪、轟音から鼓膜を守り、爆風に身をさらすこともなかった。

 だが他の人々の中は、聴覚に異常を感じてうずくまったり、風圧で倒れ込んで痛みを訴えたり、皮膚を熱で焼かれて絶叫したりと、苦しみもだえる姿が散見された。



 また爆発の直後から、周囲の光景も様変わりした。

 聖堂各所をいろどきらめきが失われ、この広間でも頭上から注ぐ光が消えた。

「破魔の宝珠」が爆発で砕けて、灯りを生み出す源が破壊されたからだろう。

 魔力の供給が絶たれ、建物の中で循環させることもできなくなったわけだ。


 さりとて地下最奥に関して言えば、内部は暗闇に閉ざされたわけではない。

「火竜石」から飛散した炎のちからが、広間に茂る植物へ燃え移ったせいだ。

 しかもそれは次々とラメドの樹をみ込んで、赤く輝く範囲を拡大していく。

 見る間にすり鉢状の空間は、火と煙が立ち込める煉獄れんごくと化した。


「な、なんということだ。私の育てた薬の原料が、燃え尽きてなくなってしまう……」


 マレットは床の上にへたり込み、肩をわななかせていた。

 栽培場が焼かれる様子を、信じがたいものを見る目で眺めている。樹々が灰と化すにつれ、自らの資産も、煙と共に消えていくように感じているのかもしれなかった。

 しかし「火竜石」の爆風を浴びたくせして、目立った怪我はなさそうだから悪運が強い。



「おのれ匹夫ひっぷ! 聖堂の地下へ不法に立ち入ったばかりか、神聖な『破魔の宝珠』を破壊して、あまつさえ我々をこのように危険な状況へ陥れるとは」


 荒々しく吠えて、貴族の一人がオリヴァーへ詰め寄った。

 護身用に所持していた剣を抜き、正面に構えながら凄む。

 正規の剣術を修めているらしく、腕に自信があるみたいだ。


「相応の報いを受ける覚悟はあるのだろうな! この私が斬り捨ててくれる」


 オリヴァーも抜剣し、相手と真っ直ぐ対峙する。

 貴族は、気合の声を張り上げ、鋭く剣を打ち込んだ。

 だが黒ずくめの青年を捉えられず、白刃が空を切る。


 あべこべに斬られていたのは、貴族の喉元だった。

 オリヴァーの剣が高速でひらめき、気付けば一瞬のすきいていたようだった。

 目にも止まらぬ早業はやわざ餌食えじきとなり、貴族の身体は床の上へ派手に倒れた。

 周囲に鮮血をまき散らしながら、断末魔の叫びを上げる間もなく絶命した。



 代わりに悲鳴を発したのは、マレットやその取り巻きだ。

 オリヴァーの剣技を見せ付けられ、たとえ敵がただ一人でも、自分たちの数的優位性は無意味だと察したらしい。ましてや半数近い人間は、「火竜石」の爆発で負傷している。

 逃げ出そうにも退路はなく、皆の顔には絶望の感情が色濃く滲んでいた。


 オリヴァーは、手近な人物へ無言で歩み寄る。

 そうして剣を振り上げ、一人、また一人と、無感動な動作で殺していった。

 もちろん殺害された人々の中には、泣き叫んだり、命乞いのちごいする者もあった。

 けれども結果として、オリヴァーはそれらをことごとく無視し、貴族や聖職者、富裕な商人らを、次々と剣のさびにしてしまった。

 頭巾の隙間からのぞ双眸そうぼうは、まさに冷たい暗殺者のそれだ。



 ほどなく広間にはマレットと私しか、オリヴァー以外で生き残っている人間がいなくなった。


「な、なあっ……何なのだ貴様は……。いったい『夜鳥』とかいう組織は何が望みなのだ……」


 マレットは完全に腰が抜けているらしく、その場にいつくばったままでうめいた。

 それでもいよいよ追い詰められたとあって、形振なりふり構わず助命嘆願を続ける。


「なっ何だ、金か。金が欲しいのか? それなら、好きなだけくれてやろう……わ、私がラメドで稼いだ金は、ちょっとしたものだぞ。それとも絵画や宝飾品を渡そうか……」


 マレットの醜態は到底、数日前に聖堂内陣で接見した人物の姿とは思えなかった。

 あのときは俗悪なりに挙措から威圧を感じたものの、今はその欠片も見て取れない。



 私は、奇妙な失望感を覚えつつ、静かに立ち上がった。


「本当に情けない人ですねマレット。『夜鳥』が欲しているのは、お金で買えるようなものではありません」


 声を掛けると、マレットはぎょっとした顔でこちらを振り向く。

 私はオリヴァーの傍まで歩み寄り、床の上に座る司教を見下ろした。

 最早ここまで来れば、首領としての正体を隠し続ける意味などない。


 いったんオリヴァーには、目で制止の合図を送り、剣の先端を下ろさせた。

 浅く呼気をいてから、口調に厳しい非難を込め、マレットに語り掛ける。


「私たちの望みは、穢れた世界に対する復讐です。そうして今必要なものが何かで言えば、それはあなたの抹殺を措いて他にありません」


「……お、おお。クリスティナ司祭、これはどういうことだ。まさか其方は――……」


 マレットは目をき、当惑に声を震わせる。

 しかしたっぷり一〇秒待つと、幾分か平静さを取り戻したらしい。

 乾いた笑いをちいさく漏らし、憎悪に満ちた目でこちらを睨んだ。


「くっ、くくく。そういうことだったか司祭、なるほどに落ちたぞ。晩餐会の夜になぜ、申し合わせたように狼藉者共が聖堂を襲ったのか、妙な引っ掛かりを感じておったのだ。それは其方そなたが内通していて、連中を手引きしたからなのだな」


「マレット司教、あなたのことはこのまま生かしておくわけにいかない」


 私は、突き放すように宣告した。

 尚、私は内通していたわけじゃなく、この件の首謀者だ。

 とはいえ面倒なので、いちいち訂正したりはしない。


「あなたは我欲を満たすため、禁忌薬物で少なくない人々を翻弄ほんろうしてきた。さらに過去には贖宥状しょくゆうじょうで、幾人も罪のない信徒を惑わせてきたはずです。そのとがはあまりにも重い」


「だから其方が私を罰すると? ……ふ、ふん。思い上がるなよ小娘! 何が『聡明な聖女』だ、聖堂を混乱におとしいれ、私にこれほどの恥をかせておいて――それで其方に、他人を裁く資格があると思うな!」


 相変わらず床の上に座ったまま、マレットは手足をばた付かせてわめく。

 ただし指摘の言葉は、それほど的外れなものでもない。むしろもっともだ。

 けれど自分の素顔が聖女じゃないことは、とっくの昔に承知している。


 だから私は何も言わず、一歩前へ進み出て、マレットの傍に歩み寄った。

 悪徳司教は、ひっ、とかすれた声を上げ、その場で背中からひっくり返る。



「はあはあ、はあっ……こ、殺すのか? 本気で私を殺すつもりか……?」


 マレットは汗だくになりつつ、こちらの殺意をたしかめるように言った。

 交渉や説得は無駄と悟ったのか、もう命乞いする様子はなかった。

 だがその代わり、怯懦きょうだな言動の中にも、反発の気配が見て取れる。

 深い諦念ていねんは、やぶれかぶれな感情と結び付きつつあるらしかった。


「だ、だったら私も、むざむざと其方の思い通りに殺されてやるつもりはないぞ……。どうせ、このまま、しっ死ぬなら、其方らも道連れにしてくれる……!」


 マレットは今一度こちらを睨んでから、法衣の懐中へ手を忍ばせる。

 瞬間的にきょかれていると、不意に硝子製がらすせいの小瓶を取り出した。

 荒っぽい手付きで栓を抜き、中身の液体を一気に飲み込む。



 それを見て、私はようやくマレットの意図を察した。


「――まさかマレット、ラメドの薬を原液のまま飲み下したの!?」


 目の前でされた行為を、驚愕の余り声に出して確認してしまう。


 すぐに見立ての正しさは、司教の身に起きた変化で証明された――

 マレットは、急に自分の胸元を手で押さえたかと思うと、苦しげにうなった。

 床の上で転がりながら、激しく身悶みもだえ、頭部を何度も左右に振る。


 みるみるうちに皮膚が灰色に変色し、その表面には太い血管が浮き出てきた。

 全身が内側からふくれるように肥大化し、手足は筋骨がたくましく発達しはじめる。


「オリヴァー、今すぐマレットを殺して! このままにしておくと危険だわ!」


 私が咄嗟に指示すると、オリヴァーは再び長剣を構え直す。

 床をって前へ踏み込み、稲妻のような一撃を繰り出した。

 のたうち回る司教の身体を、鋭利な刃は的確にとらえる。


 ……が、マレットは斬撃を浴びても尚、絶命していなかった。

 それどころか醜く変質した体躯たいくには、刃で斬られた跡さえ付いていない。

 鋼のように硬化した皮膚が、オリヴァーの振るった剣を弾き返したのだ。



 ほどなく、燃え上がる樹々が囲う広間の中で――

 かつてマレットだった生き物は、ゆっくりと立ち上がる。


 そこにたたずんでいるのは、灰色の醜怪な化け物だった。

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