うつろを嘆いて怨花が咲《わら》う

 ――許さない。


 許さない。絶対に許さない。呪ってやる。憎い。恨めしい。

 許さない。いつまでも憎み続けてやる。許さない。何があろうと許すものか。

 絶対に許さない。憎い、嗚呼、貴様が憎くて憎くてたまらない。

 許さない。

 恨めしい。

 憎らしい。


 呪ってやる。

 呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。


 悍ましい豺虎けだものめ。


 よくも皆を甚振ったな。よくも母を、父を我が前で奪ったな。よくも友を嬲ったな。

 生まれながらに何も持たず、倹しい暮らしを耐え忍び、なお懸命に生きてきた彼らを――何の罪もない人びとを、よくも無残にほふったな。

 おまえのくだらぬ癇癪かんしゃくで、おまえたちの浅ましい争いに、関係のない無辜むこの民を巻き込んでくれたな。


 呪ってやる。

 おまえも、おまえの血を引く者も一人残らず、未来永劫呪ってやる。


 わたしの怒りを知るがいい。

 憎しみを知るがいい。哀しみを知るがいい。

 皆の痛みを、無念を知るがいい。


 幾年掛けても、如何なる手を使っても。

 いつかこの檻を出て、この手でおまえのいのちを砕いてやる。


 ――おまえが母にしたように。

 おまえが父にしたように。友にしたように。

 皆にしたように――否、きっと、もっとずっと惨たらしい方法で、おまえの愛する者をその手から奪ってやる。


 呪ってやる。


 妾はどれほど殴られてもいい。蹴られても打たれても、嬲られようとも。

 いくら手非道ひどく犯されても、どこの誰に如何なる目に遭わされたとしても、おまえへの恨みだけは忘れまいぞ。



 永劫に許すまじ。

 月季ユェジー、暴虐の王よ、おまえだけは。




**・.




 初春の川は冷たい。繰り返し押し込まれた水の中で、麗花リーファは苦しい息をいくつもの泡沫に失った。喘いでも喘いでも責め苦は終わらない――たとえ肺腑が空になったところで死ねはしないし、またどれほど苛まれようと、彼らの望みは叶えてやれない。

 息は絶え絶え、きつく縛り上げられた手足は鬱血もあって砕けそうに傷む。

 身体じゅうがくがく震わせている鬼女とは裏腹に、若い暗殺者は平気な顔だ。凍えるような川の水も、他者の苦しむ顔も、の心を揺らがせはしない。


「……おい瑠璃リゥリィ、そのへんで止めとけよ。無駄だ」

「そうかなぁ。もうちょっとだと思うんだけど……」


 川辺の岩の上から凶行を眺めている呪術師の声は、疲弊と呆れが混ざっている。彼も頼まれてそこにいるわけではない。ましてや鬼女を案じているのでもない。

 むしろ彼の憂慮が向かうのは、今は仮面劇の白面しろおもてのような虚ろな表情でひたすらに麗花を嬲っている瑠璃に対してだろう。弱冠十六の小娘が、すでに指南を必要としないほど手慣れた拷問を無心に行う姿など、彼女へひそかに心を寄せている青年には耐え難い光景であるに違いなかった。

 けれど、だからこそ、彼は留まっているのだ。涙を誘うほどの純情ではないか。


 何度目かの水責めから揚がった白皙に、玉と冷水を滴らせながら、麗花はまだ薄い笑みを浮かべていた。若い人間たちの淡い情を微笑むほどの余裕がある、というわけでもなかったが。

 これはもう長いこと癖づいていて、今さら容易く剥がせるものでもない……。


「……、きれい」


 ふと瑠璃が呟いた。麗花の髪はすっかり乱れ、顔や首にまとわりついていた。


 馬の嘶きが届いたのはすぐあとだ。やがて灰翠の霧にけぶる雑木林から、艶のいい栗毛の馬が現れた。その背に騎するのは亡国ロンの王族の末裔、雅鳳ヤーフォンである。

 王子は黒髪を躍らせて馬を飛び降り、声を張り上げながら川岸の女たちに駆け寄った。


「止せ、やめろ! もういい!」

「雅鳳様……どうしてここに? まさか弁當ビェンダン、喋った?」

「俺じゃねえよ」


 呪術師は肩を竦め、ひょいと岩から降りる。背に担いだ二振りの斧がかち合って鈍い音を立てた。重い鉄叫のうしろで、雅鳳はぽかんとしている瑠璃の腕からもぎ取るようにして、麗花の身体を抱き寄せる。

 水を吸って重くなった衣が王子の手までも濡らすのを、疲れ果てていた鬼女はぼんやりと眺めていた。


胡爵フージュエに聞いたんだ。まさかとは思ったが、本当にこんな……」

「?」

「……済まない瑠璃、俺が不甲斐ないばかりに、つらい役目をさせてしまったな。だがもういいんだ」


 頭一つ上背のある雅鳳を、瑠璃は不思議そうに見上げていた。玻璃玉のように透きとおった丸い瞳が、意味がまるで汲めない、という瞬きを返す。けれども雅鳳の注意はもはや麗花にのみ注がれていた。

 手足の縄を断てのと命には、さすがに呪術師が割って入る。

「若様、あんた自分が何言ってるかわかってんのか」弁當の声は、隠しもせず、今度は辟易のみが込められていた。


 彼は滔々と語る。――この女は鬼人で、しかも忌まわしき黒鬼の帝の愛人だ。

 どういうわけか主君の元を離れ、正体を隠して雅鳳一行に紛れ込み、まんまと王子の心を篭絡せしめた妖女だ。まともに考えればその腹は知れている。鬼帝国を倒さんとする雅鳳らの動向を諜報し、期を見て鬼帝にそれを知らせてこちらを皆殺しにするつもりに違いない。

 だから一行の参謀役にも等しいフォン老人は、弟子でもある孫娘に麗花の尋問を命じたのだ。どのように仲間と連絡を取るのか、他にも近くに同族が潜んでいるのか、そして彼女が知り得る鬼人帝国の――とくに黒鬼帝とその周囲に関する情報を聞き出せと。


「……それで、麗花は何と答えた」

「何も。随分と我慢強い方です」

「ならば尚更、尋問など意味はない。……胡爵の考えもわかるが、俺は、こんな方法で得た言葉に信は置けない。苦痛を逃れるために嘘を吐く者もいるだろう」

「だったら俺が一つまじないを掛けるか? そうすりゃ真実を語らせられるし、……特別痛めつける必要もねえ」

「そういう方法があるのか、それならなぜ……、いやいい。わかった。とにかく戻る。おまえたちも早く来い」


 麗花を馬上に引っ張り上げると、雅鳳は自分も鞍に上がって、上着を脱いだ。それを帯の代わりにして鬼女を自分の懐へ結びつけ、念のために左腕でも抱く。麗花の身体はまだぶるぶると震えていて、一緒に濡れていく雅鳳も腹が冷えていくようだった。

 そうして呆然としている配下たちを置き去りに、馬を走らせる。


 風が撫でるたび、張り出した枝先が叩くたびに、身体の凍えがひどくなる。

 わたしはそれでも死なないけれど――と麗花は男を見上げた。端正な顔がわずかに歪められているのは、己が身の冷たさのせいか、あるいは今しがた目の当たりにした尋問への嫌悪感からか。いずれにしても鬼女には奇異に思えてならなかった。

 ぼんやり見つめていると、視線に気づいた雅鳳がこちらを見下ろす。


 絡まった眼差しには二色の熱が灯っていた。一つはもちろん、かつて彼のすべてを奪った鬼帝への憎悪と復讐の炎に他ならず、もう一つは、それより幾らかねばついた蒼い燈火ともしびであるようだった。

 麗花が前にそれを見たのは、褥の中。男が女を欲するときの眼。


「……寒いか?」

「……、……」

「そうか、……そうだな、こんなに震えて、話せるわけがない。――はッ!」


 馬をいっそう速く走らせて、雅鳳は急いだ。もともと徒歩でも足りる距離であったから、滞在中の宿に着いたのはすぐだ。

 帰りつくなり炉を手配させると、それがよく燃えるのを待つ間、ありったけの布で麗花の身体を包んだ。咒のかかった縄は剣では断てず、濡れた深衣きものを脱がせられないので、ほとんど意味はなかったけれど。

 それでも人よりは頑丈とされる鬼人だからか、麗花は咳ひとつしない。炉の前で彼女を抱きながら、雅鳳もずっと無言だった。


 後から追いついた弁當は、その光景にまた溜息を吐きたそうな顔をしながら、件の咒をした。


 額に呪符を貼られた麗花が語ったことは三つだけだ。

 一つは、己は鬼帝の命令で雅鳳に近づいたのではない、ということ。間者ではなく、自分の意思で皇帝の元から逃げてきたのだと。

 雅鳳に近づいたのは、もちろんそれは彼女も十三年前のことを覚えていたからである。あの時見逃した子がどうなったか知りたかった、無事に成人したと聞き、恐らくは鬼人への復讐を望んでいることを察したので、それを見届けに来た――。


「ご立派になられました」


 どういうつもりか、雅鳳を見上げながら彼女は満足げに呟いた。


 もう一つは、先に語ったように逃亡中の身であるので、鬼人の仲間などいない。むしろ見つかれば捕縛される身の上である。

 それに……これは鬼人の習俗に明るくない雅鳳は初めて聞き及ぶことであるが、彼女のような人と見分けのつかない白色の鬼は、彼らの中では奴婢の地位にある。ゆえにいくら皇帝の愛妾であったといっても、政治その他に関わることなどなかった。

 つまり、雅鳳らの助けになるような知識は持ち合わせがない。ずっと後宮に押し込められていたから市井のことすら知り得ない、と。


 これには老鋒も愕然としたことだろう。彼の姿はないが、孫娘とともに天井に潜んで聞耳を立てているに違いない。

 ならばますますこの女を生かしておく理由がない、……失われた角の件さえなければ。


 乱れ髪から覗いた小さな枝角、麗花を鬼人たらしめている唯一の証は、今は右のこめかみにしかない。反対側は抉り取られており、化粧と髪で隠していたが、今は惨たらしい傷痕が露わになっている。

 鬼の皇帝が手ずから折ったというその角は、今も彼の懐にあるという。麗花が死ねばその角が砕けて彼に知らせる――そしてこちらの居所までもが即座に知れる。

 むろん呪術師、鬼人殺しの蘭氏の知恵と技術があればそれでも逃げおおせる手段がないでもなかったが、次なる壁が雅鳳自身だ。愛人が鬼だと知り、激憤しても彼女を斬れなかった王子は、まだ両腕に抱えて温めている有様である。


 鬼人を滅ぼすと誓いながら矛盾も甚だしい。それはこの場の誰もが、麗花ですらも、疑問のみを抱いてしかる事実。


「妾の、名は、……。麗花は、陛下に賜ったあざなです。真名は……」

「咒でも言えないってことは、別の咒で消されてるな」

「……はい。角と共に、陛下が……捨てよと……」

「ああ、また面倒なことになった」


 弁當は今度も隠さず大仰に溜息を吐いた。彼が言うには咒には真名が必要で、字でも縛れなくはないが、効果は半掛け以下にも劣るのだという。

 もはや無意味だとぼやきながら、とうとう手足の縄が解かれた。代わりに別の呪索いとと呪詛を刻んだ石を細い首にぐるぐる巻きつける。曰く、気休め程度だが無いよりはましだ。

 腹の内ではそれでも少し望みはあったろう。もし雅鳳を惑わせるのに彼女も咒を使っていたのなら、これで少しはその効果が薄れてはくれないか、と。


 実際のところ王子のまなこの暗い光はまだ鬼女に注がれたままだった。彩を成す二色の情炎を灯した双眸で、腕の中に捕らえたままの女をじっと見つめながら、彼は最後の問いを口にする。


「おまえの望みはなんだ? 俺が鬼帝を倒すのを見たいというのは……奴への憎しみからか?」


 元が奴婢であったなら愛妾になる前の暮らしは楽ではなかったろう。あるいは望んで得た寵愛ではなかったのかもしれない。どのみち、死の覚悟で逃げ出そうと思わせる何かがあったのだ。

 もし彼女が頷いたなら、少しは雅鳳の心が受けた裏切りの痛みも薄れたろうか。不都合な出逢いではあったが、志を同じくするなら傍に置くのは正しかったのだと。


 果たして鬼女は、微笑んだ。


「陛下は、……妾の憎しみまでも、奪っておしまいになられました」




 ・** 怨花開哀嘆虚 **・



 貶められた鉄窓の内より

 怨嗟を啜りて蕾を抱き

 討つべき王の弑されし後

 亡念は絶えず囁く


 汝 何処へ行くべきや

 汝 誰ぞを呪うべきや


 ――判りませぬ

   望みはおろか 我が名さえ




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