藍蜂の毒に中てられる蟷螂

 大層みすぼらしい小屋だった。庵というより、あばら家と称したほうが相応しい。ところどころ屋根の茅葺かやぶきが抜け落ちて、風雨をしのげるかすら危うい外観だ。

 それも霧深い山中にあって、こんな場所に来るのはみんな道に迷った者ばかりだろう。

 けれども――今そこに向かう老人の歩みには、戸惑いの気配はない。


 すっかり白くなった頭髪に、顎にも同色の立派な山羊髭を伸ばし、まるで仙人のような容貌の男だった。柳のように垂れ下がった長い眉毛のせいで眼元ははっきりしないけれど、枯れ木のような皺だらけの痩せた手足で歩く姿は、衰えるどころか活力が漲っているように闊達かったつとしている。

 彼の姓はフォン、名は胡爵フージュエ。齢は八十一を数え、妻子はすでに亡くしている。

 胡爵翁は件の小屋に着くと、素手ではなくその辺りで拾った木の棒を使って戸を叩いた。


「よう爺さん、いつもより早いな」


 戸口からひょいと顔を出したのは、家と同じくらいみずぼらしい外見の若い男だ。

 何日、いや何ヶ月も水浴びすらしていないと思しき垢まみれの顔に、結っている意味が薄れるほど乱れた頭髪。着ているものもくたびれた襤褸ぼろで、裾がほつれて糸が数え切れないほど飛び出している。

 胡爵は小屋の中に入るが、家主と同じほど汚れた椅子には触りもしなかった。男もそれを気にしたようすはなく、もてなしの茶の代わりに、陶製の壺をずらりと老人の前の卓に並べる。


「今あんのはこんだけだが、足りるか? 幾つ要る?」

「これから長旅になる。あるだけ全て貰おう」

「へえ? ご老体に鞭打ってどこ行く気だよ。とっとと引退したほうがいいぐらいの歳して」

「そんな減らず口を叩けた身分か? それに貴様にも無縁の話ではないぞ」


 そこで男は意外そうな顔をしたが、具体的にどうとは聞き返さなかった。


 ともかく老人の腕のみで運ぶには壺の数が多すぎる。荷車を出そうと一旦外に出たところで、男はふと彼方に視線をやった。山の中だから、当然どこまでも緑の樹々が風に揺れている。

 遠くで滝の音がする。よくよく耳を凝らせば鳥獣の声も拾えるだろう。

 けれど男が感じ取ったのは、鹿や猪の足音などではなかった。


「鋒、……あんたの連れか?」

「ああ」


 男は瞬きをする。胡爵はおもむろに懐から何か光るものを取り出して、振り返りもせずに指二本で背後に投擲した。

 一瞬にしてそれは後ろの木の、茂った葉陰の中へと消える。


 刹那の沈黙ののち、樹々のざわめきに混じって、傍の木からひらりと人影が舞い降りた。足音ひとつ立てず、さながら木の精のように。

 地味な蔵藍あいいろ短衫きものをまとい、口許を頬当で隠しているが、小柄な体躯や胸元の膨らみ、頭頂の両側からぶらさがった結髪からして女に違いない。唯一あらわになっている瞳は大きく黒目がちで、まっすぐに男を見つめていた。

 小さな手は柄のない小刀を持っている。先ほど老人が投げたものだろう。


「素人に気配を読まれるとは、やはりおまえは半人前だ。恥さらしめ」

「はい、申し訳ございません、お祖父様。精進いたします」

「……おじいさま? 鋒、あんた身寄りはねえんじゃなかったのか」

「遠縁からの貰い子だ。ゆえあって我が家の奥義を修めさせておる……このとおり貴様に感づかれる程度の隠密しか出来ぬ、不肖の弟子よ」

「お厳しいこって」


 男は肩を竦める。とはいえ他人の家のことに口出しをする気はない。

 それというのも――この老人が率いる鋒の一族は、代々続く暗殺者の家系であったからだ。


 彼らはある小国の王家に仕え、表立って排することのできない狡猾な悪徳官僚や、対立する他国の要人らを秘密裏に始末することを生業としていた。他には要所に忍び込んで秘匿された情報を入手するといった諜報活動も担っている。

 常に危険と隣り合わせの暗殺者にとって、技術の未熟さは死に直結する問題となる。その厳しさは至極当然、つまり大分汲み取りにくい形ではあるが、胡爵なりの愛情表現といったところだろう。そこに口を突っ込むのは野暮というものだ。

 ……と、それなりに鋒家の事情に通じている男も、当然ながら常人ではない。


「お祖父様よりお話を伺っております、あなたが蘭氏らんし弁當ビェンダン様ですね。私はフォン家の瑠璃リゥリィと申します。まだ未熟者ですが、どうぞお見知りおきを――」

「瑠璃。――蘭氏風情に畏まるな、先祖への不敬だ」

「え、でもお祖父様、我々に仙毒をあつらえてくださる薬師様ですよね?」

「んな御大層なモンじゃねえよ。爺さんの言うとおり、俺に敬語なんぞ使っちゃあ家が穢れんぞ」


 あっけらかんと言う男に、瑠璃は少し面食らったようだった。思わず口許にやった手で自分が頬当をしたままだったことに気づき、それをさらりと取り外したので、はずみで長い髪が風に舞う。

 白い肌に、花弁を載せたような桃色のくちびる。修行中の暗殺者はまだ若く、思いのほか愛らしい少女の素顔に、弁當と呼ばれた男も一瞬息を呑む。半人前とはいえ、これが人殺しを生業にする人間の顔だとは俄かに信じ難かった。

 ――ああ、この娘に殺される奴が羨ましいね。最期に拝めるモンがこれなんてよ。


 つい言葉を失っている弁當に、ふいに瑠璃が歩み寄った。後ろで胡爵が少し戸惑うように髭を震わせたことには気づかないまま、少女はこともなげに男の顔を覗き込んで、にこりと微笑む。


「じゃあ、私もお祖父様に倣って弁當と呼び捨ててもいいってことね? よかったぁ、正直ね、思ってたよりずーっと若い人で拍子抜けだったの! 失礼だけどあなた幾つ? 私とそんなに変わらないよね?」

「……は? 何だ、あの、近ぇよ。……離れろ」


 突然の馴れ馴れしい態度に、過剰なほど詰められた顔。ともすれば吐息が届きそうなほど。

 弁當が身を引いても、瑠璃は即座に同じだけ前に出るものだから、距離は変わらないままどんどん後ろに退がっていく。


「ねえ歳は幾つ? 言わないなら当ててあげる、えーっと……二十三!」

「……、いや、正確にはわからねえけど十七、いや、そろそろ八だ……」

「えーっ、もっと老けて見えるよ。小汚いからかなぁ」

「うるせぇ放っとけ、つか、だから近いんだよ……! 爺さんの話聞いてたか!? 俺は鬼人ぶっ殺して鬼角粉きかくふんを啜ってる蘭氏なんだぞ! あんま寄るとおまえにも汚穢おわいが移っちまうぞ!」

「うん、確かにめちゃくちゃ汚いし臭い。たまにはお風呂入りなよ」

「……てめー人の話聞いてるようで聞いてねえじゃねえか、離れろっつってんだろ……」


 そのうち弁當の背が傍の木にぶつかって、もうそれ以上は後退できず。なぜか初対面の少女に追い詰められた恰好になった『鬼人殺し』の蘭氏は、冷や汗さえ浮かべて彼女を睨む。

 瑠璃は相変わらずにこにこと笑んでいて、彼を困らせることすら今は楽しんでいるようだった。


「――瑠璃、その辺りにしておけ。これではいつまでたっても本題に入れん」

「はい、お祖父様」


 寸前まで獲物を狙う虎のような眼差しで見つめていたくせに、胡爵の一声で瑠璃は身を翻した。ようやく解放された弁當はほっとしたが、直後、己の胸元に小さな赤い点が浮かんでいるのに気付いて、背筋をざあっと冷たいものが流れ落ちる。いつの間に、これは、この傷は。


 するりと老鋒の隣に戻った瑠璃の手には、未だ柄のない小刀が握られていた。

 鋒家が用いる暗器のひとつ、ひょう。音もなく標的に忍び寄ってその喉笛を掻き切る、あるいは弁當が頼まれて調合している猛毒を刃に潜めて、皮下にそれを刺し込む。常なら一撃確殺の恐ろしい凶刃である――が、幸い今回は毒を含ませていないようだ。

 ただ微かな痛みのみが、心臓の真上に灯っていた。


「近々、主君が動き出す。漸くロン国を復興されるのだ。ついては貴様も我らと共に来てもらうぞ、旅の合間にいちいち庵を尋ねてなどおれんからな」

「……はあ、そういうことかい。『長旅』ね……その言いようじゃその娘もくんのか」

「そういうこと! 改めてよろしくね、弁當」

「瑠璃。……蘭氏との付き合いは最低限にしておけと言いおいたろう」

「はいお祖父様、弁えておりますっ」


 嘘つけ。


 内心で毒づきながらも、弁當は黙って彼女を見つめていた。胡爵が諫めるように、そして自分自身でも言ったように――蘭氏というのは穢れた存在として世間に疎まれている。鬼人を殺してその一部を口にする、人の道を外れた邪法の輩なのだから。垢だらけの見苦しい風体にしても、そのへんの川やら池で水浴びをしてしまうと水が汚れてしまうために、各地の深山にある決まった泉でしか身を清めてはならないという蘭氏の掟によるもの。

 そんな己に、このように屈託ない笑顔を向けた人間など初めてだった。


 ……瑠璃、と小さく口の中で彼女の名前を転がす。耳聡い暗殺者たちには聞こえないように、声には出さずにその音を噛み締める。何とも言えぬ優しい音が、じわりと溶け出して熱を生み、己の喉を焙るような心地がした。

 まだ胸が痛い。さっき軽く抉られたからだ。

 いや――なぜだろう。毒刃であれば即死のはず、さほど深い傷でもないはずなのに、その下の臓腑まできりきりと痛むのは。



 ・** 蟷螂被藍蜂毒 **・



「……鋒、とんでもねえやつ後継者にしやがって」

「え、なーに?」

「何でもねえ。……つか、だから近ぇよ」



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