❁ 花 鬼 蝕 ❁ ~融国討鬼演義~

花喰らえる蟲共(人間サイド)

妖花は語らぬ

 大河イャオ江を臨む、とある宿場町。船着き場からは荷運び人夫の声が響く。そこへ買い付けにきた商人も、そうでない者も、数え切れないほどの人が通りを行き交っている。

 活気に満ちたその中に、旅人らしい装束の一組の男女の姿があった。


 前を歩いていた男のほうが、途中で表通りを外れて路地裏に入る。

 追従する女も彼に倣って角を曲がったところで、ふいに男は振り向きざま、腰に佩いていた剣を抜いた。


 周囲に人気はない。誰に助けを求めることもできぬ状況で、連れの者から突然に白刃を突きつけられたというのに、その女は瞬きひとつしなかった。

 静謐を湛えた品紅あかむらさきの瞳には、むしろ対峙する男の困惑が映り込んでいる。


「何をなさるの?」

「……しらを切る気か!」


 男の手は震えていて、柄に吊るした宝玉がちりちりと鈴に似た音を立てた。

 龍と炎を模った黄金の装飾が輝いている。少し古びてはいるものの豪奢な剣で、それを手にしている男は不釣り合いなほど若い。

 立派な体躯や明朗な声、目元の涼やかな凛々しい顔立ちからも、卑しからぬ身分であることが窺える。


 対する女は彼よりいくらか若く見えるが、驚くほど落ち着き払っていた。

 濡れたように艶やかな黒髪。同色の慎ましやかな衣装に映える、月光のように白い肌。身体が小さく、目鼻立ちはくっきりと整っているものだから、あたかも腕のいい職人が作った人形のようである。

 しかし、無垢な乙女を思わせるほっそりした手足や、鈴を振るような可憐な声に反して、化粧の朱は息を呑むほど鮮烈だ。首から下の稜線も艶かしい起伏を描き、たしかに成熟した女の色香が滴っている。


 たいそう見栄えのいい女だが、その美貌はどこか不自然だった。顔かたちだけでなく衣装や髪型も含めて、そのどれもが美しいのになぜか均衡に欠けていて、完璧ではない。

 だが、むしろその危うさこそが見る者を惹きつける。ここに至るまでの道中も、すれ違う人びとが――主には壮年の男性が、彼女を振り返ったり見とれたり、ともすれば声を掛けられないか窺ったりしていた。


 名は体を表すというが、まさに女の名前は麗花リーファという。

 この美しくも妖しい花は、当然ながら男にとって単なる旅の伴ではない。すでに二人は男女の仲にある。

 とはいうものの、彼が初めて本懐を遂げたのは昨晩のこと。とうに成人を過ぎ、また知り合って間もないわけでもないくせに、それまでは手を握るのがせいぜいの清い関係だった。


 ともかく麗花が彼の求愛を受け入れ、褥を共にしたのは事実。彼女からの愛の言葉こそ聞かなかったが、もし男の独りよがりな系恋であったなら、空が白むまで睦み合うことはなかったろう。

 今も男の耳の底には、彼女の甘ったるい嬌声が染みついている。至福のひと時だった。細い両腕でしがみつかれ、泣きじゃくるように名を呼ばれながら、溺れるような心地で繰り返しその肢体を貪った。互いに身体が溶けそうなほど燃え上がったのだ。


 しかし――熱烈な夜が明けて一転、今日こうして刃を向けるのには、当然やむにやまれぬ事情がある。


「おまえは鬼人だ……あのとき俺を見逃せと言った……!」


 麗花は黙ったまま微笑んだ。嘲笑でもなく罵倒でもなく、否定の言葉すらもない。

 とうとう堪え兼ねた男はそこで目を逸らしてしまった。

 だから……彼女のくちびるが、どこか悲しげに歪んでいたことには気づかないまま。



 ***



 かつて彼は一国の王子だった。幼い頃、鬼人の軍勢によって総てを失った。


 今は帰れぬ故国の名はロン。耕作と少しの鉱物で賄っていた、山あいの小さな国だ。

 父は賢明な王、母は優しい妃、それから仲の良い数名の兄姉がいた。


 あまりに突然の悲劇だった。少なくとも幼かった彼には軍の予兆など感じ取れなかった。

 ある日いきなり武装した鬼人が大挙して攻めてきて、立ち向かった人間たちは一人残らず無残に斬り裂かれ、物言わぬ姿になった。


 破壊尽くされ血の海と化した宮殿で、たまたま最後に残ったのは、まだ齢十にもならぬ末の王子。

 すでに国防を担っていた武官は皆殺しにされ、助けは来ない。目の前に佇むのは身の丈が八尺もあろうかという巨体の、墨を塗ったように黒い肌をした、この世のものとは思えぬ恐ろしい鬼人。怪物が手にする剣は我が身の丈ほどもあり、着ている鎧すら禍々しい。

 『死』のみを強烈に感じた。恐ろしくて立ち上がることもできず、足許に転がる母の亡骸に縋って、ただ泣くことしかできない無力な子どもだった。


 そんな彼を見て、鬼人に従っていた女が囁いた。

 恐らく黒鬼がこの軍勢を率いる長で、女はその情婦。鬼人は戦場にも女を連れるものらしい。


『まだ子どもですわ』

『今は幼くとも、ここで殺さねばいずれは予の敵となろう』

『それも一興では? 憎悪が人を如何様に育てるか、楽しみではございませんか』


 結論から言えば鬼人は女の戯言に従った。だから彼は今もここにいる。

 ただ一人惨劇を生き延びた王子は、復讐を胸に誓った。


 ――鬼人を皆殺しにする。奴らが俺の家族にしたように。

 鬼人の国を滅ぼす。奴らが俺の故郷にしたように。

 この中原から鬼どもが一匹残らずいなくなったら、そのときこそ融国を再興しよう。



 ***



 翻って、宿場町の路地裏。

 あの日彼を生かした鬼女と、今目の前にいる麗花の顔立ちは、たしかに似ている。


 本音を言えば前から気づいてはいた。出逢った瞬間から、彼女のどこか作りものめいた微笑に見覚えを感じていたのだ。

 しかし確証があったわけでもなし、彼もそれだけで罵ったわけではない。女の顔など化粧でいくらでも変えられるし、そもそも十三年も昔のことで、情婦を見たのもたった一度だけ。

 己の記憶違いかもしれない。……そうであってほしいと、疑念を胸の内に封じていた。


 けれど昨夜、彼は気づいてしまった。

 褥の上、己の腕の中で乱れた彼女の、崩れた前髪の下。普段は隠れていた右のこめかみに、小さな二連の角があったのだ。

 間違いなく十三年前にも、あの情婦の額に同じものを見た。


 彼の仲間には鬼人に詳しい者がいる。その人物が言うには、角を二対持つ鬼人は極めて稀だそうだ。

 鬼人にとって角は命にも等しい器官であるから、それを失うことも滅多にはない。

 肌の色、性別、容貌、二対角、そのうえ同じ側の片角を失っている――ここまで揃っていて別人ということは、まずありえない。


「……ッ」


 何が狙いなのだろう。

 今さら別人のふりをして近づいてきたのは何故だ?

 復讐の手伝いを申し出て、かつて自らが生かした男の傍に侍り、まるで婢女のように甲斐甲斐しく世話を焼いたのは? 昨日までの穏やかな日々はすべてまやかしだったというのか?

 あまつさえ男の求愛を受け入れて、枕を共にしたのは何のため? 殺すのが目的ならいくらでも機会はあった。


 何を考えているのかわからない。

 彼女は何も語らない。弁明ひとつ口にせず、まるでもう観念したかのように、ただ静かに微笑んでいる。

 せめて――嘲笑うなり罵ってくれたなら、迷わずその首を斬り落とせたろうに。


 手の震えは、いつまでも止まらなかった。




 ** 麗花不會説話 **




 艶花に惑わされた胡蝶の悪夢

 噤んだ蕾に隠されたのは棘か毒か、はたまた蜜か

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る