濁り切った世界の底で、蛇は静かに牙を研ぐ

裕福な貴族

【プロローグ】触らぬ神でも祟りアリ

『その場所は、屍の道が敷かれている』


 誰が言いだしたか知らないが、酒場でふと耳に入ってきた噂話の一節である。

 当時は全く信じておらず、楽園に住んでいる自分には縁の無い世界だと思っていた。

 そんな地獄があるのなら、一度でいいから拝んでみたい。

 友人と一緒に笑いながら、冗談交じりに話していたのを覚えている。


 それがまさか、実現することになるなんて。


「ポール・カザムスだな。貴様を窃盗の罪で連行する」


 ほんの出来心だった。

 少しだけ生活が苦しくなり、それでも節制はしたくなくて。

 つい人目を盗んでモノを取ってしまった。

 その一回が、命取りになるとも知らずに。


「刑罰、とする」


 あっという間に判決が下り、目隠しをされて連れていかれる。

 そして気が付けば、自分はこの地に立っていた。



 昼間だというのに辺りは薄暗く、退廃的な空気が場を支配している。

 常に霧がかったような視界に、新鮮とは程遠い空気。

 舗装などされていない道路には誰かが横たわり、死体なのか生きているのか判別すら難しい。


 その世界は、まさに地獄そのものだった。


「よォ、あんた。新入りかい?」


 ふと声が聞こえてきた方角に視線を向けると、そこには一人の老人が立っていた。


「あ、あぁ。そうなんだ……。もう何が何だか……」

「ひゃひゃひゃ。そう慌てなさんな。ここに来ちまった以上、時間は腐る程あるんだからなァ」


 その言葉に、背筋をブルリと震わせる。


「そんな…………! お願いです! 私には帰りを待つ家族がいるんです!」

「んなこと言われてもねぇ、無理なもんは無理なんだよ」

「どうして!?」


 声を荒げると、老人は手を招きながら歩き始める。

 ついてこい、という意味だろう。

 その背中についていくと、老人はゆっくりと語り始めた。


「兄ちゃんの出身は?」

です」

「あぁ、そいつぁ気の毒だな。こんな反対のとこに落ちてきちまってよ」

「反対?」

「この街とライツォは、あのでっかい城を挟んで反対に位置するのさ」


 老人が指を差した方向には、ローダリアが誇る巨城がそびえ立っていた。


「ありえない! 城の反対側に、こんな街があるなんて聞いてないぞ!?」

「そりゃ言ってないだろうよ。品位ある楽園をうたってるローダリアだ。こんな地獄がすぐそばにあるなんて知られたら、格が下がっちまうからなァ」


 老人の言葉に、信じられないと首を振る。


「そんなバカな話があるものか! 私が普段暮らしていたあの楽園の裏に、こんな場所があるだと!? 我らがローダリアを侮辱するのもいい加減にしろ!」


 声を荒げ、顔を真っ赤に怒鳴りつける。

 老人は面倒くさそうな顔をしながら、再び口を開く。


「嘘じゃねぇんだけどな。それに、アンタだって人のこと言えないだろ?」

「な、に…………?」

「ここに堕ちてきたってことは、所詮は罪人だろ?」


 老人の顔が、笑顔に歪む。


「偉そうに語ってんじゃねえぞ、ガキが。てめえも同じ、底辺なんだよォ」


 嗤う老人。

 その姿に、怒りはついに限界を超える。


「黙れぇぇぇぇぇえッ!」


 老人の細首を掴み、力を込めようとする。しかし、直前に踏みとどまる。

 いくら犯罪を犯したと言えど、人を殺したことは一度もない。

 だからこそ、人を殺すことに躊躇ためらいを覚えてしまった。

 そして、その判断が命取りとなる。


 ドスッ


「――――――――は?」


 鈍い音と共に、腹部に温かい感触が奔る。

 視線を向ければ、歪な形をした刃物が突き刺さっていた。

 赤い血が滴り、鈍い痛みが全身を襲う。


「馬鹿がよォ、まんまと騙されやがって」


 流れる血は止まらず、身体の力が抜けていくのを感じる。

 そのままバタリと倒れ込み、浅い息を繰り返す。


「おい、お前ら。手伝え」


 老人の一声で、周りの人間たちが集まってくる。

 その数は、少なくとも10人以上。

 ここでようやく、自分は罠にかかったことを悟る。


「流石だなジジイ。相変わらず狡猾だぜ」

「ひゃひゃひゃ。馬鹿言っちゃいけねえよ。ホイホイ騙されてついてくる、こいつらのおつむが腐ってんのさ」

「仕方ねえさ。楽園で堕落しきった奴らは、脳みそまでお花畑だからよォ!」

「ひゃひゃひゃ!」

「ひっひっひっ!」


 残忍に笑うその姿は、地獄にいる悪魔そのものだ。

 ここは間違いなく地獄で、自分は何も知らない罪人。待ち受けるのは、ただ一つ。

 悪夢だ。


「じゃあとっとと仕事するか。他の同業者に見つかったら面倒だ」

「あぁ。それに、この辺りはの縄張りだからな」

「なおさらヤベェじゃねえか! さっさと始めんぞ!」


 耳慣れない単語が飛び交う中、ついに若者のリーダー格らしき男がこちらに手を伸ばす。

 そして巨大な掌が首に届き、徐々に力が加わっていく。


 嗚呼、このまま殺されるのか。

 朦朧とする意識の中で、諦めたように瞳を閉じた。


「お頭ァ!」


 その時。


「奴です、奴が来ましたァァァッ!」

「なに!?」

「なんだと!?」


 老人と男がその声に驚き、首にかかった手の力が緩まる。

 閉じかけた瞳を、恐る恐る開く。

 男の視線は既に自分には向いていない。

 その視線の先を追いかけ、驚愕する。



黒蝮くろまむしが――――――――あえ?」



 ザンッ


 間抜けな声を漏らしながら、男の首が綺麗に落ちる。

 首から下の身体は、しばし直立した後鮮血をまき散らしながら倒れ込む。

 辺りに鉄の香りが満ちていく。


「ケハハ、よぉドブネズミ。相変わらずしけた商売してんなァ」


 驚いたのはそれだけではない。

 後ろから出てきた男の風貌。それはまさに異様な雰囲気を醸し出していた。


 肩まで伸びた黒髪をなびかせ、不敵に笑みを浮かべる口元。

 髪の間から覗く瞳は、人間のそれでは無い。

 まるで爬虫類のような、捕食者の眼。

 その眼光は鋭く、例えるとするならば――――蛇か。


「く、黒蝮。こんな境界付近に来るなんて珍しいじゃねえか……」

「あ? 寝ぼけてんのかジジィ。俺がてめぇらの決めた線引きを守るわけねェだろうが」


 黒蝮と呼ばれた男は、不気味な笑みを放つ。


「俺ァただよぉ、何か楽しいことがねえか散歩してただけだぜ? そしたら道に邪魔なもんが転がってるから、気ままにぶった斬ったのさ」


 そう言って男は、手に持ったソレを持ち上げる。

 両手に握りしめられた、二本の剣。

 その形は通常のものよりも湾曲し、まるで月を描いているようにも見えた。


 刃に、真紅の液体が滴っている。


「ゴミ掃除にぴったりなんだァ、こいつらは」

「…………イカれてやがる」


 笑みを浮かべる男に対し、老人は冷や汗を流しながら小さく呟いた。


「ケハハ、俺がイカれてるって?」


 老人の言葉に、男は瞳をさらにギラつかせながら口を開く。


「そんなことはなァ…………分かってんだよォォォ! ケハハハハハハハハハハハハハッ!」

「ちっ……! てめえら戦闘準備ッ!」


 狂ったように高笑いする男を眺め、老人が周りの人間に声をかける。

 焦燥感に満ちた言葉に、空間が緊張感に包まれる。


「舐めんじゃねえぞクソガキィ。猫も噛み殺す、ねずみ一家とは儂らの事よ!」

「あぁ、ジジイ。ぶっ殺してやろうぜ!」


 威勢よく吠える集団に対し、曲刀を構えた男は肩を振るわせる。

 それは恐怖からではない。

 心の底からの、喜びに満ちた嗤いである。


「いいねぇいいねぇ! 激しくド派手に命の奪い合い、楽しもうぜェッ!」











「……………………あ…………ああ」


 乾いた声が、喉から漏れていく。

 下半身に生温かい感触が広がっていくが、もはやそんなことを気にしている場合ではない。

 視線は、一点に向けられていた。


「クッソつまんねェ。何が鼠一家だ、ブチ殺すぞ。…………あ、もう殺してんだった」


 そこはまさに、地獄だった。

 辺り一面は鮮血が広がり、真紅に染められた地面に踏み場など存在しない。

 生首が転がり、臓物が弾け、ゴミと化した肉体が散乱している。

 その殺し方は、尋常ではない。

 狂気そのものである。


 中央に佇む人物が、それを成したのだ。

 たった一人で。 


「あーあ。退屈しのぎにもならねえや。ごめんな? またを抜いてやれなくて」


 そう言って男が、振り向きざまに言葉をかける。

 一体誰に?

 そう思った時、ふと男の背中に視線を向ける。


 それは、鞘に収まった一本の剣であった。


「あーあ。なんかムカムカしてきた。こういう時はキメなきゃやってらんねェ」


 男はぶつぶつと一人で呟いたかと思えば、ポケットから何かを取り出した。

 それを躊躇なく口に放り込む。


「あああああああああああああああ」


 そして、男の様子が変わる。


「あー、逝く逝く逝く……………………きっっっんもちィィィィィィィィッ!」


 急に大声で叫び散らす男。その姿に、本能的な恐怖を覚える。

 触れてはいけない一線。

 絶対に関わるべきではない、狂った人間の気配。


 息がどんどん浅くなり、ハアハアと激しく呼吸をする。


「あ?」


 その視線が、こちらを向く。

 爬虫類じみた瞳が、身体を貫くような錯覚を覚える。


「た、助けて…………」

「あー。もしかしてお前、さっきのジジィ共の獲物か? ……まいった、俺はこういうの専門外なんだよなァ」


 ポリポリと頭を掻きながら、困惑した表情を浮かべる男。

 こちらの予想を裏切り、男は至って理性的な発言をしていた。

 その姿に安堵し、勇気を振り絞って助けを求める。


「は、腹を刺されて……。どうか、お願いします……。俺は家に、帰りを待つ家族が――――」


 その言葉を最後まで言い切る前に、男が口を開く。


「よし、決めた!」


 ザンッ


「――――――――――――――――ぁ?」


 一瞬の出来事だった。

 気が付けば自分の首と胴体は離れ、先ほど見た光景に自分がなっていた。


 薄れゆく意識の中で、その声はハッキリと聞こえてきた。



「ゆっくり眠れや。お前じゃここは――――生きられねぇ」



 その言葉を最後に、意識は暗闇の中に沈んでいった。

 もう二度と、浮かび上がってくることは無い。




 ☨  ☨  ☨




 古の時代。

 かつて、大陸では数多の国が土地を巡り、戦争を繰り広げていた。

 他者を醜く罵り、貶め合う人間たちに品位や道徳など存在しない。

 その様はまさに、地獄そのものであった。


 そんな地獄の中で、は誕生した。

 初めは貿易都市として、あらゆる人種が訪れる交流の地であった。

 移住者が増え、金と資源が集まるようになったその都市は、ついに国家としての樹立を宣言する。

 豊富な財を武力に変え、次々と他国を侵略し、奪った財を再び武力に変える。

 気が付けば、大陸に残された国は一つとなっていた。


 王は思った。

 倫理観や道徳、品位を捨て去ったその姿に人間らしさは残されているのか?

 否。

 今の我々は、ケダモノ同然。

 ならばこそ、変わらなければ。

 人としての栄光を、誇りを、取り戻さなければならない。


 王は、民の前で宣言する。



「我々は生まれ変わる。醜い殻を破り捨て、知性と品位を身にまとうのだ。誰もが豊かに暮らし、人のぬくもりに溢れた世界を作るために。……今ここに宣言するッ! 新たな国家――――ローダリアの誕生を!」



 そこは、世界で最も栄華を誇る場所として知られている。

 巨大な城塞と、その眼下に広がる雄大な繁華街。ローダリアの首都、ライツォには世界の全てが集う。

 金銀財宝、美女、屈強な騎士。

 誰もが笑顔で歩き、輝きに照らされた街を、人々はこう呼んだ。

 

 黄金の楽園と。






 そこは、世界で最も濁り切った場所として知られている。

 犯罪の王たちが支配し、あらゆる行いが正当化される地。ライツォの裏側には、醜悪な掃きだめが存在する。

 凶悪なる犯罪者、弱き人々、牙をたずさえし獣。

 誰もが渇き飢え、悪意に満ちたその街を、住人たちはこう呼んだ。




 【底】と。

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