こゆきちゃん

むきむきあかちゃん

こゆきちゃん

つい最近、人の殴り方というものを教わった。

「そんなの簡単だよ」

 サイゼリヤで、こゆきちゃんは紅茶をストローで啜りながら言った。

「人はみんなやぁらかいのよ。外は骨と皮で覆われてるから硬そうだけど、中はふにゃふにゃ」

 こゆきちゃんは氷を噛み砕いて飲み込むと、ついさっき運ばれてきたジェラートのカップの前に手を置いた。

「見ててね」

 言って、手を軽く震わせた。

 途端にジェラートはふるふる動きながら砕け散った。

「すごいねえ」私は驚いた。

「だからすごくないよ。誰でもできることだよ」

 こゆきちゃんは何食わぬ顔で、柔らかくなったジェラートをスプーンで掬ってぺろりと食べた。

「ほら、美咲ちゃんもやってみ」

 私はこゆきちゃんがやったように、自分のティラミスの前で手を振動させた。

 ティラミスが、揺れる、揺れる、震える。

 振動の速さは極限まで上昇し、ついに私のティラミスクラシコは破裂した。

 ココアパウダーとクリームが一緒くたになった、薄茶色いティラミスクラシコ。

「そうだよ。うまいうまい」

 こゆきちゃんは手を叩いて私を褒め称えた。

「これなら浮気した美咲ちゃんの男も一発だよ。やっちゃいな」

 さすが、インド洋全域に自分の骨を撒いてもらうために日々を生きている女の言うことは違う。

 こゆきちゃんは最後に残しておいた小エビのサラダを、ドレッシングもかけずに小さな口で美味しそうに頬張っている。

 黒縁の度の薄い眼鏡をかけた、前髪ぱっつんで目が大きくて小顔でミディアムヘアーで毎日記憶にない男からのコールが絶えないこゆきちゃんに私の気持ちは一体幾ばくほど理解できるのだろうか。

「うん、自信湧いてきたよ。ありがとう」

 私はティラミスをフォークでかき混ぜながら答えた。

「…ぶっ殺したいねえ」

 つい口をついた言葉に、こゆきちゃんは私の目を覗き込んだ。

「美咲ちゃんもそんなこと言うんだねえ」

「うん」

 こゆきちゃんはいかにも不思議そうな顔でサラダに再び目を落とした。

「聡一くんが浮気してた相手の女の子って誰か分かってるの?」

「分かんない。聡一も頑なに口を割らないから」

「そうなの」

 サラダ皿からエビがいなくなった。

「でもそんな女、つまらない奴だよ。えんじ色の網タイツしか履かないとか」

「なによそれ」

 こゆきちゃんは笑った。

「とにかく、美咲ちゃんは傷つく必要ないってことだよ。気にせず、ついでにドリアでも食べよう」

「そうするか」

 明らかに食う順序がおかしい。明日には胃がひっくり返ってそうだ。

 そう思いつつ追加注文しようとする前に、胃腸がぐるぐる唸り始めた。これは腹痛。

「ごめん。トイレ行ってくるね」

「大丈夫?いってらっしゃい」

 こゆきちゃんは私に手を振った。ちぇ、かわいいやつ。

 と言いつつ私も笑顔で手を振り返し、奥のトイレに向かった。

 その途端、角から誰かが出てきて、私にぶつかった。

 誰かと振り向くと、聡一だった。

「あっ、あっ、美咲」

「聡一じゃん。大丈夫?」私は至極平然を装った。

「うん」

「よかった。それじゃあバイバイ…」

 言ってその場を離れようとしたが、床に何か光るものがある。スマホだった。

「あ、これ、聡一の?」

 私は屈んで手を伸ばした。

 スマホには待ち受け画面が写っていた。画面の中にいるのは小顔で目の大きい女の子。

 それは、それは—————

「ちょ、ちょっとそれっ」

 聡一は私の手からスマホをひったくった。

「見た…?」不安そうな顔。

そう、私は見てしまったのだった。

 見てしまったのだ。

 そのとき私のすべきことは、おそらくもうひとつしかなかった。

「見たよ」

 私はそう言って、自分の右手のひらを、彼のスマホの前に差し出した。

 そして手に力を入れた。

 そもそも震えていた私の手は、力を入れれば壊れた洗濯機くらい震えた。

 スマホは、けたたましく暴れながらミシミシ音を立て始めた。

「お、おまえ、何を…!」

 スマホは従順に十五秒ほど暴れ、ついにその液晶を暗くした。

 私はスマホがもう動作しないのを確認すると、何もなかったように席に戻った。

「美咲ちゃん、遅かったじゃん」

 こゆきちゃんはヘッドフォンをつけて音楽を聴いていた。

「遅すぎて、食べ終わっちゃったよ」

 こゆきちゃんは無邪気に、駄々を捏ねるような口調で言った。

「ごめん、お腹下しちまってたよ」

「え、だいじょうぶなの?」

「大丈夫。もう痛くないし」

「そっかあ。よかった」

 もうテーブルの上に食器はなかった。

「じゃあドリアはやめよっか」

 そうしよう。

 私たちはその日、会計を済ませて解散した。

 こゆきちゃんとは今でもよく遊びに行ったりご飯を食べたりする。

 仕方がない。頭蓋骨のなかの脳みそを破裂させられずに済むならその方がずっとましだ。

 そういえば、彼のスマホの待ち受けの女性はえんじ色の網タイツを履いていたような気もするのも面白いが。

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こゆきちゃん むきむきあかちゃん @mukimukiakachan

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