ザ・ワースト・オブ・カクヨム

ししおういちか

THE WORST OF KAKUYOMU

 その空間は、古めかしいファンの回転音で占められていた。

 形だけの点検作業を示すかのように、塵と埃に塗れた換気扇は不自然な振動に作業を妨げられている。或いは、機械といえども己の役割に対する虚しさを感じるのだろうか。それを裏付けるかのように、気を利かせて電源を切る者すらそこには久しく訪れていなかった。

 時計の秒針が丁度、前の数字を通過する頃までは。

 バタン、という音が一瞬、回転音を掻き消す。シュルリという何かを解く音は、労働者が襟を正す擬音にも思えた。しかしすぐ、耳を澄ますような静寂が戻る。

 一方で、この空間において日常茶飯事的な飽きる程の静けさは、その男にとっては安心感を覚えるものだった。

 極めて閉鎖的なその一室にも、すぐさま溶け込む。

 だが間もなくして、男は顔を顰めた。

 陶磁器の温度を意識する瞬間など、日常の営みではほぼないといっていい。せいぜい茶碗の熱さに驚くぐらいのものだろう。もちろん大抵の場合、無害だ。

 しかし久しく人が訪れていないそこには、当然人間に配慮した温かさなど欠片もない。それどころか、『耐えられぬのなら去れ』とばかりに、右横のランプは光を失っている。

 仕方ない、と男は思考を切り替えた。全身の鳥肌は簡単に消えはしないが、じきに慣れるだろう。拘泥している場合ではない。

 むしろここからが本命。わざわざこんな日陰の場所を選んだのも、『エンカウント』という最悪の出目を防ぐためなのだから。

 その右腕が伸びると同時、カコンという音が響く。

 これで、ここは正真正銘不可侵となった……と言いたいところだが、頭上にはやはりというか何というか、油断できぬ空洞があった。男は顔を顰める。

 その忌わしさもあるが、思ったより調子は良くない。初手で『音』を出さずにいたのは、この穴場でなければ致命的だっただろう。体内から排出され、水底へと落ちた瞬間の鈍痛は、猶予を否応なしに求めるものだった。

 しぶしぶ、男はそれを受け入れる。耳障りな換気扇の音は、心なしか一生懸命に内気を追い出そうとしているように思えるが、まあ動かないよりはマシだろう。



 ――しかし、そこまで考えた所で男の身は凍り付く。



 原因は、突如として近付いて来る足音だ。

 どっ、と嫌な汗が噴き出す。しかもそれだけではない。

 その足音が一点に止まった瞬間――突き出してくるがあったからだ。

 これは非常に不味い。その衝動に身を任せたが最後、咆哮の如き空気音が何段階にもわたって放出されることは間違いない。水底への落下音も相当なものだろうし、足音の主も確実に気付く。

 その後の展開など、想像するだけで怖気が走った。

 薄いドアを挟んだ向こうで、身じろぎをする音が聞こえる。幸いと言うべきか、向こうもそこまで長居をするつもりはないようだ。

 で、あるならば。

 男はボタンをプッシュする。その後、洗浄水が発射されると同時に綺麗に三角折りされた白い紙を多めに巻き取った。

 フェイクだ。しかしその意図が伝わらない程馬鹿ではないだろう。こんな穴場をわざわざ選ぶ奴ならば尚更だ。

 要は、数秒の忍耐こそが運命を左右する――。

 結果的に功を奏したのだろう。小さな流水音と共に足音が遠ざかり、雑に捻られた蛇口の水を手に浴びせたと思われるそいつは、最後の関門へと足を向けた。

 意思の力のみで小刻みに震えながら、槍を必死に食い止める。だがそれ以上に真剣な面持ちで耳を傾けた。



 そして。



 最優先で確認すべき、低く大きな風の音が鳴り止み、足音が遠ざかっていく。

 勝った。

 安堵感の余り、ふにゃりと口元が綻ぶ。瞬間、堰を切って落としたかのように槍が突き出し、泥が一気に流れ落ちる。やはりというか、音はひどく大きいものだった。

 やっぱり、にんにくは少なめにした方が良さそうだな。

 立ち上がった男は、勢いよく流れていく小ラーメンの残骸を見下ろしつつ、そう自戒した。



 少し後。

 随分勢いよく回ったんだなこれ、と設備業者は換気扇を見て感心したのだった。




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