セカイ、世界、ぼく

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セカイ、世界、ぼく

 信号待ちをしているとき、救急車が通り過ぎていく瞬間が好きだ。すべての自動車は道路の端に寄って救急車が追い越すのをじっと待つ。赤信号に進入する際にはかなり速度を落として左右を念入りに確認し「ご協力ありがとうございます」と言い残して駆けていく。ぼくはそれをぼうっとしながら眺めて、変化するサイレンの音を聞く。

 まるで、その場にいる全ての人——車を運転している人、バイクや自転車に乗っている人、歩いている人が、その場にいない誰かのために、一緒に祈っているみたいだ。サイレンと隊員の「ご協力ありがとうございます」以外の音がなくなったほんの数瞬の間が、とても美しいと感じる。

 まぁ、結構大げさなことを言っている自覚はある。車を運転しているときにサイレンの音が聞こえてくると、ぼくの母親は「救急車来ちゃったよ」と慌てて周囲を確認する。こっちに走ってくるのがわかると「ついてないなぁ」とぼやきながら車を端に寄せる。多分、大半のドライバーはそういう反応をする。Amazonの配達員ならキレてるかもしれない。

 それに救急車が出動しているってことはつまり、どこかに緊急を要する人がいるってことだ。最悪、死んでしまうかもしれない状態の人が待っているってことだ。そう考えると「美しい」なんて不謹慎極まりなくて、どこかのアタマのよろしいだれかさんに怒られるかもしれない。ツイッターに晒されて嗤われるかもしれない。けどそんなことはどうでもよくて、これはぼくの「美しい」だから、だれかがとやかく言う権利はない。もちろんぼくにもだれかの「美しい」に文句を言う権利はない。安易な共感さえも許されない。「美しい」は孤独であるべきだ。自らの中で、人知れずゆっくりと育てていくべき感情なのだ。

 ところが今のインターネット社会はどうだろう。TVはもちろん、インスタ、ツイッター、ユーチューブまで、いたるところで「美しい」が見せびらかされ、話題になって、他人の「美しい」を塗り替えている。あるいは、自らが望んで他人の「美しい」をまね、それまで自分の心にあったはずの「美しい」を殺している。

 ぼくにはそれがなんとも恐ろしく思えてしまう。みんな、「自分」がないんじゃないかって。もちろんぼくもその中の一人で、知らない間に「自分」が死んでいて、今この言葉は全部どこかの誰かが言っていたことかもしれないし、いつか読んだ小説の一節を引用しているだけかもしれない。ぼくはどこからどこまでが「自分」なんだろう。

 ぼくの「美しい」は本当にぼくが生み出した「美しい」なんだろうか?



 ツイートを見てまわる。

『若いんだから、まだ死ぬ必要はなかった。これからどうとでもできたはず』

 そんなことセカイもわかっていたよ。苦しいのはこの瞬間だけだって。高校を卒業したらあいつらとも縁を切れるって。でもぼくらにとって卒業までの一年半はあまりにも遠かった。あんたら大人ほどぼくらの時間は早くなかったんだ。

『自殺する前に誰かに相談してほしかった。お悔やみ申し上げます』

 誰に? 顔も名前も何もかも知らないあんたにすればよかったのか? クラスの担任は結局何も手を打たなかったし、セカイの親は仕事にかまけて話をまともに聞こうとはしなかった。相談なら何度もしようとしていたよ。けど学生だった頃の記憶なんてすっかり忘れ去ったあんたら大人には、セカイの苦しみが理解できなかったんだ。

『電車で死なれるのは普通に迷惑。頼むから一人で首吊ってくれ!』

 そんなことセカイにとってどうでもいいことだよ。だってセカイはもう死んでいるから、その後どれほどの人に迷惑をかけようが知ったこっちゃない。それにセカイは自分より他人のことを優先して生きてきたんだ。クラスのやつらが面倒くさがったクラス委員やら、ゴミ拾いのボランティアやら、率先してやってきた。だから……、とはぼくにも言えないけど、最後くらい盛大に迷惑かけたっていいじゃないか。それをセカイも望んでいた。

 ケータイを適当に放り投げる。そのままベッドに寝転んだ。みんな勝手なことを言っている。セカイがどんな顔で、身長はどのくらいだったのか、どこに住んでいたのか、好きな小説は何だったのか、推してたアイドルグループはどこなのか、好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、何にも知らないくせに、セカイについてうだうだ議論している。

 なんだよ。世界はセカイを、自殺した後ですら縛るのか?



「なぁ」

「うん?」

 帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯だから、ホームにいる人はそう多くなかった。それでも多くの学生と、早帰りのサラリーマン、旅行帰りの老人たちが電車を待っていた。

「本当にするつもり?」

「うん、もう決めた」

 セカイはぼくの隣に佇みながら、いやにはっきりした声で応えた。そのきれいな横顔は、奥からの夕日に照らされてうっすらと陰った。

「そっか」

「止めてはくれないの?」

 セカイはそう言っていじわるそうに笑った。

「……そりゃやめてほしい。けど」

「けど?」

「ぼくにはセカイを止める権利がない」

 隣から小さく吹き出す音がして、ぼくはセカイの顔を見た。

「権利って、なんだそりゃ。誰がどう決めたもの?」

「もちろんぼくが、厳正な審議の結果として……」

「政治家か」

 大して面白くもないのに、二人でクスクスと笑った。近くにいた他校の学生がぼくらを見て「なんだこいつら……」みたいな顔をしていたっけ。

「でもさ、本当に『死なないで』なんて言えないんだ。せいぜい『やめたほうがいいんじゃない?』としか。デメリットがいっぱいありそうだから」

「デメリット。例えば?」

 普通列車がホームに滑り込んできた。

「まず目立つ」

「いいじゃん」

「たくさんの人に迷惑がかかる」

「むしろそれ狙い」

「多額の賠償金が親に行くかも?」

「それくらい仕事大好きなうちの親ならなんてことないね」

 列車はガタンゴトンと唸りながらホームを出ていった。セカイは肩をすくめた。

「他には?」

「他には……」

「ないんだ?」

「いや、ある。あるよ」

 何か言わないとセカイがいなくなってしまう、とぼくは必死に考えた。

「さーん……」

「えっと」

「にー……」

「ええっと」

「いーち……」

「……ぼくが悲しい!」

 セカイは目を丸くしてぽかんとした。次の瞬間にはお腹を抱えて笑い出した。

「あははは! そっか、それは考えてなかった! 悲しいって思ってくれるんだ」

「そりゃ思うでしょ……。何の助けにもなれなかったけど、一応友達のつもりだったし」

「友達か。そうだね、友達だったね」

「でしょ。だからさ」

 意外にも良い反応だったから、ぼくはこのとき、やめてくれるんじゃないかと少し期待した。けどすぐにそんなこと無駄なんだと痛感した。

「じゃあ、その唯一の友達で、唯一悲しんでくれる人を全力で不幸にしなきゃ」

「え……、どういうこと」

「そのままの意味。先に謝っとく。ごめん、自らのエゴのために、一人でも自分のことを覚えていてほしいっていうわがままのために、傷つけることになって」

 頭を下げるセカイを前にして、ぼくはもうどうしようもなく手遅れなことを思い知らされた。止めようと思えば無理やりにでも抑え込んで止められたはずだった。けどぼくは動かなかった。

「電車を選んだのだって、親に賠償金を通して自殺のことを考えてもらうためと、世間的に注目されてあいつらの残りの人生を壊すため。帰宅ラッシュが始まるくらいの時間にしたのも、できるだけ多くの人に迷惑をかけるため。そして唯一の友達の目の前で死ぬのは、自分のことを強く記憶してもらうため。この自殺は自暴自棄になったからじゃない。世界を少しでも、ほんの少しでいいから、自分の手で不幸にするためのちっぽけな爆弾なんだ」

 セカイはそう言ってまっすぐにぼくを見つめた。さらに傾いた夕日がいよいよまぶしくて、ぼくは目を背けた。視界がオレンジに染め上げられて、何でもないはずの風景がとても美しく感じた。駅員の程よく力の抜けた声がホームに響いた。

『まもなく特急リリージア中央千住行きが通過いたします。黄色い線の内側までお下がりください』

「もう行くよ」

 セカイは少し前に出た。

「最後に喋れてよかった。色々大変だろうけど、頑張って生きて」

「……うん、せいぜい死ぬまで生きてみる。今まで、ありがとう」

 特急の先頭車両が遠目に見えた。ぐんぐんと近づいてきていた。セカイはぼくに背を向けてゆっくりとホームの縁へと歩いていった。その足取りは軽やかで、どこにも迷いはなかった。セカイをこれから殺す凶器は、もう目の前だ。

 セカイが跳びながらぼくの方に体を向けたのが、スローモーションになって見えた。目が合った。夕日がスポットライトのように、セカイだけを照らしていると錯覚した。ぼくはその光景をどうしようもなく美しいと思ってしまった。特急の走行音でその他すべての音はかき消されるはずなのに、その言葉だけははっきりと聞こえた。




「死ね、世界」


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セカイ、世界、ぼく rei @sentatyo-

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