佩玉将将  おびだまはさざめく

仲秋しゃお

佩玉将将  おびだまはさざめく

前言:

『陳思王軼事  天才詩人と、語られぬ妻』という連載小説(https://kakuyomu.jp/works/16817139559133416528)のスピンオフ的な短編です。

この話の時点でおおよそ下記のような前提がありますが、本編のほうは読まれていなくても問題ありません。


・新郎(数え21歳。曹植そうしょく あざな 子建しけん)は詩文の天才として早くから名を馳せ、その父親(曹操そうそう)は漢朝の丞相として天下に覇を唱えようとしている


・新婦(数え18歳。さい氏)の父代わりの叔父(崔琰さいえん)は丞相の属僚なので、新婦の家にとって新郎は上司の家のボンボン、というか御曹司的な立ち位置


・新郎新婦はいろいろあってお互いの気持ちを確かめ、結婚することになった


・新郎にとっては長兄(曹丕そうひ)の妻(しん夫人)が忘れがたい初恋のひとで、新婦もそれを知っている






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 婚礼の杯を交わした後のねやは静かだった。


 儀式的な食事も終わり、脱いだ礼服を預け渡した侍者たちも既に退出し、淡い燭台の明かりのもとに、ふたりだけで残されている。

 新郎新婦とも、身にまとうのは就寝用の単衣のみとなっている。

 曹植はむろん冠を外してもとどりだけを結っており、崔氏も頭部から一切の装飾を外し、髪を下ろして首の後ろで束ねるだけの姿である。


 彼女は正座したまま目を上げずに、卓上に置かれたままの杯の底に映る火影を見つめている。


 ふと、卓を挟んで向かい合う曹植が立ち上がる気配を感じた。初めて目を上げると、彼は閨の一角を占める大きなねどこの端に腰かけ、その隣を軽く叩いた。

 ここに座るように、という意味であろう。


 崔氏は立ち上がり、促されるままに彼の隣に座した。

 歩いているうちは緊張のあまり足がもつれそうだったが、意識して背筋を正し、極力平静に見えるようにと努めた。


 だが、隣り合って座ってからも、彼のほうは見なかった。


 牀の周囲にはうすぎぬとばりが降ろされているが、いまは脇のほうに寄せられている。

 ふたりが順に座った弾みのためか、帳に幾条か吊り下げられた装飾用の布とぎょくが、枕辺に影を落としながら小さく揺れ動いた。


 入室したときも印象づけられたが、婚前に想像していたより遥かに広い空間である。文字通りの正室であり、彼女個人の居室にもなるわけだが、これからの歳月を夫婦でともに過ごす、ふたりの閨ということになる。


 どれほどの沈黙が流れたか、ようやく曹植が口をひらいた。


「疲れたか」


 いいえ、と崔氏は首を振った。


「平原侯さまこそ、―――子建さまこそ、今宵は我が家との間を往来していただき、お疲れのことと存じます」


 呼称を言い直したとき、崔氏の声は我知らずかすかに震えた。

 それを知ってか知らずか、曹植は少し笑った。


「大した距離ではない。

 ―――窓の外が、気になるか」


 そう言われて崔氏は、自分がずっと、牀からだいぶ離れた対面の壁側をみていたことに気がついた。壁には大きな窓が穿たれ、左右開きの扉は半ばほどひらかれている。

 どことなく甘い香りが漂うのは、つい先刻に曹植の訪れを迎え入れた彼女の実家の敷地と同じく、この近くにも桃林があるためなのかもしれない。


 崔氏が窓ばかりみていたのは、このあとに控えていることへの不安から目をそらしたい一心であった。だが、それを正直に伝えるわけにはいかない。

 嘘ではない範囲の、何かもっともらしいことを言わねばと思った。


「はい。親迎しんげい(嫁むかえ)の道中―――車の窓から、とても背の高い建物が三つ、遠くに連なっているのがみえました。ここからは、もっとよくみえるかと」


銅雀台どうじゃくだい氷井台ひょうせいだい金虎台きんこだいのことか。残念だが、この室からは見えないな。ぎょう城全体のなかでも、西北の城壁沿いに位置している」


「そうなのですか」


「ああ。鄴の西北に広がる銅雀園どうじゃくえんの、さらに西北の一角だ」


「叔父たちから、話には聞いておりましたが―――あれほどに高いとは、存じませんでした。とりわけ高い中央の台が、銅雀台なのですね」


 崔氏はなお窓の外をみていた。銅雀台は一昨年の冬に着工し、今年つまり建安十七年(212)の春、つい先月に竣工したのだという。

 親迎の道中で、夜空を背景に遠く眺めるかぎりでは、ほかの建造物に比べて際立って高いということしか分からなかったが、叔父たちの話では、その高さは十丈(約24メートル)にも及ぶのだという。


 一昨年といえば、崔氏にとっては清河せいがにて曹植に出会う前年であり、そのころは既に鄴から遷って許都に暮らしていた。叔父が赴任することになった丞相府は許都に所在しているからである。

 しかし、一昨年の時点で仮に崔氏がまだ鄴に居住していたとしても、邸の奥にある婦人用の区画から出ることは通常ないのだから、鄴城下の民衆がどれほど盛んに噂していたとしても、彼女が台の輪郭を目にすることはおそらくなかったであろう。


 そういう意味では、鄴のような大都会ではなく草深い清河の本家に暮らしているときのほうが、四季折々の農事の必要に迫られて邸のみならず(防壁に囲まれた集住地)の外にまで足を運ぶことが日常であったから、行動の自由の度合いは高かったといえる。

 夫となったこの青年と偶然に遭遇したのも、そのような“自由”の結果ではあった。


「建ったばかりのころ、つい先月だが」


 曹植がふと、思い出したように言った。


「落成を祝して、あの台上で宴が張られた。

 父上は我々兄弟一同を率いられて、賦を作るようお命じになった」


「そのように、伺っております」


「そなたも知っているのか。ならば、俺がそのとき作った賦も聞き及んでいるか」


「はい、“明后(賢明な君主)に従いて嬉游きゆうし、層台に登りて以てこころたのしません―――”」


「そう、それだ」


「曹丞相から―――」


 崔氏はそう言いかけて口をつぐみ、慎重に言い直した。


義父上ちちうえさまから、格別なお褒めの言葉を賜ったと伺っております。

 子建さまの書き下ろされた文辞に、文字通り刮目かつもくなされたと」


「そうだな。あれほど晴れがましいことはなかった」


 曹植はことばどおり晴れ晴れと回想するような表情になった。

 かと思うと、大事なことを思い出したように、いっそう明るい声を発した。


「銅雀園と違って銅雀台は、父上のお許しがなければ出入りはできないが、いずれは伺いを立てて、そなたを連れて登ることもできよう。すばらしい眺めだ」


「お心遣い、誠にかたじけなく存じます。―――ただ」


「ただ?」


「―――お笑いになるかもしれませんが、“嫁いだ後は、高層の場に近づかないほうがよい”と、忠告を受けたのです」


「忠告?」


「婚約が成立して少ししたころ、昨年の夏でしたか、清河の我が家に客人がありました。

 丞相家に嫁ぐことになったわたくしの将来に何かあれば備えさせようと、占いができる方士ほうしを族人がわざわざ探してきてくれたのです。

 そのかたが、わたくしをよく観察してから、そのようにおっしゃたのです」


「高い場所を避けろ、と」


「はい。あのときはさほど深刻に受け止めなかったのですけれど、いま、高い建物のことを考えていると―――つい、思い出してしまいました」


方術ほうじゅつか」


 曹植が一笑に付さなかったことに、崔氏はほのかに安堵した。


「俺は必ずしも方士の類は信じないが、そなたを不安にさせてまで登らせることはするまい。


 我が家全体の行事として、婦人を引き連れて台に登ることはおそらく今後もないであろうし、もしあったとしても、そなたの体調が優れないと俺から父上母上にそのつど申し上げれば大丈夫だ。


 子桓しかん(曹丕)兄上も、病がちな義姉上あねうえが母上のもとに伺候できないときはつど申し上げておられるが、とくにお咎めはないようだし―――」


 そこまで言って、曹植は口をつぐんだ。

 崔氏も少し気まずさを感じたが、曹植が自分の前でその婦人のことを―――しん夫人のことをできるだけ口にしないように配慮してくれているのは、うれしかった。


「まあ、そういうわけだ。安心してくれ。

 そなたは、あれらの建物は遠目に眺めるだけとするのがよい」


「ありがとうございます。―――昼間にみたなら、遠目でもきっと壮麗なことでしょう」


「そのとおりだ。鄴の空に赫々とそびえ立つあれらを―――とりわけ天をも撫するかのような威容を誇る銅雀台を、父上の不遜の志としてそしる輩もいるが、その者たちは何も分かってはいないのだ。父上の、天子に捧げられた赤心を」


 曹植はいちどことばを切ってから、少し語調を強くした。

 新婦にというより、自分に言い聞かせるかのようであった。


「このあめしたで勤王を叫ぶ者たちは、父上に感謝すべきでこそあれ、誹謗ひぼうするなど言語道断だ。父上のことを、朝政を壟断ろうだんする逆賊と呼ばわる者さえいるという。


 もし今の世に父上がおられなければ、―――父上が手を尽くしてきょの地にお迎えしなければ、今上陛下はそれ以前にもまして塗炭の苦しみを味わわれたことであろう。


 恐れ多いことだが、お世継ぎなきままに若くしておたおれになる未来とてありえた。もしそうなれば、大漢はあえなく断絶してしまったはずだ」


「―――誠に義父上さまは、ご自身も多々苦難に見舞われる中で、今上陛下をお守り申し上げることに尽力してこられたと、そのように伺っております」


「そのとおりだ。俺も、父上が生涯を賭してご自身の志を遂げられるのを、この身の使命と思ってお助けしたい」


「義父上さまの、お志」


「むろん、漢室の再建だ。先ほどの賦には、その思いを精一杯こめたつもりだ」


 はい、と崔氏はうなずいた。曹植が銅雀台で書き下ろした賦は、「皇家を翼佐し、の四方をやすんぜん」という句に象徴されるように、曹操がこれまで積み上げてきた――周王室に対する斉の桓公や晋の文公にも等しい――尊皇の実績の偉大さを詠うとともに、その栄光と永寿とを願うものであった。


 教育といえば専ら経書けいしょ(儒教経典)の注解を叔父から手ほどきされてきた崔氏には、正直なところ、同時代人による詩賦の巧拙というものはあまりよく分からなかった。

 だが、彼の賦には、この天下で誰にも追随できない偉業を成し遂げてきた父親を誇りに思う気持ちが率直に表されていることは、あやまたず理解できた。


 とはいえ、そのまっすぐさは果てなき草原に放たれた若き駿馬しゅんめのようで、どこか危うさを感じさせるものでもあった。


「子建さまのお気持ちは、義父上さまにおかれてもきっと、まことに御おぼえめでたきことと存じます」


「ああ、それはうれしいが―――俺ひとりがおぼえめでたくなりたいわけではない。兄上たちも、その気持ちは同じなのだ。俺が少しばかり、ことばで言い表すのに長じているというだけで―――子桓兄上も子文しぶん(曹彰)兄上も、父上の志をともに担いたいという気持ちは同じだと思う。


 だから兄弟みなで、漢室に往時の盛栄を取り戻すべく、力を尽くすのだ。

 そうあってこそ、竹帛ちくはくに我が家の功績と忠心が末永く記されるであろう。

 たとえそのころ父上がお隠れになっていても、黄泉の下にて深く誉れとなされると思う」


「わたくしも、それを願っております」


 崔氏のそのことばは本当だった。

 彼女が曹植を愛するようになったのは、彼に勤王の志があることとは関係ないが、しかし夫となる青年が天下泰平と漢室再興のために犬馬の労を尽くすのなら、嫁いできた身としてそれほど晴れがましいこともない。


 幼時より叔父崔琰から教えられてきたとおり、彼女もまた、中華の民の安寧は、王莽おうもうのような簒奪さんだつ者にも屈しなかった―――不動の天命を授かった漢朝の治下でこそ守られるはずだと、素朴に信じている。


(このかたがご任務を全うする上で後顧の憂いにとらわれぬように、わたしが心を尽くして、家のなかを淀みなく平穏に保たなければ)


 崔氏はいま改めて、自分が平原侯夫人となったのだという自覚を深くした。


「さて」


 曹植がつぶやき、埃を払うかのように自分の膝を軽く打った。

 何かの区切りのような動作であることは、崔氏にも分かった。

 神樹をかたどる燭台に灯されたいくつかの火もそろそろ弱まりつつある。

 ふたたび、頭の芯が熱くなるような気がした。


「子作りでもするか」






 崔氏が何も言わないので、曹植は自分から新婦のほうを向いた。

 ただでさえ色白な彼女の肌は、灯火を受けて黄色味を帯びているとはいえ、実際にはおそらく青白くなっている。


「大丈夫か」


「いえ、あの」


 ドン引きした、もとい塑像そぞうのようにこわばった顔のまま、崔氏は声もひきつらせた。


 熱情をたぎらせた奔流のようなことばで請われいざなわれることを期待していたわけでは決してないが、詩情のかけらもない一言で初夜のとこを迎えるとは思わなかった、というのが正直なところである。


「―――ひょっとして俺は、まちがっただろうか。

 こういうのは、簡潔に告げるべきかと思ったのだが」


 筆先からり出す文辞の壮麗さとは裏腹に、衣食住であれ礼儀作法であれ、曹植が生活全般において簡潔をたっとぶ人間であることは、崔氏も知っている。

 だが、そのように釈明されたところで、衝撃は何ら緩和されない。


 崔氏はいいえはいも言わなかった。

 新婦の表情が沈鬱な色に染まったのをみて、曹植も自分の過ちを悟ったようであった。


「悪かった。いまのはなかったことに」


「いえ……」


「どういうふうに言えばよかったろうか。教えてくれ」


 本当に悩んでいるようなその声を聞いて、崔氏は急に物悲しくなった。


(もし、あなたさまの隣に座るのが最愛の婦人だったら、華燭かしょくの晩にどう語らうべきか、おのずとお分かりになるのではありませんか)


という思いが喉元までせりあがり、しかし飲み込んだ。


 いま思い起こしても、勢いに勢いが重なって成立したような婚約、そして結婚だが、一年前の清河で曹植から求婚されたとき、自分に望まれていることは分かっていた。


 それほどに思慕を寄せてくれるなら、正式な伴侶として、俺の有り余る欠点を補い支えてほしいと。

 そして、そなたの一族のような、寡欲な姻戚が必要なのだと。

 彼は最初からそう明言してくれていた。だから、何も裏切られてなどいないのだ。


 何かを勝手に期待して、勝手に落胆するほうが悪い。


 そう思って己を鼓舞しようと試みても、物悲しさは消えなかった。

 だが、断ち切るために自分から声を出した。


「大丈夫です。横に、なりましょう」


「いや、―――曖昧にしないほうが、よくはないか。我々にとって最初の晩だ。

 大事なことだと思う。話をしたい」


 穏やかながら真摯なその声に、崔氏の心は少し、落ち着きを取り戻した。

 だが正直に言って、自分でも何を求めていたのかはっきりとは分からない。

 分かっていることはひとつだけある。

 それを口にしてもいいのだろうかと思ったが、ふと、こぼれるように言ってしまった。


「甄の義姉上さまに対してなら、こういうとき、どうおっしゃるのですか」


 曹植の目が大きく見開かれ、次いで、何度も瞬きをした。

 平静にやり過ごそうとしながら、動揺を隠せない顔だった。


「―――何を言っている。義姉上と俺が、まさか、こういう、そんな、初夜を迎えるなど―――」


 本人にも律しようがないのか、崔氏も聞いたことがないほど声がうわずっている。


「あるわけがないだろう。今後とも絶対にだ。

 起こりえないことは仮定しても無意味だと、そなたは自分でも言っていた」


「無意味でも、仮定自体はできるはずです」


「仮定させてどうしたいのだ。禽獣きんじゅうの行いだぞ」


 曹植は呆れたように切り捨てようとした。

 だが、その声のたかぶりからすれば、内心で仮定するだけでも胸中が激しくざわめき荒ぶっていることは明らかであった。


 とうとう彼は、新婦の側を直視できなくなったかのように顔をそむけた。

 その様子をみながら崔氏は、やはり尋ねるべきではなかったと思った。

 そこに「ある」ことが分かっていても、触れないようにしておくのがいちばんいい場合もあるのだ。


 崔氏は視線を下げて自分の襟の合わせを見た。

 その奥に隠れている肌からは、分かっていたことだが、何の香りもしなかった。


(―――あのかたならばきっと、しょうのかぐわしい香りが立ち昇るのだ)


 甄夫人は椒を好むというのも、曹植を通じて偶然知り得たことだった。


 甄夫人そして崔氏にとっても義父となった丞相曹操は、戦乱に疲弊した天下を治める方針の一として質素倹約を推進してきた。

 具体的には、華美な車馬や服装はもちろんのこと、香についても使用も禁止している。


 だが、はるか南方産の香木や香料を焚くのと違い、中原ちゅうげんに自生する香草を身に携えることは奢侈にはあたらないので、実質的には規制されていない。

 それゆえに、丞相の長子の妻というほどの高貴な女性でも、舶来品ではなく比較的手近な野生の香草を用いるのであろう。


 今宵、丞相邸から親迎の一行が到着する前、自邸の奥で新婦の礼装を身に着ける前に、崔氏は丹念に時間をかけて沐浴をおこなった。

 常であればひとりで入浴するが、今回ばかりは、少人数ながらも邸じゅうの侍女が浴室内に侍り、上気した肌を隅々まで磨き髪を丹念に洗い上げてくれた。


 嬢さまはこんなにおきれいなのですから、丞相の若君わかぎみはきっと日夜ご寵愛を傾けてくださいますよ、と口々に伝えてくれたのは覚えているが、いまここで思い返すと、虚しさが先に立った。


 その沐浴の湯を用意する際、崔琰の妻である叔母は崔氏に声をかけ、好きなものを好きなだけ湯に浮かべなさいと言った。

 つつましい暮らしの中でも、この日のために、さまざまな香草を集めておいてくれたのだった。

 その厚意はうれしかったが、崔氏は結局いずれの草も選ばなかった。

 だから、湯や肌が香りに染まることはなく、いま襟元から香気が立ち昇るわけでもなかった。


 約一年前、清河の崔氏宗家に曹植が寓居していたとき、

「そなたは何もつけぬほうがよい」

と言ってくれたから―――あるいは暗に、そう求められたからだった。

 三月上巳の日、みそぎの後に、ほかでもなく椒の香りを身に帯びていたその日だった。


 その前後の状況から、

(甄夫人の香りだから、ほかの女が帯びることを、このかたは望まれぬのだ)

ということが崔氏にも分かった。


 すでに曹植のことを深く想うようになっていた彼女にとっては、その事実は胸をくものであった。

 しかし同時に、「何もつけぬほうがよい」という彼のことばも―――そのままでよいのだということばも、心に深く刻み込まれた。

 そこに何かの希望を見出したのかもしれなかった。

 だから、名実ともに彼の妻になるこの夜も、いかなる香りも帯びずに臨んだのだ。


 だが、彼のあのことばには、何の意味もなかったのかもしれない。

 崔氏は襟元から目を上げ、燭台の明かりが及ばない窓辺近くの暗がりを見つめた。

 桃花のような甘い香りも、いまでは窓から忍んでくることはなかった。






「どうして、そんなことをいま訊いたのだ」


 こちらを見ないまま、曹植がふと尋ねてきた。


「知りたかったのです」


「知ってどうする」


 それは崔氏にも分からなかった。

 だが、自分と甄夫人はどれぐらい遠いのか―――彼にとって甄夫人はどれほど崇高な存在なのか、わざわざ自分が傷つくためにそれを知りたいのかもしれないと思った。


 彼女の返答をしばらく待ってから、曹植はふたたび口をひらいた。


「何か、誤解が生じているかもしれないが、俺はそなたと義姉上を比べたことはない。他の女ともだ。

 前も言った通り、俺は序列はつけない」


「―――はい。承っております」


「比べることには、意味がないと思っている。

 女に限らないが、ひとにはみなそれぞれの風韻ふういんがある。それぞれ異なる形で、心を震わせるものが。

 ぎょくが触れ合うときのようなものだ。材質は同じようにみえても、みな異なる音を奏でる」


 はい、と崔氏はうなずいた。うなずきながらも、


(―――だけれど、わたしひとりに、子建さまのお心を震わせられる、何か特別なものがあればいいのに)


と思った。同時に、その欲深さが浅ましく思われ、自分でも恥ずかしかった。


 玉と玉が重なるとき、冷たく硬質な、だが清澄な音が生まれる。

 戦火にもてあそばれた苛酷な命運のなかでも摩耗されなかった孤高な清らかさこそ、曹植が甄夫人に見出した美ではないのだろうか。

 崔氏はふと、あの川底に打ち捨てられようとしていた玉環を―――自分と曹植を偶然に引き合わせ、そして彼の心を甄夫人に結びつけてやまない、あの玉環を思い出した。






「女 有りて、車を同じくす。顔 舜華の如し」


「え?」


親迎しんげいの道中、そなたの車を従えて帰路についたとき、ずっとこの詩のことを考えていた。

 鄭玄じょうげんも―――鄭康成こうせいも、これを親迎の歌だと解しているな」


 崔氏は自分の膝に視線を落とした。

 『詩経』鄭風ていふうの一首、「有女同車ゆうじょどうしゃ」の最初の一句である。


 曹植が好む韓詩かんし学派の解釈についてはすぐに思い出せないが、彼女が幼時より叔父から教授されてきた毛詩もうし―――『詩経』諸派のなかで叔父の師たる大儒たいじゅ鄭玄が支持し、膨大な注釈をほどこしたテキスト―――の序によれば、この詩の主旨は、春秋時代の大国せいの公女を娶らなかったていの太子こつを批判することにあるという。


 だが、純粋に字面だけをみるならば、おそらくは青年が、心に慕う美しいむすめと同道する喜びを詠ったものである。


 この詩のなかで愛慕の対象となる孟姜もうきょうという女性は、斉の公室の長女を指している。


 そして、崔という氏は斉の公室から分かれたものであり、本来は姜姓であることを、曹植もまた知っている。


こうし将たしょうし、佩玉はいぎょく 瓊琚けいきょなり。

 彼の美なる孟姜、まことに美にして且つしとやかなり」


 曹植が詩のつづきを口ずさんだ。

 やがて、崔氏が自らのももの上に重ねている両手の上に、彼の手が伸びた。しかし結局触れないまま、その手は戻っていった。

 彼女が少しだけ隣に目を遣ると、彼もこちらを見ており、すぐに目をそらした。


「安易に触れては、よくない気がする」


 崔氏はうなずいた。何と言えばよいか分からなかった。

 触れられなければ婚礼が完成しない。だが、大切に思われている、と感じた。


「ところで、そなたのあざな小字おさななは、機能的にすぎる」


 まったく脈絡のないことを唐突に言われたので、崔氏は思わず顔をはっきり上げて隣をみた。曹植は真顔でそれを言っていた。


 今回の婚約が定まった際、崔氏は叔父崔琰さいえんに字をつけてもらった。世間には自分で字をつける例もあるが、彼女の一族の慣行では父兄につけてもらうことになっている。


 その字も、そして生後間もない時期に族父崔林さいりんから与えられた伯女はくじょという小字も、彼女が同世代のなかで最年長の女子であることを示すものであって、名前というよりは記号であった。


「華美に流れぬようにとの、願いが込められているのです」


「それはいいが、あまりに味気ない」


「そうでしょうか」


「ふたりでいるときは、孟姜とか斉姜せいきょうと呼ぶのはどうか。そのほうが、そなたにふさわしい」


「ふさわしいかどうかは存じませんが、―――お好きに、なさってください」


 崔氏は目元を染めて顔を深く伏せ、その語尾は小さくなった。孟姜も斉姜も、高貴でゆかしいいにしえの美女の代名詞として使われる語である。

 自分からそれを名乗ったらどうかしている気がするが、彼がそう呼びたいというのなら―――そう呼ばれたい、と思った。


「彼の美なる孟姜、徳音とくおん 忘られず」


 しばしの沈黙をおいてから、「有女同車」の最後の句を曹植がつぶやいた。

 崔氏はいたたまれぬような思いで、ぎゅっと強く目を閉じた。

 これが恥じらいなのか、喜びなのかも分からなかった。


 自分の両手の上に、とうとう彼の手が重なるのが分かった。心臓をそっと掴まれるかのようだった。


「これ以上触れるのは、ためらわれる」


「はい」


「だが、触れたい」


「―――はい」


「もっと間近で見て、聴きたい」


 崔氏は顔を上げられなかった。

 それを見越していたかのように、曹植はもう片方の手を彼女の頬に添えて、自分のほうに向かせた。そして、ゆっくり顔を下ろした。


 彼の顔が離れるころには、崔氏は羞恥だけではない何か狂おしいもののせいで、気が遠くなりそうだった。


 経や伝の文言もんごんを思い出すなりして、何とか正気を保たなくてはと思ったが、目を閉じたまま呼吸を整えようとしているうちに、仰向けになるよう寝かされたことに気づいた。


 恐る恐る薄目をひらくと、ほぼ真上から見下ろされていた。

 まだ火が残っている燭台は、帳越しではあるが枕元の近くに置かれているので、彼の表情はわりとよく見て取ることができた。

 何かを思いつめたような顔であった。

 自分の表情も、彼には同じくらいよく見えているのだろうと思われた。


「あの」


「どうした」


「就寝時、灯火は消すものでは」


「そのうち消える」


「あ、あの、曹丞相の―――義父上さまのご主義に反するのではございませんか。

 つまり、不孝です」


「何だって?」


 彼女の顔を見下ろしたまま、曹植はやや面食らったような声を発した。


「と、ともし油を浪費するのではなく、せ、節約したほうが、義父上さまはお喜びになるのでは。孝順を尽くすべきです」


「お、おう」


 曹植は困惑の表情を深めているようであった。

 崔氏のほうも、自分が何を口走っているのか分からなくなってきた。

 分かるのは、こうして明かりがついたままでは恥ずかしさで死んでしまいそうだ、ということであった。


「『儀礼ぎらい昏礼こんれいでも、この段階では“ ともしび づ ”と記されております。つまり、へやを暗くしなければ」


「明晩からでよい」


「ですが」


「俺は、こうして見ていたい」


 欲しいものを率直に告げる声であった。

 それを受け止めきれないかのように、崔氏はただ黙って目を伏せた。


 先ほどのように、頬に手が添えられるのを感じた。見るだけで満ち足りるかのように、そのまま彼は動かなかった。

 崔氏は少しだけ安堵し、そしてまた心細くなった。


 ふいに、首筋に何かが―――おそらくは唇が這うのを感じ、吐息交じりの奇妙な声が漏れ出た。思わず口を手で押さえると、その手をとどめられた。

 驚くほど近くで、熱を孕んだ声が聞こえた。


「その声を聴きたい。徳音なるものを」


「―――あの、それは、違います」


 混乱を収拾できないまま、崔氏はふたたび中断するようなことを言ってしまった。

 この後に我が身に起こることが恐ろしく―――というよりも、それを恐れながらも待ち焦がれているかのような己を直視することが恐ろしく、どんな理屈をつけてでも、少しでも先延ばしにしなければと思った。


「何がだ」


「鄭師父の注釈では、“徳音”とは、後世に伝えられるべき、模範となる振る舞いのことです」


「そうか」


「ゆえに、本詩においては婦人の声そのものを指すのではなく―――」


「俺の解釈では、違うのだ」


 曹植はそう言うと、ふたたび顔を下ろして、それ以上の議論を封じた。

 牀にのしかかるふたりの重心が少しずれたためか、牀を囲む帳に下げられたいくつかの玉が、さざめくように小さく鳴った。


 その音色を、そして衣擦れをおぼろげに聞きながら、崔氏ももう、争わなかった。






佩玉将将 おびだまはさざめく・了






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