いつか恋に落ちる黒天使と白悪魔

空間なぎ

#1 夢/現実

 それまで19:59だった数字が20:00になった瞬間、私は銀色の角のようなドアノブを6時の方向から3時の方向まで回す。そのまま力いっぱい手前に引くと、これからの約2時間、私だけのレッスン場になる空間が現れた。木目調ながら照明をてらてらと跳ね返す床に、物ひとつない部屋。4面ある壁のうち3面はわずかにくすんだ白、そして1面だけは鏡張りになっている。一般的なダンススタジオだ。


 2時間1200円という破格の値段で、気兼ねなくダンスを練習できるスタジオはなかなか見つかるもんじゃない。私はここを教えてくれたリーダーに内心で感謝を述べながら、ざっと室内の具合を確かめる。この部屋を前に使った人が忘れ物をしていたり、掃除を怠ったりして退室している場合もあるから、念のための確認ってやつ。


「問題なし」


 つぶやいて、靴を脱ぐ。靴は部屋の外にきちんと並べて置いておき、私は靴下のままスタジオに入室した。ドアノブを今度は9時の方向から6時の方向に回して、ようやく私は一息ついた。そのまま大の字になって寝転がる。ここは防音、しかも22時までは私ひとりしか使えない完全なるプライベートルーム。


「あー、なんでこうなったんだろう……」


 なんて、叫んだって問題なし。もちろん首をちょっと左に傾ければ、ダンススタジオの床に大の字で寝転がる怠惰な私の姿が鏡越しに目に入る。ぼさぼさの黒髪ショートカットの頭に、中性的と称される私の顔ともばっちりご対面。自分の顔など、練習生のときからデビューシングルを出すまでに何度も何度も目にしてきた。そのたびにいろいろな表情をしてきたけど、ここまで疲れ切った顔になるのは初めてだろう。おおよそ、「ダンスの練習があるから」なんてクールに言い残して事務所を去って行った人には見えず。


 黒瀬漣くろせれんはアイドルだ。自称アイドルではなく、アイドル志望でもなく、職業アイドルの確固たるプロ。そう聞くと、普通の人々は何を思い浮かべるのだろうか。多くの人々は大概、こう尋ねてくる。「どういう系?」、と。


 それを知りたいのはこっちだ、そう言いたい気持ちをぐっと抑えて口にするのは、「私たちにしかできないアイドルです」という具体性もへったくれもない言葉なのだが、そうとしか言いようがないのだから仕方ない。そもそもジャンルやカテゴリーというのは世間や観客が決めることであって、表現者自身が口に出したら身も蓋もないではないか。「今回は恋愛漫画です」と作者の紹介する漫画が、もしどう見てもグロテスクな人体バラバラ殺人ホラー漫画だったらどうする。恋愛漫画のコーナーにその漫画は置かれないだろう。


 なんて、前置きが長くなってしまったが許してほしい。私は混乱している。それは念願かなってデビューしたが売上がかんばしくないからでも、メンバーのひとりに熱愛疑惑がかけられ炎上したからでもなく、その諸々から生じる余波が私にまで影響してきたからだ。事の発端は、1時間ほど前にさかのぼる。


 今日、つまり3月14日は世間でいうところのホワイトデーというイベントで、私たちアイドルグループ「4MW」……読み方は「よんえむだぶりゅー」でも「ふぉーえむだぶりゅー」でもいいのだが、ファンの方々曰いわく「ふぉめう」こと私たち4人のホワイトデー写真を撮影する日だった。人気アイドルならホワイトデーごときで写真を撮ることも、ましてやホワイトデー当日に撮ることもないだろうけど、私たちはデビュー5ヶ月目の新人アイドル。乗れるイベントには全力で乗る。


 事務所のダンススタジオでそれぞれ花束を持ち写真を撮ったあと、高校を卒業したばかりの末っ子はマネージャーさんに付き添われながら事務所を後にし、リーダーは新曲の作詞のために事務所の音楽スタジオに姿を消し、私は残るメンバーのひとりとその場に残された。4人掛けの事務テーブルで、彼女……天白葉月あましろはづきは、至って真剣そのものといった表情で熱心にスマホを見ていた。


 天白葉月はグループで唯一私と同い年のメンバーで、おまけに私より歌が上手いし芸歴も長い。他国で練習生をしてみたり、アイドル養成事務所で長年くすぶってみたりした私とは格が違う。何を隠そう、この子は美少女コンテストで審査員特別賞をもらって事務所に入っている。そのうえ、社長が気まぐれでやらせたダンスレッスンであっさり頭角とうかくあらわし、こうしてアイドルになっているのだから。それはもう、才能と呼ぶしかない。


 ほぼ無意識のうちにため息をついてから、私は花束を適当な花瓶に挿し、ダンススタジオの空き具合をチェックする。来月にはセカンドシングルの発売が控えている。ダンスの振り入れや歌詞の読み込みは既に終わっているけど、完成度を高めるためには1日たりとも練習を欠かすことはできない。さっさと移動しようと腰にウエストポーチをつけ、挨拶すべきか天白の様子を一瞥いちべつした。そこでちらりと見えてしまった画面から、私は察した。エゴサーチだ。


「それ、楽しい?」


 思わず口をついて出てしまったのは、自分の予想よりも重い響きを伴った問いかけの言葉だった。別に私はエゴサーチをする人をバカにしているわけではなく、私はエゴサをしなくても大丈夫なんですのよと自慢したいわけでもない。


 正しい否定文と本人の謝罪をもって終わった炎上に、まだぐちぐちと意見を述べる人に構う余裕はないと言いたかっただけだ。それがメンバーであるなら、なおさら。


 栗色の長い髪がふわりと揺れ、天白が立ち上がった。いつになく真剣な表情に、少しだけ怒りが混ざっていると直感的に悟る。しかしこう、顔がいい人は怒った顔もさまになる。泣いても笑っても怒っても、顔がいい以外の感想が出てこないだろう。たとえ着ている服が上下ジャージだとしても、顔さえよければ雑な印象は受けない。無論、私は自分の顔にそこまでの自信がないのでしっかりとTシャツに短パンだ。両方とも無難な黒で揃えている。


 ふと視線を感じ我に返ると、天白の真っ黒な瞳が私を見据えていた。大きな瞳だ。二重幅を強調しなくてもクッキリと二重だし、涙袋を描かなくても笑みを浮かべなくても涙袋が存在している。やや薄い唇が開くと、見た目よりも芯のある低めの声が私を叱責する。


れん、エゴサは大切だよ。忌憚きたんのない意見を聞かないと、意味ないでしょ」


 忌憚なんて言葉、どこで覚えたんだか。先週の話だが、この子はこう見えて必要単位ギリギリで進級を果たしている。かたや私はオンライン授業をフルに活用し、上限単位数のマックスまで受講し取得している。これぞフル単、成績優秀者としての務め。なんて内心で小競り合いに勝ったとて、1ミリも役に立ちはしないのだが。


「天白さんに言われなくても、わかってるよ。私たちの問題点くらい」


 なんて、少々強気に出る。私たちアイドルグループの問題点。それは天白も私も、既に帰ってしまった末っ子もスタジオにこもったリーダーも、全員がわかっていること。だけど問題点については1度も話し合ったことはないし、話し合って解決するたぐいのものではない。


 問題点その1、既に人気アイドルグループがいること。世はサバイバルオーディション番組が大流行していて、アイドル戦国時代などと揶揄やゆされている。中小事務所に所属している私たちには到底、勝ち抜くためのコネとカネが圧倒的に足りない。


 天白はスッと目を逸らし、ぽつりと言った。


「……別に、ミミのことを責めてるわけじゃないから」


「わかってるよ」


 アイドル戦国時代であるなら当然、アイドルは注目される。目立つアイドルほど注目され、ライブ開催やらアルバム発売やらで連日テレビやネットを騒がせる。もちろん、騒がせるのはいいニュースばかりじゃない。うちのグループの末っ子・ミミは、熱愛疑惑をかけられてもれなく炎上し世間を騒がせた。もはやこじつけに近い熱愛疑惑だったけど、1度疑いを向けた人物に対して世間の反応は異常に辛辣だ。


「それで、あの。ちょっと漣に相談というか」


 めんどくせぇなぁ、と思った自分がいないでもなかったが、グループを組んでからというもの、天白が誰かにお願いする姿なんて見たことがない。リーダーはよく私に酒を買ってきてとお願いしてくるけど。剣呑な空気にならないよう、しかし時間がかかる用件は勘弁という気持ちが伝わるように、真面目なトーンを意識して話す。


「少しだけなら、いいよ。練習あるから、手短に頼む」


「わかった。あのね、あの」


 やけに口ごもるな、と思った。実はもう話が始まっていて、10秒後には「私は『あの』を何回言ったでしょう?」とかのクイズが始まることはないよな、天白だし。ミミじゃあるまいし。さっさと練習に行きたい私の前で、天白は困ったようにもじもじと両手を胸の前で組んだり、ときおり顔を覆ったりしながら黙っている。


「あの、私と恋人になってくれない?」


 なんて?

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