第26話 Hの話-12

「もう、僕に関わらないでください」


 教室でいつも通り上機嫌で話しかけてくるエレナに、僕は冷たく言い放った。口調は固く、表情は暗く、視線は合わせずに、拒絶感を目いっぱいに出して。

 エレナは一瞬面食らったような表情を浮かべていたが、直ぐに意地の悪い笑みに変わる。


「妹さんに、そう言えって脅されたんだ?」


「……そういう訳じゃない、です。正直、鬱陶しかったんです。ずっと」


 的を得た発言に声が震えそうになるのを抑え込みながら、僕は言葉を重ねた。


「ううん? もう一度、目を見て言ってごらんよ?」


 両頬を手で挟まれ、無理矢理にエレナの方へと向かされた。目の前に、鼻先同士がくっついてしまいそうな距離に、彼女の顔があり、その碧眼が僕の目を、僕の内側をじっと見つめている。ふわりと、甘い香がした。心臓が早鐘を打った。もう一度、拒絶しようと試みた。


「だっ、だから……」


「どうせ、『言う通りにしないと私に危害を加える』とか言われたんだろう?」


 ずばりと言い当てられ、言葉に詰まる。どうしたら良いのか分からず、視線を左右に泳がせる。こういった状況は想定されていなかった。どう返せばいいか、自分でも考えていなかったし、妹も何も言っていなかった。ただ、話しかけられるたびに拒絶しろ、と言われただけ。それ以外の、今のような状況なんて、想定していない。


「そんなのただの脅しだよ。実際、何が出来る? 例えば私を殺す? そしたら鑑別所行きは確定。何年も君から離れる選択なんて、彼女が取れるはずがない。だから、何も出来はしない。怖がる必要なんてないんだよ」


 優しげな笑みを浮かべて、エレナは僕の頭を撫でた。恐怖と緊張に満ちていた僕の心が、僅かに軽くなっていく。エレナはいつもそうだ。僕の心を軽くしてくれる。癒してくれている、と言えるだろう。

 癒される、ということは僕は傷ついているということだ。


 ──何に?


 答えははっきりとしている。けれど、理性がそれを形にすることを許さない。だって、護るべき存在だから。たった一人の家族だから。

 陽向ひなたとエレナ、二人の影が脳裏にちらつく。僕は、どちらかを、選ばなければいけないのだろうか。自分の意思で、選ばないと、いけないのだろうか。頭の中に形のない思考が渦巻き、周囲の景色がセピア色へと変わり意識が遠のいていくのを感じる。


「……蓮!」


 エレナの声、肩を揺さぶられてはっと意識を取り戻した。世界が、色彩を取り戻していく。


「ふぅ、危ない。気を失いそうになっていたからさ。……理由は、察しはつくけどね」


「ぼ、僕は……」


「それ以上、何も言わなくていい。これは私と彼女の問題だから。蓮は、何も考えなくていいんだよ」


 何も考えなくていい、それは僕にとって甘美な言葉だ。欲しい言葉。何も考えなくていい、何も選ばなくていい。命じられるまま。その場の流れのまま。自由意志なんて、僕にとっては苦痛でしかない。僕は何も考えたくない。

 それがいけないんだ、ということも勿論分かっている。今の状況だってそうだ、結局妹に、エレナに、その二人の言葉に従うままになっている。僕が何か行動すれば、妹との関係も元に戻っていくのかもしれない。


 何か?

 何の行動?

 どんな?

 何をすればいい?


 結局、分からない。頭を抱えて、体を丸めて、蹲るだけ。僕にできることは、それだけ。妹の全てを、エレナの全てを受け入れる。その二つは両立し得ない。それも、分かっている。けれどどうすればいいのか、僕には分からない。

 この状況の元凶が誰かといえば、それは勿論僕なのだろう。僕のこの思考停止が、意志の弱さが、全てを生み出した。そして、それでも僕は、なんて無力なんだと、そう思うだけ。嫌になる。自分が嫌いだ。誰よりも、何よりも嫌いだ。


「……ふぅ、自己嫌悪は建設的な行為ではないよ。蓮、君は今のままでいい。私に全部、任せて」


 全てを見透かされ、甘やかされる。僕はその安寧に身を投じる。


「ま、気にせず今日も一緒に帰ろうよ。明日も、明後日もさ。私は蓮の、味方だよ」


 チャイムが鳴る。エレナは優しげな笑みを浮かべて席へと戻っていった。





 ──そして、数日が過ぎていった。


 妹に怪しまれないように、ただ一緒に帰るだけ。前のように妹がいつもより早く家に帰ることがあったとしても良いように、カラオケやゲームセンターや喫茶店には行かず、精々が公園で多少話をするくらい。

 妹の中学と僕の高校は正反対の位置にあるために、気づかれることは無い。

 実際、それからの妹も機嫌は良かった。夜も、苦痛を与えられることは少なくなった。暴力を振るわれる機会もずっとずっと少なくなった。エレナとの会話は楽しく、表情がコロコロと変わる様子に、笑みも次第に自然なものになっていった気がする。

 エレナの言う通りにしていけば、全てが上手く行く。そう思っていた。




「あーあ」


 ある日の帰り道、エレナがふと呟いた。

 何のことか分からずに首を傾げる。


「ううん。何でもないよ。いつか来る時が、いま来ただけ」


 何となく、不穏な気配を感じた。周囲をきょろきょろと見回す。いつも通り、エレナの美貌が人目を引いているだけで、何がおかしな点は見当たらない。けれど、何か、不安があった。


「大丈夫だよ。蓮は私が護るから」


 人通りが多い通りにも関わらず、エレナは僕のことをぎゅっと抱き締めた。周囲の視線が更に集まるのを感じるのと、何より身長の関係で周りよりも大きな柔らかい胸元に顔が沈んだことが恥ずかしくて、顔に熱が集まるのを感じる。


 エレナに視線を移すと、道路の反対側に視線を一瞬向け、直ぐに僕の方へと戻した。僕も同じ方向を見てみるが、ちょうど車が横切って見ることは出来なかった。実際には数秒だろうが、感覚的には数分にも感じる抱擁が終わった。心臓は早鐘を打っている、顔も真っ赤になっているだろう。エレナの方を見ると、彼女も視線を明後日の方向へと向けて、緩くカーブした毛先を指先でくるくると弄っていた。さすがのエレナも恥ずかしかったらしい。


「ふふっ……」


 どちらともなく小さな笑い声が漏れた。互いに視線を合わせると、擽ったい気持ちになった。自分の感情の変化に気づく。もしかすると、これが、恋というものなのだろうか。この心がぽかぽかと暖かく感じるものがそうなのだろうか。きっと、答えは、近いうちに出るのだろう。

そう。日々は続いていくと、明日は当たり前のように訪れるものなのだと、僕は思っていた。




 その翌日。


 再び僕とエレナは共に帰路を歩いていた。その日は生憎、朝から強い雨が続いていた。昨日のことがあったからか、お互いに何となくぎこちない。傘を差しているために少し距離が離れていることが、今日に限っては幸いだった。ただ、普段あれだけ余裕を持っているエレナもそんな風になるんだと思うと、自然と笑みが零れた。


「ふふっ……」


「な、なんだい?急に笑って……。わ、私にだって人並みの羞恥心くらいあるのだよ。昨日のはノリでやってしまったが、翌日まで羞恥心を引きずることになるとは思わなかったよ」


「いや、エレナにも人間らしいところがあるんだなって」


「そんなの当たりま──……え、っ?」


 エレナが背後を振り向く。僕も釣られて振り向いた。

 どしゃ降りの雨の中、傘もささず黒髪をびっしょりと濡らした少女が、腰を下げた体勢で走ってきており、振り向いたエレナの目の前にまで迫っていた。直後、互いの身体がぶつかりあう。

 少女は髪も服も濡れて顔と体に張り付いていたが、その目が爛々と輝いているのが見えた。それが自分の妹だと気づくのに、わずかに時間がかかった。


 景色が、スローモーションに流れていく。


 エレナは目を丸くして、ぶつかった勢いのまま前方へ、背中を後ろにした体勢で倒れていく。それを、歪んだ笑みで見つめる妹。

 妹の手には、ナニカが握られていた。本来は、野菜や肉を切るためのもの。とても往来で持つものではない。両手で柄を握るその手は、真っ赤に濡れていた。

 倒れたエレナに目を下ろす。地面に倒れた体。彼女は、自らの腹部の左側に手を当て、真っ赤に染まった手のひらを無表情に見つめていた。制服が真っ赤に染まり、地面に赤が広がってゆく。


「こっ、これで……」


「き、みは……愚か、だね……。ははっ、君には私は、殺せ、ないよ。なんたっ、て──」


 肩で息をする妹と、途切れ途切れの小さな声でつぶやくエレナ、二人の視線が交錯する。


 現実が、元の速度を取り戻す。


 誰かの叫び声が聞こえた。人の集まる気配がした。


「だっ、誰か……! 救急車を!!」


 振り絞って声を上げる。しかし、周囲はスマホをこちらに向けているだけ。目の前にいるサラリーマンらしき男を見る。気まずそうに、目をそらされた。なんで俺を見るんだよと、その目は語っていた。


「僕が……僕がっ……」


 僕は震える手でスマホを取り出す。こういう時、群集心理で誰も連絡を取らない可能性があることを知っている。それで、エレナを失うことは、出来ない。番号を打ち、たどたどしく状況を伝える。

 妹は、呆然とその様子を見ていた。だらりと腕が下がり、キィンと高い音を立てて包丁が地面へと落ちる。

 エレナは、その様子を見て弱々しく笑みを浮かべた。


 そう経たないうちに、警察と救急車とが現れた。エレナは既に気を失っており、真っ赤に染まった制服が担架に乗せられて運ばれていくのをただ見つめることしかできなかった。

 呆然としたままの妹は、特に抵抗することも無く警察と共に車へと乗った。僕も声をかけられ、妹とは別の車に乗せられた。

 サイレンが鳴り響く。エレナを乗せた救急車が段々と遠ざかっていく。

それに合わせるようにして、僕を乗せた車が発進した。後部座席に同情した若い女性の警察官が、僕に向かって何かを語りかけていた。何を言っているのか、僕には分からなかった。


 これは夢なのだろうか?


 頬を抓る。痛みが走る。

 悪夢のような、現実。

 血まみれの手をした、幽鬼のような妹。真っ赤な血を流すエレナ。その二つの光景が走馬灯のように繰り返し繰り返し、流れ、流れ、流れ──絶叫する。


 そして僕の意識は、ぷっつりと途切れた。

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