第24話 Hの話-11

「兄さん、これ、何ですか?」


 ある日の朝、リビングで椅子に座り朝食にジャムを塗ったトーストを呑気に食べていた兄さんに私は冷たい声で問いかけた。


 座った兄さんに近づく。よく見えるよう、眼前にそれを突きつける。つい先程、兄さんの部屋に入った時に見つけた、艶のある金色の糸。


「あっ……えっと、それは……」


 あからさまに狼狽した兄さんが言葉に詰まる。それはそうだろう。発覚すれば、私の不興を買うに決まっている。だから、私は代弁する。


「あの女ですよね、あの女狐。何で兄さんの部屋に落ちていたんですか?」


「部屋を見たいって……ほんとにそれだけで。他には何も……」


「それ、? ……っ!」


 兄さんは何も分かっていない。兄さんは招き入れたのだ、二人だけのこの世界に、異物を。汚した。汚された。他人が入ったという事実はいくら掃除しても取れない汚れ。

 感情のままにトーストの乗った皿を払い除けると、風切り音を鳴らせながら兄さんの頬を掠め、キッチンの壁に当たって甲高い音を立てて砕け散った。兄さんの頬に赤い筋ができ、僅かに赤い血が流れ出た。兄さんは呆けた表情のまま、頬に片手を添え、傷跡をなぞる。


「金輪際、あの女とは関わらないでください」


 先程までの激情は過ぎ去り、冷たい怒りとなって刃を突きつける。


「いや、でも、クラスメイトだし……向こうから話しかけてくるし……」


 兄さんが反抗した?

 普段なら素直に言うことを聞くのに、あの女と関わるなという言葉には反抗を示した。それだけ失いたくないものなのだろうか。大切な存在なのだろうか。

妹の私以外に?

有り得ない。有り得てはいけない。そんなことは許せない。許してはいけない。


 私は思い切り、頬を叩いた。乾いた音が鳴り響き、その衝撃は大きかったらしく兄さんは椅子ごと床に倒れこみ、呻き声を洩らして頭を押さえる。冷ややかな目で兄さんを見下ろし、その頭を容赦なく上から踏みつけた。


「拒絶してください。『僕に関わるな』と言って、話しかけてきても無視し続けてください。あいつが諦めるまで。何度でも何度でも」


 徐々に、足に体重をかけていく。兄さんは切れ切れに呻き声を漏らす。だからなんだというのだ。私の受けた苦しみは、痛みはその比ではない。


「返事は?」


「ううっ……」


 肯定は返ってこない。今度は兄の側頭部を蹴りつける。もちろんかなり手加減をしてのものだったが、兄の頭は大きく揺れ、頭を抑えて身を守るように体を丸くする。

 身を、守る?

 誰から?

 私から?

 そんなことはない。兄さんは私の味方。私の全てを受け入れてくれる。


「……兄さんから拒絶出来ないなら。実力行使をします。あの女を排除します。もう住所も分かっています。返事は?」


 前にも考えた通り、実際にあいつに手を出すのはリスクが高すぎる。だから、ただの脅しの言葉でしかない。しかし、その言葉を聞いて兄さんはゆっくりと顔を上げた。


「それは……分かった、陽向ひなたの言う通りに、する……」


 ようやく引き出した、肯定の言葉。私は思わず舌打ちをする。あの女を人質にして、それで兄さんは答えた。つまり、あの女がそれだけ大切な存在だという証だ。


 私達の間に突然入り込んだ異物。それが私達の関係性を狂わせるのは間違いない。この世界を、決して、壊させはしない。

 ふつふつと沸く殺意を、私は何とか押し留める。

 殺すこと自体に抵抗はない。



 昔、家の床下に黒猫が住み着いていたことがあった。私がまだ八歳だった頃だ。黒猫は私によく懐いていた。ある日、その子を抱き上げようとした。バキリと音がして、全身から力が抜けた。その頃から、私の力は異様に強かったのだろう。命を奪った。命が失われた。不思議と、悲しいという気持ちも、殺したという事実への恐怖も何も感じなかった。ただ、こんな簡単に命は失われてしまうんだな、と思っただけだ。



 しかし、殺害はれっきとした犯罪だ。それをしてしまったら、確かに唯一の脅威はなくなるが、数年は兄さんと離れ離れになってしまう。その間に新たな脅威が現れないとも言い切れない。

 もしも、もしも、気づいたときには既に兄さんが寝取られていたら。そう考えただけで血液が沸騰するのを感じた。


 殺しては、いけない。

 殺しては、いけない。

 殺しては、いけない。

 殺しては、いけない。

 殺しては、いけない。


 何度も自分に言い聞かせて、心を鎮めた。


 未だ、床に倒れたままの兄さんの姿が目に入った。こめかみに青痣が見える。誰がこんな酷いことをしたのだろうと、体から力が抜けて、だらんと両腕が下がる。あぁ、私だ。私がこんな酷いことをしたんだ。


「兄さん! ごめんなさい……痛かったですよね、ごめんなさい……」


「ううん……悪いのは、僕だから……。寂しい思い、させちゃったから……」


 兄さんは倒れこんだまま、何とか微笑みを浮かべようとしているようだった。

 あぁ、やっぱり兄さんは兄さんなんだ。

 私のことを一番に想ってくれている。

 私の傍から離れないでいてくれる。


 兄さん。

 信じています。


 兄さん。

 愛しています。


 ──数日後の、ことだった。


 ある日の帰り道。私は急に部活が休みとなり、気分転換にいつもとは違う道を歩いて、寄り道をして帰ろうとしていた。

 そして、大きな道路を挟んだ反対側で、兄さんがあの女と二人で歩いているのを見たのだ。唖然として、手に持っていたスクールバッグが地面に落ちる。あの女が、こちらに視線を向けた気がした。愉しそうな、笑みを浮かべた気がした。


 心の中のナニカが壊れる音がした。

 やはり、あいつは、生きている限り私たちの邪魔をするのだと。

 殺意が、膨れ上がる。心の蓋を押し上げて、どす黒い感情が溢れる。もう、止められない。私の脳内は真っ黒な憎悪で満たされていく。

 あぁ、排除しなくては。

 この世から。

 あの女狐を。

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