第28話 Rへと

「やあやあ、久しぶりだね、蓮。今にも死にそうな顔をしているじゃないか」


 包丁が刃の根元まで突き刺さって大怪我を負い、一時は生死の境を彷徨っていたはずの少女──東雲エレナは、数ヶ月ぶりに姿を現したはずの彼女は、まるで何事も無かったかのように片手をあげて気軽な挨拶を寄越した。



 今日から復帰するという話は予め担任から言われていた。朝のホームルームの少し前に教室に入ってきたエレナの姿にクラス中がざわつくが、集まろうとする彼らを手と目で冷たく制し、真っ直ぐに僕の所へと向かってきた。


 あの事件の元凶たる僕の前に。

 あの時までと、まるで変わらない態度で。


 その姿を見て、周囲のざわめきがひそひそとした話し声へと変わる。

 それはそうだ。元々僕ばかりに話しかけて特別扱いされていたことを良く思われていなかったのに、その妹がエレナを刺した、となれば、彼ら、彼女らから向けられる感情は負のもの以外は有り得ない。

 事実、僕はあの日から孤独となった。話しかけてくるものは誰もいなくなった。数少ない友人すらも失った。唯一の大切な家族も、温かさをくれた大切な存在も。


 何もかもを失った僕は、日々をひたすらに無気力に過ごしていた。生きていた、というよりも、死んでいない、と言った方が近いかもしれない。ただ酸素を消費して、二酸化炭素を吐き出すだけの存在。恵まれた国だからこそ許される、産業廃棄物。 

それが僕だった。

 学校に通い続けていたのも、ただ今までそうしていたから。それまでの人生の惰性にしか過ぎなかった。僕のことを蔑む言葉も、時には暴力も、僕はただ与えられるがままに受け止めた。それを受けるだけの責任があると思ったから。


 エレナが戻ってくる。

 そう聞いて心に希望が芽生え、直ぐに枯れた。エレナが五体満足で、生きて戻ってくる事実は嬉しい。しかし、どう接すればいいのか、どうすれば赦されるのか、それが何も分からなかった。


 結局答えが出ないままに当日を迎え、何も考えずに頬杖をついて視線を窓の外を向けていた時に、声をかけられた。

 どきり、と心臓が跳ねる。声のした方を向けば、数ヶ月前と変わらない、綺麗な金髪と碧眼を持った少女が、笑顔で僕に片手を上げ、ひらひらと左右に振っている。


「エ……レ、ナ……」


 何を言っていいのか分からず、ただその名前だけが口元から出た。久しぶりに声を出したからか、喉が張り付くような感覚がした。


「ん?どうしたいんだい?久々に会えたんだ、もっと嬉しそうな顔をしてくれたっていいじゃないか。私?私は言うまでもなく嬉しいよ、蓮」


 僕の名を呼び捨てにするのは、死んだ両親を除けばエレナだけだ。数ヶ月ぶりの声、数ヶ月ぶりの言葉。それなのに酷く懐かしい気持ちを感じた。幸福感を覚えると同時に、罪悪感もまた、覚える。


「あ、の……ご、め……僕っ……」


 久しく会話というものをしてこなかったからか、思考に舌が追いつかない。そもそもからして、その思考すらもまた凝り固まっているのだから。


「いいんだ、いいんだよ、蓮。私を刺したのは君じゃない。そして君が悪い訳でもない。それに君は、あの時必死に助けを呼んでくれただろう?それだけで嬉しかったよ」


「それはっ、当然、だし……。あっ、あっ、そうだ、無事で、本当に良かった……」


 少しづつ、言葉が滑らかになっていく。エレナは僕を擁護するが、さすがにその言葉を頭から受け入れる事は難しかった。さすがに、起きたことが大きすぎた。少し刺し所が違えば死んでいたのだ。それを引き起こしたのは、僕。


「うんうん、少しずつでいいよ。私はちゃんと聞いてるからね。それに──……そもそも陽向ひなたちゃんがどう足掻こうが、私を殺すなんて出来ない。そう、のさ」


 エレナは少しずつ近づいてくると、両手を僕の机に付けて顔を近づけ、不敵に、何処か狂気がかったような笑みを浮かべた。自分が死ぬなど、心から考えていなかったのだろう。あれだけの傷だったというのに。

僅かに、ほんの僅かに、妹に感じていたものと同じような冷気が背中を撫でる。

 こくり、と自然と喉が鳴った。

 エレナの視線は僕の喉仏に向かう。じっと見つめ、ほんの僅かに首を傾げる


「……緊張、かな? そう、思いたいけどね」


 視線が戻る。僕の中を見透かそうと、瞬き一つせずに僕の瞳を見つめ続ける。

 数秒してからエレナは僕から顔を離した。さらりと金の糸が揺れて、彼女らしい爽やかさを持った甘い香が僕の鼻腔を擽る。


「あ、あの……」


「御託は結構」


 言葉を発そうとして、その瞬間に満面の笑みと共にばっさりと切り落とされた。


「さぁ、今日の放課後は何処に行こうか?久々に喫茶店に行くかい?まだ刺激の強いものは禁止されているから、私は水だけどね」


 そして、当たり前のように、何も無かったかのように、数ヶ月前の続きが再開されようとしていた。あの時と変わらない姿で、声で、表情で、同意を求めるかのように彼女の右手が僕に伸びた。


「あっ……」


「君を癒せるのは私だけだと、そう言っただろう?蓮」


 手を伸ばすかどうか、伸ばしていいのかどうか、それを考えるよりも先に手を取られた。かつての言葉は、あの時よりも更に傷ついた僕の心に響いた。

もう完全に固まってしまったと思っていた心が、ほんの少しだけ動くのを感じた。


 しかし、罪悪感は、無くならない。僕と関わってしまったが故に、彼女は傷ついてしまったのだから。それに再び関わりを持つことは、もう一人大切な、たった一人の家族である妹の想いを裏切ることになるのでは無いかと。妹は今も一人、一人きりで苦しんでいるはずだ。何も考えずに動けない僕と違って、妹は妹なりに考えて動いた。


 ただ、その思考が、結果が。

 何処かで何かが。

 すれ違ってしまっただけ。


 僕はエレナに握られた手を、握り返すことが出来ずに下唇を噛む。この手を握り返すことも、かといって振り払うこともできない、それが僕と言う存在を表していた。

 曖昧なまま揺れ動く存在。それが僕。自分では結論を出せずにただ揺られるだけ。


 その僕がエレ──……いや、とまた関わっていいのだろうか。


「ふぅむ、まだ早いか。……ま、大丈夫だよ、待ってるから。少し、距離を取って見守るよ。勿論、静かにするつもりはないけどね?」


 もう片方の手を顎に当てて可愛らしく小首を傾げた東雲さんは僕から手を離す。それが名残惜しくて目で追ってしまうと、その先には待ち構えていたかのように東雲さんの顔があった。僕を諭すような声と、柔らかな微笑み。

 その微笑みを僅かに鋭くして口元に弧を描くと、そこに立てた人差し指を当てて艶やかさの混じった声とともにウインクを飛ばす。

 漫画のような仕草も、東雲さんにとっては見蕩れるほどの美しさと可愛らしさがあった。

けれど、僕は目を逸らす。また同じ過ちを繰り返してはいけないから。


 始業の、チャイムが鳴る。

 東雲さんはそのまま上機嫌そうに振り向くと、病み上がりとは思えない軽やかなステップで自席へと向かっていく。

 クラスメイトは、そんな二人の様子を外野から声も出せずに眺めていることしかできなかった。


「そうそう、蓮に手を出すやつは許さないから。よ」


 席に座る前にくるりと振り返り、周囲のクラスメイトを見回し笑顔のままで言い放つ。殺されかけた少女の言葉だからだろうか、その言葉は妙な重さを持っている。


 ──本当に、彼女は数ヶ月前と何一つ変わっていないのだろうか。


 僕の背中を僅かな冷気が、また撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る