第9話 Hの話-4

「もしかしたらさ。こんなことしてる間に、お兄さんにまた悪い虫が付いちゃうかもね」


 白衣の女は、くつくつと笑う。とんでもなく、悪趣味な言葉だ。

 私を治療するというが、本当にそのつもりがあるのだろうか。私を玩具として遊んでいるように見える。そもそも、私は病気ではないのだから、治療など必要としていない。


「早く兄さんの所へ戻してください」


「いつまで経っても平行線だねえ。色々話してくれなくちゃ、私も仕事にならないんだよ」


 言葉とは裏腹に全く困った様子は見られず、にやにやとしながらデスクに頬杖を付いてこちらを見ている。

 不意に引き出しを開けたかと思えば、徐に加熱式タバコを取り出して吸い始めた。

 深く吸い込み、真上を向いて色の薄い煙を吐き出す。


「此処は禁煙のはずですが」


「いやぁ、肩身が狭いよね。だから私も臭いの付きにくいこっちを吸ってるのさ。普段は紙巻だけどね」


 私が冷たい声で非難しても、からからと笑うばかりで全く意に介する様子は無い。


 鼻をつく独特の香りに、兄のものである体に余計な異物が入るのを感じて嫌悪を覚える。

 キッと強く睨んでも、愉しそうにこちらを見つめるばかりでやめる様子など一切見せない。


「ま、煙草くらい嗜まないとやってられない仕事なのさ。特に君みたいな面倒な子が相手だとね」


「私は面倒じゃありません。ただ兄さんが好きなだけです」


「ふははっ! ただ好きなだけで、心神喪失した実兄に性的暴行を与えるかい? くくっ……、冗談はよしてくれよ」


 冗句を言ったつもりはないのだが、女は心底愉しそうに腹を抱えて笑っている。


「……で、何故そんな回りくどいことを? 君の力なら例え男性相手でも強引にヤれるだろう?」


「前々から決めてました。まずは寝ている兄さんに悪戯をしようと。知らないうちに全てが失われてて、もう引き返せないところまで来てから真実を伝えるって最高じゃないですか」


 積み重ねてきた映像を見せつけた、あの時の兄さんの表情。

 思い出す度に甘美な痺れが広がって、体の奥底からじわりと液が滲んでいく。


「そりゃ、結構なご趣味なことで。……それで? その方法は正しかったのかい?」


「正しかった。兄さんは私から離れられなくなった。何をしても兄さんは私に縋るしかなくなった。誘ってるかのような泣き顔も何度も見た」


「……じゃあ、なんで、君の言葉を借りれば『泥棒猫』に奪われたんだい? 君は何か、間違っていたのではないかい?」


 そんなことはない。

 そんなことはない。

 そんなことはない。

 そんなことはない。

 そんなことはない。


 私が兄さんを欲するように、兄さんもまた私を欲していたはずだ。

 つい感情的になってしまうことはあっても、兄さんは黙ってそれを受け入れてくれた。怒ることなんてなかった。


 優しい兄さん。

 どんな時だって傍にいてくれる兄さん。

 兄さんにとっての私は、かけがえの無い存在だ。

 だって、唯一の家族なのだから。

 誰も、血の繋がりを断てることなんて出来はしない。


 私が兄さんの妹として生まれたのは必然だった。

 兄さんの妹が私であることは必然だった。


 愛し合う二人を、どうして女どもは邪魔をするのだろう。私と兄さんが結ばれることは、最早運命だというのに。


「……お前がいなくなればいいんだ。と同じように」


 低い声で、小さく呟く。

 けれど、そんなこと、無理なことは分かっている。 前のように衝動的な行動は取れない。

 そうしたら益々兄さんと会えなくなってしまう。


 でも、他者を嘲け笑うこの女に協力することなど有り得なかった。


 パイプ椅子の背に体重を掛ける。安物のそれはギシリと軋む音を立てた。


 女が、まだ何か言っているような気がした。 どうでも良かった。


 早く兄さんに会いたい。

 会って、もう一度やり直したい。

 二人で幸せな家庭を築きたい。


 どうして、こんな簡単な願いが聞き届けられないのだろう。 あの流れるような金髪が、脳裏を過ぎる。


 ──だから、こんな理不尽な世界が大嫌いなのだ。

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