最後のいいわけ/旅立ちの日に(KAC20237参加作品)

小椋夏己

最後のいいわけ

「今日のワイシャツ、胸のところに少しシワがあったぞ」

「すみません、今度から気をつけます」

「まったく、何度言ったら分かるんだ、僕の仕事は身だしなみも大事なんだと。相手にきっちりした印象を与えられず、あいつはあんなシワのあるシャツを着ているんだと思われたら負けだ、ちゃんと覚えておけ」

「はい、ごめんなさい」


「おい、今日の弁当はなんだ」

「何かお気に召さないことがありましたか?」

「ああ、なんだあの玉子焼きの色、焦げがあったぞ」

「あの、少し焦げ目があった方がおいしいのではと──」

「いいわけはいい。卵焼きは曇りがない黄色一色で、焦げ目なんぞいらん」

「はい、ごめんなさい」


「ハンカチとティッシュ」

「はい」

「それぐらい言われなくても準備しとけよ、これから僕が出勤するの分かってるだろうが」

「あの、でも健志がちょっとおもらししちゃってその片付けを──」

「いいわけはいい。その前に準備しておけば問題なかっただろうが」

「はい、ごめんなさい」


 夫はこうしてなんでも自分の意見が一番に通らないと気が済まない。少しでも思っていることから外れるとガミガミと文句を言い、少しでもいいわけをすると「いいわけはいい」と私の言葉を遮って謝らせる。


 こんな生活をもう5年以上続けている。

 もういやだ、そう思うけど、夫は表面だけはいいので別れたいと言っても私が悪いようにしかならないだろう。それに一人で息子を育てていく自信もない。それが分かっているので夫も態度を改めるどころか、どんどんエスカレートしていっているのだ。分かっている。


 そんなもやもやした気持ちを抱いて、それでも我慢していたある日の午後、ふと気がつくと屋根、正確にはといの上あたりに野球のボールが引っかかっているのを見つけた。なんだか大きな野球の大会があるせいだろうか、そう言えば子供たちがボール投げをして遊んでいたのを見たことがある。


 私が物干し竿で一生懸命にボールを取ろうとしていたら、夫が近寄ってきて、


「何をしている」


 と厳しく声をかけられ、私は思わずびくりとする。


「あ、あの、ボールが樋に」


 そう答えると目の端にお隣の奥さんの姿が映った。


「あ、こんにちは」

「こんにちは、どうなさったの?」

「ああ、こんにちは、樋にボールが引っかかってるらしいんですよ」


 夫が満面の笑みを浮かべて丁寧にお隣の奥さんに答えた。


「まあ、本当」

「それで妻がこんなことをしているものでね、危ないのでやめさせようとしてたんです」

「まあ、お優しいご主人ね」


 さっきの強い調子をごまかすためにそう言ったのだろう。


「危ないからどいていなさい。では」


 夫がにこやかに頭を下げると、奥さんも頭を下げて自分の家に入っていった。


「早く踏み台持って来い、本当に気が利かないな!」

「あ、はい、ごめんなさい」


 私は急いで物置きに走り、踏み台ではなく脚立を持って戻ってきた。


「脚立か」

「踏み台では無理じゃないかと」

「やってみないと分からないだろうが」

「ごめんなさい」


 もしも踏み台を持ってきていたら、届くはずがないと脚立を取りに走らせていたのは分かっているが、大人しく謝っておく。


「しっかり押さえておけよ」

「は、はい」


 夫はそう言いながらも脚立に納得したようだ。言われて私はしっかりと脚立の足元を押さえる。


 夫はやはり機嫌悪そうに脚立に乗り、手を伸ばして樋の上に引っかかっているボールに手を伸ばした。そして……


「うわあっ!」


 ボールを掴んだまま、脚立の上から落下して、ポーチの三和土たたきに体を強く打ち付けた!


「きゃあっ!」


 一度家の中に入った隣の奥さんが、私の悲鳴を聞きつけて飛び出してきて、固まったまま立ち尽くす私に代わって救急車を呼んでくれた。


 夫は病院に運び込まれると緊急手術を受けることになった。


「話を伺うと脚立の上から落ちて硬いポーチに頭を打ち付けられているようです。頭蓋内出血と、それから他にもあちこちの骨も折れています。危険な状態です」

「お願いします!」


 私は深々と頭を下げて夫を手術室に送り出した。


 数時間後、一応手術は成功したが、


「まだまだ危険な状態には変わりありません」


 そう告げられた。


 医師の説明によるとこのまま意識が戻らない可能性も高く、戻ってももう元のような生活は無理だろうとのことだった。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ


 機械が奏でる安定した音とは反対に、夫の容態は不安定だ。

 呼吸も機械で制御されている。

 心臓の音はとりあえず定期的に動いているみたい。


 薄暗く静かな病室、動かない夫とそれをじっと見つめる私。


「あなた」


 話しかけるが反応はない。


「あなた」


 もう一度声をかけるがやはり反応はない。


「ごめんなさいね」


 私はいつものように素直に謝る。


「あの脚立、壊れているって私知ってたの」


 私は動かない夫の手をしっかり握りしめた。


「あんな場所であの脚立に乗ったら、こんなことになるんじゃないかなと思ったの。だから物干し竿でボールを取ろうとしてたんだけど、もしもそう言ったら、きっといつものように叱られると思って言わなかった、ごめんなさいね。大丈夫、後のことは心配しないで、ちゃんと保険に入っているから」


 初めて夫が私のいいわけを最後まで聞いてくれた気がした。

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