第3話

十年前、たった一人の友と呼べた男と死別し、その男のたった一人の肉親であるジャンヌを託され、リュフェスは必死にジャンヌを育ててきた。長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。


 幼い頃、お兄ちゃんは、と目を潤ませながら不安げに立ち尽くしていた儚げな美少女はいまや立派に育ったと思う。色々な意味で。

 元気に育ってくれたという意味では、リュフェスとしてはよかったと思っている。反抗期というやつは、誰にでもあるらしいし――。


 うーん、とリュフェスは頬をかいた。


「もしかして怖くなったとかか? それなら、行かなくてもい――」

「ば、ばか!! そんなわけないじゃん!!」


 ガタッ、と椅子を倒しながらジャンヌは立ち上がり、テーブルに両手をついた。

 その勢いに押されつつ、リュフェスは首を傾げた。


「無理しなくていいぞ」

「だ、だからそういうんじゃないってば!! わ、私は、あの《紅刃》のジャックの妹なんだから!! 怖くなんてない!! そ、それに……」


 ジャンヌはますます頬を赤くしていう。最後のほうはごにょごにょと消え入りそうな声になり、リュフェスには聞き取れなかった。


(強がりなのか、本心なのか、わからんなあ……)


 リュフェスは内心でうなった。

 年頃の娘というやつは難しい。


 ジャンヌは今年で一六になる。一二歳ごろからいわゆる反抗期に突入したのか、しばしばリュフェスの言うことを聞かなくなった。

 自分も剣士になる、探索者になるなどと言いだし、リュフェスの反対にもかかわらず剣士を目指し始めたのもちょうど反抗期がはじまってからである。


 幸か不幸か、早世の天才と呼ばれた兄ジャックの才能を、ジャンヌもまた受け継いでいるらしかった。ジャンヌはめきめきと力をつけ、剣の才能に劣らぬくらい花開いた美貌ともあって、ついには王都からお呼びがかかった。

 それで実力をはかったところ、百年に一度の才能とか、剣聖たる器などと絶賛された。


(……クリーズの第一階層)


 改めてそう考えると、リュフェスはやはり顔をしかめてしまう。

 各地にある迷宮の中でも、ずば抜けた探索難度を誇る《クリーズ迷宮》。

 ジャンヌのはじめての実戦として選ばれた場所がそこだった。

 一番浅い第一階層とはいえ、新人が大半のパーティでそこに潜るとは無謀なのではないか。成功すれば莫大な報酬と名誉が約束されるとはいえ――。


 やっぱりやめてもいいんだぞ、という言葉を、リュフェスは寸前で飲み込んだ。

 ジャンヌが本気で努力し、鍛錬してきたことは誰より知っている。自分の探索者としての経験から得た知識や経験はすべてたたきこんだ。


 それにたぶん、純粋な前衛としての力は、自分などよりジャンヌのほうが遥かに上だ。


「……まあ、ジャンヌの好きにすればいいさ。必要なものがあったら何でも持っていっていいぞ」

「……う、うん」


 あくまで意思を尊重するという言い方をすると、ジャンヌも少し勢いをひそめた。元は、勝ち気であったり負けん気が強いという性格ではないのだ。


 それから、沈黙が落ちた。

 リュフェスの目に、ジャンヌは何かを悩んでいるようにも見えたが、それが何なのかはわからなかった。




 じゃあおやすみと言ってテーブルから立ち上がり、リュフェスは自分の部屋に戻って粗末な寝台に転がった。

 部屋にはしんとした夜の闇が満ちていている。明日はジャンヌがついにひとり立ちということを考えると、余計に感慨深いものがあった。


(……ジャック。俺、うまくやれたかな)


 ちゃんと、ジャンヌを育てられたのだろうか。

 探索者のくせに、絵物語に出てくるような端整な顔立ちをした男のことを思い出す。


『俺は、お前に可能性を感じてるんだ』


 テオたちにあいつは要らないと言われるたび、リュフェスが鬱屈した思いを抱えるたび、ジャックはそう言ってリュフェスを励ました。


 探索者には、剣や武器の腕に覚えがあるもの、超常の力を操る魔術使い、並外れた弓の腕を持つ者などが多い。その中で、目の前の獣を使役するという《獣使い》は、きわめて価値が低かった。


 武器と己の身一つで戦闘を切り抜けられる剣士達などに対して、野生の獣もしくは迷宮中の怪物を屈服させ、使役することで戦闘行動が可能になるなどというのはあまりにも時間がかかりすぎ、効率が悪い。


 くわえて、獣を飼い慣らせるかどうかは《獣使い》本人の実力により、功を焦った《獣使い》が身の丈にあわぬ怪物を飼い慣らそうとして逆に怪物の餌になった、などという話も一度や二度ではない。

 獣を都度飼い慣らさない限り、《獣使い》は丸腰の素人も同然なのだ。


 しかも一度飼い慣らしても、一定期間で獣の服従は解ける。格の高い獣ほどその期間は短い。暴れる獣を力で抑えつけて服従させつづけるのは《獣使い》そのものが激しく消耗するからだ。


 剣士で言えば、毎回武器を捨て、毎回武器を買わなければならないということに近い。相性がよほどいいか、能力の高くない従順な獣であれば、かなりの長期間使役できる。だがそういった《獣使い》は、羊飼いと変わらないとして揶揄される。


 ――そんな《獣使い》の一人であるリュフェスのどこに、ジャックは可能性を見出したというのだろう。


『お前は天才だ』


 甘ったるい顔を台無しにするようにからりと笑って、ジャックはいつもそう言った。

 あまりにも何度も言われるから、はじめは鬱陶しいだけだったのに、次第にその気になってしまった。


《獣使い》は弱い。その概念をひっくり返してやろうと思い、密かに研究した。

 結局、この十年でもそれだけはやめられなかった。


(……あいつが、あともう少し生きてたらな)


 そんなことを思う。もう少し――もう少し生きていてくれれば、密かな研究を形にして見せてやることができた。俺の言った通りだろ、とジャックに得意げな顔をさせてやることもできたかもしれない。


(……やめやめ。考えたって意味ない)


 リュフェスはごろりと寝返りを打った。あの日、ジャンヌの手を引いて歩き出したときに、《獣使い》であり探索者であるリュフェスは死んだのだ。

 目を閉じて眠りが来るのを待っていると、ふいにかすかな呼吸と衣擦れの音がした。


 それから――


「!?」


 柔らかく温かいものに背中から抱きつかれて、リュフェスはぎょっとする。

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