第2話
酒場から追い出されるようにして、リュフェスは文字通り昼時の大通りへ転がり出た。矢のかすった傷の他に、打撲や擦過傷で全身が軋む。
(くそ……!!)
痛みで吐きそうになりながらも身を起こす。迷宮探索者の集まる酒場は、血気盛んな連中が多い。ルーフォの横暴は周りにすぐ伝染して乱闘を呼び起こし、リュフェスをたちまち飲み込んだ。
よろめき、足を引きずりながら一歩踏み出したとき、ふいにごく小さな、リュフェス以外には聞き取れないであろう獣の足音がした。
リュフェスがはっとしたときには、ぺろんと頬を舐められる。
「ちょ、待て、痛いって」
顔中をなめ回す勢いの友人を、押し返す。
リュフェスより一回りも大きい白狼だったが、尻尾を振りながら飛びかかってこないだけの理性は残っているらしかった。
ざらざら舌になめ回されるのは正直痛かったが、狼が純粋に心配してくれているのは明らかだった。
「なあ、ジャンヌは――」
自分が酒場から出てくるまで、この白狼には護衛を命じていたはずだった。ふわふわの毛皮に手を突っ込み、無理矢理押し退ける。
と、不安げにこちらを見つめる小さな少女の姿があった。
「お、お兄ちゃ……」
高く、震える声がした。
柔らかそうな金色の巻き毛に、白い肌、エメラルドのような目をした少女が怯えと不安のまじった眼差しをリュフェスに向けていた。
痛みのためだけではなく、リュフェスは顔を歪めた。
(……あいつに似てる)
いやになるほど、少女――ジャンヌは兄に似ていた。確か兄とは十歳離れているといっていたから、ジャンヌは今年で六歳前後ということだろう。
たった一人の兄に育てられてきたにしては身なりが整っているのは、兄の稼ぎがよかった証だ。
リュフェスは切れた口の端を手の甲で拭い、ぎこちなく言葉をかけた。
「その――大丈夫だ。ちょっと転んじゃってさ」
「転ん……だの? 痛い?」
「全然。痛くない」
少女をせめて少しでも笑わせようと、リュフェスは精一杯ぎこちなく笑った。切れた口の端が余計に痛んだが、堪える。
「あの、お兄ちゃん……お兄ちゃんは、どこ?」
ジャンヌは緑色の目を潤ませる。
――実兄を探しているのだ、とわかった。
リュフェスは言葉に詰まった。殴られた腹が、頭がずきずきと痛い。
まだ幼いこの少女に、たった一人の肉親の死をどう伝えればいいのかわからない。
「あいつは……ジャックは、その、遠いとこに行った。しばらく帰って来ない」
だから、とリュフェスは必死に言葉を選んだ。
『ジャンヌを……頼む、リュー。お前にしか――』
死の間際、血塗れになったジャックはリュフェスにそう言ったのだ。ほとんど懇願といってもいいような響きだった。
ジャンヌの目に、見る見る涙の雫が盛り上がる。
リュフェスは目を逸らした。他にかける言葉も見つからず、短く言った。
「……行こう」
立ちすくむ少女の手を、ぎこちなく握った。少女はうつむき、肩を震わせはじめる。
ジャンヌの手を握り、たどたどしく歩き始めたリュフェスの後ろを、すぐに白狼がついてくる。
「どこ、行くの」
嗚咽し、何度も立ち止まろうとしながらジャンヌが言う。
リュフェスは答えない。答えられなかった。
――どこへ行くのか。これからどうするのか。
(そんなの、俺のほうが聞きたい)
新進気鋭のパーティ《鋼の刃》から抜け、探索者の中でも飛び抜けて需要の低い《
リュフェスの手の中の小さな手は温かく、それでいてひどく重かった。これまで一度も背負ったことのない、守るべきものの重みだった。
◆
「ちょっと、リュー!!」
バン、と音を立てて家の扉が開き、リュフェスは危うく、ぼんやり飲んでいた薬草茶を噴き出しかけた。むせながらもなんとか堪え、驚いて声の主を見る。
この質素な小屋には場違いなほど、華やかな金髪と輝く緑色の目、薔薇色の頬をした美少女が立っていた。ドレスでも着せれば、どこかの姫君かと見紛うほどの美貌だ。
だが実際に少女が着ているのは動きやすい長袖のシャツに短めのスカート、ブーツだった。
何より腰に佩いた剣が、姫君でもただの村娘でもないことを主張している。
「お、お前なあ……! 明日出陣だろ!?」
「そうだよ!?」
「そうだよじゃない! 何やってんだよ! こんな時間に出歩くな! 宿営地に戻らないとまずいだろ!」
「自分の寝床に戻ってきただけだもん!!」
質素なテーブルを挟み、リュフェスの向かいに、どかりと少女――ジャンヌが腰を下ろした。
リュフェスの足元で、小さな白い犬――元は大きな白狼だったそれが、一度はピンと耳をたてて顔を上げたものの、またうずくまって寝始めた。またいつものあれかと呆れたように。
「……戻ってきたってなんだよ。忘れ物か?」
「別に!」
ジャンヌはぷいっと顔を逸らしてしまう。
リュフェスは困惑した。そしてなんともいえない寂しさを味わう。
(反抗期長えなー……)
明日はいよいよ、ジャンヌの初陣、この村から出て行く日である。今日ぐらいはなんかもうちょっとこう、しんみりというか心温まる空気が流れてもよかったのではないかと思う。
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