鍋の悪魔

凪司工房

 激しい雪が薄い窓ガラスを叩いていた。狭い部屋だ。壁板も天井も薄く、殴れば穴の一つも簡単に空いてしまう。その六畳間の一室の半分程度が白と紫の混ざり合った煙により占拠されていた。

 煙の供給源は鍋だ。

 ストーブのないこの部屋で冬場をしのぐにはうってつけの料理で、何を入れてもそう不味くなることはない。白菜だの豆腐だのキノコに白滝、ジャガ芋だって受け入れる。肉か魚でもあれば上出来だ。

 出汁は昆布でもかつお節でも椎茸の戻し汁でも何でもいい。面倒なら最近じゃ鍋の素が充分美味しいから、それで事足りる。

 顎髭あごひげたくましい大柄な男は胡座あぐらをかいて小さな炬燵こたつで、その鍋を前にしていた。

 よく煮えてる。部屋に湯気が充満する程度には煮込んでいる。

 さて具材は何だろうか。浮かんでいるのは何かをぶつ切りにしたような、練り物か、それともカニか、海老か。いや、目玉だ。ぎょろりとそれが動き、そのすぐ近くに分厚いタラコを並べたような唇も浮かんだ。それがねっちょりと開く。


「なあ。お願いだ。助けてくれよ。何もこんな雑魚悪魔、食わなくたっていいだろう?」


 男は割り箸でぐるぐると中身をかき回すと、引っかかったモズクのような細いその塊を引き上げ、口に運ぶ。ずるり、と音を立て、汁が飛び散ったが、男に気にする様子はない。


「悪魔なんざ食べたってお腹壊すし、最悪あの世いきだぜ?」


 うるせえな――と思いながら箸でその目玉を突き刺すと、肉団子よろしく頬張り、軟骨のような食感に満足しつつ飲み込んだ。タラコは一瞬震えたが――「お、お願いだ。まだ死にたくないんだ」と情けない声を上げる。しかし男の箸は無情にもそのタラコも掴んで口に入れた。

 口の奥で小さな断末魔が響いたが、それだけだ。

 

 男の名は鍋園悪太郎なべぞのあくたろう。何の因果か退魔師なる仕事をしている。今は捕まえた悪魔を鍋にして食っているところだった。

 悪魔たちはそれぞれ命乞いをしたり、何か取引を持ちかけたり、時には怒り散らして部屋を爆発させたりと、死に際まで品がない。まあ悪魔に品を求めるのも間違っているのだろうが、何かある度に引っ越す方の身にもなってもらいたい。いや、そんなことを考えるなら悪魔なんて呼ばないだろう。

 悪太郎は口元に苦笑を浮かべ、ぐつぐつと煮える鍋に箸を突っ込む。


「そんなに食いたいならもっと旨いものを食わせてやろう。銀座の寿司屋に知り合いが取り憑いてるんだ。それとも肉がいいか? よく肉汁が出る脂身の旨いやつか、それとも年齢的にそろそろ赤身がいいか? いや、お前は意外と甘いものが好きかもしれんな。チョコレートのたっぷりと掛かった何層にも分かれたケーキか、ベリーが何種類も使われ、細かく砕いたクランチにムースにゼリーにスポンジと幾重にも重ねたパフェがいいか? どれでも好きなものを食わせてやるぞ。なあ?」


 悪魔はそれぞれ悪太郎の心を隙間を探っている。甘言は奴らの最大の武器だ。力ではない。悪魔というのは人間の心を操り、それを食らうのだ。だから悪魔と対峙する時は如何に平常心を保ち、心を揺さぶられないかというのが肝心だった。


「そうだ。女か? お前の疲れた心を癒やし、その体を優しく包み込んでくれる胸の大きな甘い匂いのする女はどうだ?」


 確かに悪太郎には女気というものはない。部屋は散らかっているし、ボロボロになったコートもハンガーではなく布団の上に投げ出されている。奥を除けばキッチンには食器やコップが水桶に転がっているし、ガスコンロの周囲は黒く汚れている。

 けれど悪太郎は気にせず、爪の伸びた指を箸で摘む。やや骨ばったそれは心地よい音を立てて噛み砕かれた。


「食い物でも女でもないなら、名誉か? 誰からも尊敬され、感謝される、英雄にでもなりたいか?」


 指の次は足首だ。やや大きな豚足にも思えたが、気にせずにかぶりつく。その大半は骨だった。けれど悪太郎の食べるのを止めるほどの硬さはない。彼が平気でそれを食らうと、悪魔の声はとても小さな悲鳴となった。

 あれこれと喋るだけならまだいい。最後の力を振り絞って鍋から出ようと藻掻もがく蜘蛛のようなそれは熱い汁を周囲に撒き散らす。悪太郎の顔にこれでもかとぶっかかるが、彼は痛覚がないのだろうか。箸ではなく、鷲掴みでその蜘蛛状のものを掴み、半分に割ってから、まるで甲殻類の中身をしゃぶるように食べた。

 

 そうやって大半を喰らい尽くすと、鍋の底の方で小さな羊にも似た悪魔が、気持ち良さそうに残り湯ならぬ残り汁に浸かっていた。その悪魔は慌てることもなく、命乞いをすることもない。


「何故お前が退魔師になったのか。いや、ならざるを得なかったのか」


 まるでこれから自分が食われるなんてこと考えていないかのように、冷静な声でそう語り始めた。


「年の瀬の寒い中、あの日も吹雪いていたな。まだ言葉も知らず、目もよく見えないお前は施設の前に捨て置かれた。生まれた時から誰にも愛されず、施設でも何かと暴力と暴言に晒されながら、他人を、いや、世界そのものを憎みながら育った」


 その悪魔の語るのは確かに悪太郎の半生だった。


「物心ついた頃には施設を追い出され、残飯を漁り、人のおこぼれにありつき、時には犯罪にも手を染めた。そんなお前は運悪く、いや、ある意味で運良く、食べてしまったんだ――悪魔を」


 既に人間を辞めていたのかも知れない。何を腹にいれても空腹は満たされず、かといって体を壊すようなことはなかった。


「それが鍋の悪魔だ。お前は退魔師として悪魔を退治しながらようやく普通の人間の暮らしを手に入れたんだ。けれど、本当に欲しいものは何一つ、その手にはない。そうだろう、悪太郎」


 不意に羊の悪魔の顔が、人間の女のそれに変化する。髪が伸び、皺が多い、化粧の濃い女だ。


「お前のお母さんだよ、悪太郎。よく、ここまで大きくなったね。あの時はすまなかった。わたしにはとても赤ん坊を育てるだけの余裕はなかったんだ」


 瞳は潤み、顔の下からは人間のくたびれた女の腕が伸びてくる。赤い爪をした手だ。それが悪太郎の頬に当てられる。


「それでもね、悪太郎。わたしは今でもお前のことを――愛しているよ」


 だが悪太郎はその手を掴むと、鍋から引きずり出して思い切り顔面に歯を立てる。緑色の血が飛び散り、悪魔は汚れた声を上げたが気にせず、二口、三口と噛みちぎり、自分が緑に染まっていく。悪魔を食べながら悪太郎は笑っていた。最後の一切れまでをすっかり飲み込むと、彼はふくれたお腹を擦りながら天井を見上げ、こう漏らした。


「あの女はそんなこと言わない」


 退魔師になりそれなりの収入を得るようになってから、興信所に自分の親や家族について調べてもらった。母は水商売をしていて、何人もの男に捨てられながらも、泥水を啜るようにして何とか生き抜いた女だったが、子どもを酷く嫌っていた。最後には酒と薬に溺れ、病床で食べられなくなって亡くなったと、調査記録には書かれていた。

 空になった鍋の底、まるで福笑いのパーツのようにでたらめな目と口が現れると、それは声を掛ける。


「兄者、今日はまた随分ずいぶんと食べたな」


 ああ――そう答えたのは悪太郎、ではなく、彼の口から飛び出てきた拳のようなものに口だけが付いた蛇にも似た悪魔だ。


「だが、まだ食い足りねえ。もっと食わせろ、悪太郎」

「お前らはほんとに食い意地が張ってんな。俺は全く食えないんだぜ?」


 そう言って、悪太郎は満たされない自分の空腹をでた。(了)

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