第20話 美海を救う踵落とし
水族館の中で食事を取ったりイルカのショーを見たり、お土産を買ったりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。気付けば夕方になっている。薄暗い空間をでて、出口に向かうとぱらぱらと雨が降っていた。
凛音はカバンから折り畳み傘を取り出して微笑んだ。その左手の人差し指には、シルバーのリングが鈍く輝いている。私はちらりと自分の左手のリングに目を向けた。
未来永劫続く愛の証明なんてありはしないのかもしれない。でもお揃いのペアリングをさすると心が落ち着く。
凛音が折り畳み傘を開きながら、つげる。
「今日のデート、どうでしたか?」
「楽しかったよ」
永遠に続けばいいのにって思うくらい、幸せだった。綺麗な魚とか、ショーとかペンギンとか見たりして、可愛いとか、楽しいとか、嬉しいとか、そんなたくさんの気持ちを大切な人と共有できて。
だから心にぽっかりと穴が開いたようだった。楽しいことが終わってしまった後の喪失感で満ちているのだ。昔、お父さんとお母さんと兄さんと一緒に遊園地に行った帰りみたいな、そんな気分。
地面を叩く雨粒をみつめながら、私はつぶやいた。
「ちょっとだけ寂しいけどね」
「また一緒にデートすればいいだけですよ。それで次のデートが終わったら、またデートをして。そうして私たちは一生、共に幸せに生きるんです」
「……うん」
そうなればいいなって、心から思う。
私は凛音と手を繋いで、たった一つの傘の下、雨の街に歩き出した。
濡れた地面に道路を走る車のライトが反射して、街がいつもよりもまぶしくみえた。雨雲のせいで灰色に満ちている街は、そのにぎやかさに反して孤独の象徴のようではあった。でも凛音と肩が触れ合うたびに温かな気持ちになれた。
凛音はさっきからずっと顔を赤くして、もじもじしている。
「……私たち、帰ったらえっちするんですよね」
「うん。というか、もしかしてずっとえっちのことばっかり考えてたの!? デートの間も?」
「ご、ごめんなさい。私、性欲強いみたいで……」
「いや。……いいんだけど」
好きな人がたくさん私を求めてくれるのは嬉しい。でも性生活のずれで仲たがいするっていうカップルもいるらしいし、ちょっと不安だ。私はこれから先、凛音についていけるのかな……?
そんなことを考えていると、カバンの中のスマホから着信音が聞こえてきた。私に電話をかけてくる人なんて、一人しかない。きっと兄さんだろう。なんの用だろう。そう思ってスマホをみると、そこには「母」と書かれていた。
心臓を鷲掴みにされたように苦しくなる。私は思わず、立ち止まってしまう。
「……電話。でないと」
雨粒がかさを叩いてぱたぱたと音を立てる。
もしも電話に出たら、何を言われるのだろう? これまで無関心だったお母さんが、何で今さら私に? 少なくとも前向きなことを話してくれるとは思えなかった。
「……美海さん。逃げていいんですよ?」
凛音は優しく微笑んでくれる。でも、もしも今逃げたら私はきっと後悔するだろう。過去に囚われて、新しい自分として生きることも出来なくて、未来の凛音を信じることもできなくて。
今日、そのことを深く自覚した。デートなのに不安を切り離せなかった。凛音のおかげで楽しめはしたけれど、でも私自身はずっと凛音に気を使わせてばかりだった。
私は震える指先で、スマホに触れる。そして、電話に出た。
「もしもし?」
お母さんの声だ。小さなころはずっと私を褒めてくれてたお母さんの声。でも大きくなってからはずっと兄さんのことばかり大切にしてたお母さんの声。
「もしもし? 聞こえてるのなら返事をしなさい。そんな当たり前のこともできないの?」
凛音が不安そうな目で私をみてくる。大丈夫だ。大丈夫……。私は深呼吸をしてスマホの画面をみつめる。そして雨粒の音にさえ消されてしまいそうなか細い声で、精一杯の声でつげる。
「……もしもし」
すると母は大きなため息をついた。
「あんたのパートナーの親がうるさいのよ。あんたのことを褒めろ褒めろって。でもなにを褒めろっていうの? お兄ちゃんはあんなにも優れているのに、あんたは全然ダメじゃない。才能もない。そんなクズのどこを褒めろって?」
それを聞いていた凛音は怒りに表情を歪ませている。
私は喉がつっかえたように、呼吸ができなくなっていた。耐えきれなくて、しゃがみ込んでしまう。胸が苦しい。頭が痛い。手から離れて、地面に落ちたスマホの画面にひびが入る。その拍子に、スピーカーに切り替わったみたいで、雨の街に冷たい声が響いていく。
「ま、それでも褒めてあげるわ。でもその代わりにこれからは二度と私たちに関わらないこと。あんたみたいな落伍者、私の娘じゃないわ。ただの恥よ」
涙が溢れ出してきた。嗚咽が止まらない。凛音が私を抱きしめてくれるけれど、私はそれを無意識に振り払っていた。
私は通話を切ろうと、割れたスマホに指を伸ばす。でも壊れてしまったのか、どれだけ触れても通話が切れてくれない。焦りに焦った私は、どうしても声を聴きたくなくて、かがんだまま両耳を塞いだ。
「美海。あなたは生きてて偉いわね。それじゃ、永遠に……」
でもなげやりな声がはっきりと聞こえてくる。
「さよう……」。そこで音声は途切れた。凛音の踵がスマホを粉々に踏み砕いていた。
私は突然のことにきょとんとしてしまう。悲しい気持ちが全て驚きに塗り替えられていく。濡れた地面に散らばる液晶の破片とか、電子基板とか、全てが非現実的だった。
「……凛音?」
傘の下のはずなのに、私の手の甲に水滴が落ちてくる。
「私、信じてたんです。親ってものは、誰だって子供を愛してるものだって」
見上げると、凛音は涙を流していた。でも私の涙は驚きのせいですっかり止まってしまっている。そんな私に、涙がぽろぽろと落ちてくる。
「でも美海さんのお母さんは……」
「大丈夫だよ。私、全然、大丈夫だから」
「……本当ですか?」
「うん。私さ、親がまだ喋ってるスマホに、踵落としなんてできない」
「ご、ごめんなさい。でも我慢できなかったんです。美海さんはずっとご両親のために頑張っていたのに、こんなのってないじゃないですか……」
「謝らないで。これまでただただ泣いてるだけで、苦しんでるだけで、怒りとか向けられなかったから。私には反抗するって気持ちが、なかったんだ」
そんな私の代わりに凛音がお母さんの言葉を踵で踏みつぶしてくれたから、私はきっと心が楽になったのだと思う。スマホの残骸をみていると、なんだか笑えてきた。
「だからありがとう。凛音。私の代わりに怒ってくれて」
涙を拭って凛音に微笑む。凛音は溢れた涙もそのままに、しゃがみ込んだ私の手を取った。スマホの残骸を放置するわけにはいかないから、お土産の袋の中身を移して、そこに残骸を入れてから立ち上がる。
そうして私たちは雨の街を二人で歩いていく。
「意外かもしれませんけど、私はかなり両親に反抗するタイプでした」
「そうなんだ? ずっと仲が良かったのかと」
「仲がいいからこそ、ですよ。反抗しても見捨てられない。そう分かっているから、遠慮なしにぶつかれるんです。私たちもそんな関係になれると良いですね」
「……そうだね」
私たちは折り畳み傘の柄の上で手を重ね合わせた。凛音の人差し指のリングが冷たくて心地いい。ずっとこうしていたい気持ちになっていると、凛音は不安そうにささやいた。
「あの、本当に大丈夫なんですか? ご両親のこと」
凛音の不安も分かる。これまでの私を見ていれば、不安になっても仕方ない。でも本当に、全然大丈夫なのだ。凛音の踵落としが全てを破壊してくれた。
私はそれを証明するために、雨の街中、笑顔で叫ぶ。
「お父さんとお母さんの馬鹿! 今さら謝っても絶対に許してあげない! 私と凛音が誰よりも幸せになるの、黙ってみてればいいんだよ! 二人のバーカ!」
凛音はきょとんとしていたけれど、すぐに安心しきった笑顔になった。
「私、今の美海さんの方が好きです。出会った頃の退廃的な美海さんもいいですけど、やっぱり好きな人には笑っていてほしいですから。ということで、帰ったらいちゃいちゃえっちしましょうね」
「えっちのことばっかり……」
私がジト目でみつめると、凛音は顔を赤くして目をそらした。
「……美海さんだからですよ。私の性欲は確かに強いですけど、美海さんが魅力的だからこんな風になってしまうんです!」
そんなこと言われたら、私まで恥ずかしくなってきてしまう。
本当に凛音にはかなわないなって思った。
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