第16話 マリンスノーみたいな死
お風呂上り、私たちはパジャマに着替えた。テレビでは深海の特集をやっているみたいで、マリンスノーがふわふわと画面の中を漂っている。ビールを片手に凛音に寄りかかりながら、その光景をみつめていた。
私はため息をついてぼそりとつぶやく。
「……明日、行かないとなんだね」
「ご両親と顔をあわせるの、嫌ですか?」
「……うん。面と向かって無関心を突きつけられるのは、やっぱり辛いよ」
凛音は心配そうに私の横顔をみつめてから、また深海を白く漂うマリンスノーに目を向けた。かと思えば突然、子供みたいないたずらっぽい笑顔を浮かべる。
「だったら明日は一緒に深海魚を見に行きませんか? 美海さんはこれまでずっと嫌なことと向き合ってきたんですから、私と一緒に逃げましょうよ」
凛音のお母さんにはもう、実家の住所は伝えてある。だから私がいなくてもナビを使えば道には迷わない。
でも、本当に逃げてもいいのかな。凛音は嫌なことと向き合ってきたって言ってくれるけれど、大学をやめてからの私はずっと逃げていた。自分の人生から、ずっと。
「……本当に、いいのかな」
私は両親から拒絶されることを、未だに恐れている。でもだからこそ、一度はっきりと、徹底的に拒絶されないといけないのだと思う。無関心ではなく拒絶という刃で、断ち切らなければならない。
赤ん坊のへその緒のような執着を。
「いいんです。逃げていいんです」
なのに、凛音は優しく私を抱きしめてくれる。
画面の中ではマリンスノーがゆらゆらと揺れている。生物の死骸によって構成されているという、深海の雪景色だ。
「……分かった。一緒に逃げよっか」
そうつぶやいて、ビールを机に置いてから、凛音の胸に顔をうずめた。凛音は甘える私の頭を優しくなでてくれる。その優しさは甘い毒のように私の体に浸透していった。少し酔っているうえに、ひどく疲れていた私は、重いまぶたのなすがままに、まどろみに飲まれる。
どれだけ時間が経ったのだろう。曖昧な意識の中で、私は目を覚ました。
腿と背中に腕を回されているのを感じる。すぐ近くに凛音の綺麗な顔があった。凛音は私をどこかに運んでいるみたいで、ウェーブのかかった長い髪の毛が揺れている。ぼんやりした意識の私と目が合うと、凛音は微笑んだ。
「……美海さんって体重、軽いですよね。まさかお姫様抱っこできるとは思いませんでした」
そうして凛音は私をベッドの上に寝かせる。
「りおん、ちからもち……」
半分寝ているせいで、夢の中にいるみたいにふわふわする。酔っているせいか、ろれつが上手く回らない。私はうとうとしながら、凛音に微笑んだ。
「……もう。本当に美海さんは。こんな可愛い顔してたらまた襲っちゃいますよ?」
凛音は不安そうな顔をしていた。私はふわふわした気持ちのまま、ほおを緩める。
「りおんになら、いい……」
凛音は目を見開いて、私を見下ろしている。だけどすぐにため息をついて、私の頭を撫でた。
「流石にこの状態の美海さんに手は出せませんよ。おやすみなさい。美海さん」
「……おやすみ。りおん」
私は瞼を落として、また眠りにつく。意識が落ちる寸前、誰かがベッドに入ってくる感覚があった。私はそれに安心しながら、ささやいた。
「……ずっといっしょにいてね。おかあさん」
〇 〇 〇 〇
私の隣ですやすや眠る美海さんは、まるで幼い子供のようだった。
「……お母さん、か」
美海さんはこれまで孤独に戦ってきたのだろう。人なら誰しも思う「愛されたい」という当たり前の感情のために。でも美海さんの両親は、美海さんの頑張りを認めてくれなかった。
美海さんを、愛してくれなかった。
それが呪縛となって美海さんは今も苦しんでいる。
美海さんが望んでいるのは、決して消えない無償の愛なのだろう。私のお父さんとお母さんが向けてくれる、決して見捨てられないと確信できるような、地球みたいに大きな愛。
私は大切に育ててもらったから、例えどんな状況になっても両親に見捨てられることはないと確信している。もしも私が命の危機に瀕したとすれば、二人は間違いなく自分を犠牲にしてでも私を救い出してくれるだろう。
でも美海さんはそんな愛を知らない。
私はすやすやと寝息を立てる美海さんの頭に手を伸ばした。そして優しく、優しくなでてあげる。
美海さんが幸せを恐れる気持ちも分かる。美海さんは絶対的なものに、これまでの人生で触れてきたことがないのだ。だから失うことばかり考えてしまう。
だったら私がやるべきことは一つ。
美海さんが私を信じてくれるまで愛をぶつける。
ただ、それだけだ。
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