第12話 汗臭くていい匂い

 アパートに着くと、凛音はすぐにカレー作りに取り掛かった。その隣で、私はお米を研ぐ。スーパーで買った精米済みの米だ。スマホで調べた情報によると、水が完全に透明になるまで研ぐのはだめらしい。私はうっすら白くなった程度で研ぐのをやめた。


 それから炊飯器の釜に米を移して、目盛まで水を加えた。そしてスイッチを押す。


 意外と手際がいいことに驚いたのか、凛音は意外そうにしている。


「流石にこれくらいはできるよ」


 スマホで調べたやり方をそのまま真似しているだけではあるけど、お米を炊くのは初めてではある。もしかすると私には米洗いの才能があるのかもしれない。


「ありがとうございます。美海さん」


 凛音はニンジンを切る手を止めて、微笑む。そういえば、包丁とかも買い換えないとだ。大学に入って引っ越ししてきたとき、念のために用意しておいた調理器具は使ってもいないのに柄の部分がはげていたり、どこか年季を感じさせる見た目になっている。


 凛音は戸棚をぱかぱかと開いて、何かを探しているようだった。


「あの、もしかして圧力鍋ってないですか?」


「ないよ。ごめんね」


「そうですか。分かりました。少し時間がかかってしまいますが、普通の鍋でやりましょうか」


 そう告げて、凛音はコンロの火をつけた。肉をフライパンの上で炒めている。


「圧力鍋を使うのならこの工程は必要ないのですが、普通の鍋でするのならこうしたほうがおいしくなるんですよ」


「なるほど。なかなか奥深いんだね。料理って。残りの食材は私に切らせてもらえる? 包丁の使い方とかにも慣れておきたいんだ」


「……大丈夫ですか?」


 凛音は眉をひそめている。正直、私も不安だ。刃物なんて、はさみくらいしか握ったことがない。でもまぁ大丈夫だと思う。猫の手にして切ればいいんでしょ?


「任せて」


 私は包丁を手にして、まな板に向き合う。たどたどしく玉ねぎを切っていると、前情報で知っていた通り、目が染みてきた。涙で歪んだ視界では、なおさら包丁使いが危なっかしくなってしまう。


 すると突然、凛音が後ろから抱きしめるような形で、私の手に手を重ねてくる。


「見てられません。どれだけ不器用なんですか。美海さんは」


「ごめん。こういうのやったことなくて」


 凛音の手に誘導されるようにして、包丁が玉ねぎを刻む。私の手を経由しているにもかかわらず、凄い手際だった。慣れていかないとなぁ、と心から思う。私は凛音がいつかもつだろう夢のために、凛音を支えられるようにならないといけない。


「私、頑張るから、これからも教えてくれる?」


「当たり前ですよ。でも私が意識を向けてる時にやってくださいね。不安で不安で仕方ないですから。美海さんが傷つくところなんて、見たくないです」


「……うん。ありがとう」


 ちらりとみると、肩に顎をのせた凛音は頬を赤らめていた。ぴったりとくっついた体から伝わってくる熱も、心なしか熱い気がする。どくんどくんと鼓動まで聞こえて来る。


 緊張してるのかな。


「好き、だよ」


 ささやくと、凛音は体を震わせていた。包丁を置いて、私から体を離したかと思うと、真っ赤な顔で詰め寄ってくる。


「……あ、危ないじゃないですか。そんな、急に愛をささやかないでくださいよ!」


 凛音は本当に私のことが好きなんだなと思う。私なんかを一途に思ってくれる人が現れる日は、来ないと思っていた。この心の奥底からあふれ出てくる温かい感情が「幸せ」なのだろうなと思う。


「可愛いね。凛音は」


「……美海さんだって可愛いです」


 顔を赤らめて目をそらしながらも、可愛いって言ってくれる凛音が可愛くて。私は吸い寄せられるように、凛音の頬にキスをしていた。その瞬間、凛音はとろんとした表情になるけれど、すぐに「カレー作らないとなので」と真剣なかっこいい表情になって、カレー作りに戻っていく。


 残念ながら、今の私では凛音の邪魔にしかならないみたいだ。仕方なく、私は後ろから凛音の調理を眺める。ずっと一人で生きてきたようなものだから、ウェーブのかかった長髪が揺れるたび、心がくすぐられるようだった。


 みつめていると、あっという間に後は煮込むだけになった。しばらく煮込んでいると、いい匂いがしてくる。兄の好物だからカレーは嫌いだったけれど、凛音が作ったものだと思うと、好きになれそうな気がしてきた。


 匂いのせいで空腹が刺激されて、お腹が唸り声をあげる。凛音は振り返って、微笑ましそうな笑顔を浮かべた。


「もうすぐできますからね」


 ふと、その姿が私が幼いころのお母さんに重なった。


 小さなころは、私もカレーが好きだった。兄のことも好きだった。お父さんもお母さんも。世界は好きなもので満ちていた。


「……美海さん?」


「昔のことを思い出してたんだ。思い出したくなんてないんだけどね」


 もしも私の頭の中が幸せだらけなら、嫌なことも思い出さないのだろう。世の中には兄みたいな幸せしか知らない人もいる。それを羨む気持ちもある。


 でも私が不幸だったから、凛音は私を好きになってくれたのだ。


 私は凛音に微笑む。


 凛音はうつむいて、私の手を両手で握った。


「私も生贄病のせいで、苦しんできました。いつ発作が起きるかもわからないし、適合者がみつかる可能性も低くて。自分を憎んだこともありましたよ。本当のことを言えば、両親すら恨んでしまうこともありました」


 まさか凛音があの理想的な両親を憎んでいるなんて、想像もしなくて驚いてしまう。そんな私を凛音は上目遣いでみつめてきた。


「淀んだ泥の中で生きるような毎日でした。先もみえず、生きれば生きるほど不安に侵食されて、消えたくなってしまう。美海さん。分かってくれましたか? 私が美海さんと結ばれることを夢と呼んだのは、誇張でもなんでもないんです」


 私を本心から「夢」と呼んでくれる。そんな凛音がどうしようもなく愛おしく感じられて、凛音に顔を近づけていく。凛音ははっとした表情になったけれど、長いまつげを揺らしながらそっと目を閉じた。


 私は凛音に口づけをした。大切に、包み込むように唇を重ね合わせる。


 舌を入れようかと思ったけれど、それは違う気がした。私は凛音を大切にしたい。爛れた関係にはなりたくない。凛音には「純粋」という言葉が誰よりもよく似合っている。


 触れ合うだけ。ただそれだけのキスだった。


 唇を離すと、凛音は物足りなさそうな顔をしていた。今度は凛音から私に口づけをしようとする。でもそのとき、炊飯器が音を立てた。私は体を引き、炊飯器に向かった。


 だけど後ろから凛音が抱き着いてくる。ただ抱きつかれただけなのに胸が嫌にうるさくて、これまでに経験したことがない感覚に動揺していると、凛音は耳元で囁いた。


「ご飯はしばらく蒸らしたほうがいいですよ。そうしたほうがおいしくなります」


「……分かった」


「カレーもまだ少し時間がかかると思うので、しばらくこうしててもいいですか?」

 

「……うん」


 凛音は私の後ろ髪に顔をうずめていた。


 私は顔を熱くしながら、後ろに全神経を集中させていた。熱い吐息が首に吹きかかってきて、なんだか体がむずむずしてくる。


 大丈夫なのかな。変な匂いしたりしてないよね? 病院ではお風呂入れなかったし、夏だし汗かいてるしで体臭とか、大丈夫かな……?


「ねぇ、変な匂いとかしてないかな?」


「大丈夫です。汗臭くて良い匂いです」


 かっと顔が熱くなる。


「り、凛音は本当に……」


 私は抵抗しようとするけれど、相変わらずのすごい力で微動だにできない。


 結局、私はカレーができるまで凛音の餌食になり続けるのだった。

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