ミュゲ書房 × 読書メーター ショートストーリー『ミュゲ書房―ある原稿をめぐって―』
オレンジ11
第1話 (本編のネタバレを含んでいます。本編を未読の方は、その点ご了承ください。)
「えっ、新作仕上げちゃったの⁉」
ついタメ口になる。作家として対応するときには、敬語で接しようと決めているにもかかわらず。呼び方は、今ではペンネームの方がしっくりきているのだが。
広川は笑った。
「夏休みで帰省したら、涼しいし食べ物はおいしいしで、創作意欲が盛り上がって。やっぱりいいですよね、A市。どの場所にいても、たいていは海が見えるし」
この町は、南北を山と海に挟まれた東西に細長い地形で、町全体が山から海に向かって緩やかに傾斜している。
かつては金融の町として栄えた名残だろうか、市内には古い洋館が点在し、ミュゲ書房は、そんな建物の一つを改築して作られた書店だ。数年前から、出版も手がけている。
「でも章さんからは、『次作の構想が浮かんだら一緒に企画から』って、言われてましたよね?」
「それはそうですけど。考えていたら書かずにいられなくなって。気付いたら完成してました」
さて、どうしたものか。
俺はとりあえず広川をサンルームに通し、モンブラン――A市にしか存在しないといわれている、栗のかけらも入っていない方のやつだ――とコーヒーを出した。そしてその場を離れ、章さんに電話をして指示を仰ぐ。
その結果。
「新作、私が担当させていただきます」
「なぜですか?」
テーブルを挟んで座る広川は、口に運ぼうとしていたフォークを止めた。
そうだよな、やっぱりそうくるよな。
この一年、章さんに編集業務を習ったとはいえ、俺が一人で作家に付くのは、今回が初めてだ。広川もこのことは知っている。きちんと理由を伝えた方がいいだろう。
「章さんは今、別の作家さんの編集をしていて」
書店主の仕事もあるので、基本的には、複数の原稿を同時進行しない。
「誰ですか?」
「――
一瞬躊躇したが、俺は答えた。後になってわかった時に、こじれそうだと思ったから。
「そうですか」
それから広川は黙々とモンブランを食べ、コーヒーを飲み、最後に言った。
「池田さんには申し訳ないんですが、この件については一度、章さんと話をさせてもらえますか。出張からの戻りは?」
「明日の午後です」
「では、ご連絡を頂けたら、また原稿を持って伺います」
「やっぱり俺だと不安?」
まずい、またタメ口。
「いいえ。
翌日の話し合いには、俺も同席した。
広川の言い分は、こうだ――なぜ蓼科萌のような作家のために章さんが自分の担当を外れるのか、納得がいかない。理由が蓼科萌なら、自分の作品を優先して欲しい。それにああいう本、ミュゲ書房では出さないと思っていた。
それまで黙って聞いていた章さんが、口を開いた。
「出すよ」
「どうしてですか?」
「様々なジャンルの本を作るのも、編集者の重要な役割だから」
「章さんは、もっとレベルの高い本を作りたいんだと思っていました」
「レベルの高低の話じゃない。方向性が違う、ということだ。実際、俺が
「……それは、読者に媚びている作風だからでしょう」
「そんなことはない。媚びるだけじゃ、売れない。売れたのは、あの本を求める読者がいたからだ。つまり、蓼科萌の作品が刺さる一定数の読者がいるということで、それは商業出版において、重要な要素だ」
章さんは一呼吸おいて、続けた。
「いろいろな作者がいて、作品があり、読者がいる。だから俺は、広川さんと蓼科さんの作品に優劣は付けない。たとえ広川さんが稀有な才能の持ち主だとしても」
エンタメ性と文学性を両立させ、しかもヒット作を出せる作家というのは、とても貴重だ。しかも若いとなればなおさらで、広川蒼汰は傑出している――とは、章さんがこれまで何度も俺に説いた持論で、つまり、広川蒼汰は天才だということだ。
だが章さんは今回、蓼科萌を優先した。編集のプロとしての判断だ。けれど俺は釈然としなかったし、こうして話を聞いていても、広川の反発は当然だと思える。
「――章さんのお考えはよくわかりました」
「わかってくれてよかった。じゃあ、担当編集は池田君で。俺も必要に応じて、手伝うから」
「いえ、この原稿の件はなかったことにしてください」
広川は、きっぱりと言った。
俺ならすぐに謝って担当変更を申し出るところだが、章さんは何も言わない。
外見こそ物静かな文学青年ふうだが、章さんには、広川とは違った性質の強さがある。
広川は、テーブル中央に置いてあった原稿――表紙には『
「その原稿、どうするんですか?」
思わずきいてしまう。
「
「――相葉さんとは、別の企画を進めてたんじゃ――」
その口調で、章さんが焦ったのがわかった。
目の前にあるベストセラーになる可能性の高い原稿をみすみす逃すどころか、他社に取られる。編集者として致命的なミス。
「喜んでくれるはずです」
傲岸不遜――広川蒼汰が持つ一面だ。
俺は思わずため息を漏らしてしまい、二人ともに
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