彼女たちは都合が好い!

維 黎

川田星奈は都合が好い!

 川田星奈かわたせいな都合与志とごうよしと初めて出会ったのは一年ほど前の高校二年の時。

 その日は雨が降っていた。

 朝の登校時間。最寄り駅へと向かう道中で星奈はにぃー、にぃーという鳴き声に気付いた。


(――猫?)


 を肩に載せ傘を斜めにして視界を広くとる。

 キョロキョロと周りを見回してみるが見当たらない。

 にぃー、にぃー、にぃー。


(――上?)


 見上げてみると、手毬てまりほどの大きさをしたモコモコの仔猫が街路樹の枝先にしがみついていた。

 仔猫にはよくあることで、登ったはいいが降りられなくなっているのだろう。

 雨に打たれている為か、恐怖の為か。ふるふると震えている。


(どうしよう……)


 それほど大きな街路樹ではないが星奈には登れそうにない。運動はあまり得意な方ではないから。加えて、雨に濡れた幹はよく滑りそうだ。


(誰か――)


 見回してみる。

 人通りはそれなりにあるが、みんな足早に通り過ぎていく。

 チラリと視線を向けて、星奈の様子から状況を理解した者も何人かはいただろうが足を止める者はいなかった。

 当然といえば当然だろう。

 朝の通勤通学の時間帯。電車に乗り遅れるような面倒ごとに首を突っ込むことなんて遠慮したい。ましてや雨が降っているのだから余計に足早にもなる。


(――猫ちゃん。どうしよう、誰か……)


 ふと視線を前方の別の街路樹に向けると、人波を避けるように根元にうずくまって、仔猫に視線を向けている大人の猫に星奈は気づいた。


(猫ちゃんのお母さんかな? 助けてあげたい)


 星奈は枝を見上げて濡れるのも構わず手を伸ばしてみるが、とても届かない。その場で思いっきりジャンプしたら枝を触るくらいならできそうだが、それで仔猫を助けられるわけでもない。


「――キミが飼ってる猫?」


 突然、星奈の背後、それも高い位置から声がした。


「――ッ!?」


 驚きに思わずビクッと背筋を伸ばして飛び上がる。


「あぁ、ごめん。驚かせちゃったね。ほんと、ごめん」


 振り向いた星奈は背の高いスーツ姿の男の人が、自分に

向かって頭を下げているのを目撃する。それが都合――都合与志とごうよしだった。


「あ、いえ! だ、大丈夫です。す、すいません」


 驚いた自分に対して謝罪している都合に向かって、つい反射的に星奈も謝り返してしまう。


「キミが謝る必要はないよ。急に声をかけた僕が全面的に悪いんだし」


 笑いを含んだ、それでいてそれ以上に優しさが感じられる声。

 星奈は小さく息を吐くと、改めて都合に向き直る。

 明るい紺色の上下スーツに身を包んだ様子からは20代半ばくらいに見える。

 見仰ぐという表現になるほどに、星奈と比較すると背が高い。それでいてひょろりとした印象はなく、どっしりとした雰囲気を感じさせる。特に筋肉質という印象は受けないのに。


「キミの猫?」


 都合はもう一度星奈に尋ねてくる。


「あ、いえ、違います。たぶん野良の猫ちゃんだと思います」

「ふ~ん、そっか。登って降りられなくなっちゃったのかな?」

「そうだと思います」

「う~ん。でも困ったね。助けてあげたとしてもその後どうするかだよね。こんな人通りの多いところに仔猫一匹放り出していいものかどうか。僕も会社に行かないといけないし、キミも……学校があるよね? 高校生かな?」

「はい、二年生です。あの……大丈夫だと思います。向こうに――」


 星奈はそういって街路樹の下の猫を指さした。


「あぁ、そっか。母猫かな。じゃぁ、大丈夫か――キミ、この傘持っててもらっていい?」


 都合は雨に濡れるのも構わず傘を畳むと星奈に差し出した。


「あ、はい」


 反射的に傘を受け取る星奈。


「――よッと!!」


 都合は軽く飛び上がって枝の根元に両手でぶら下がると、なるべく枝を揺らさないようゆっくり慎重に仔猫がいる枝先の方向へ手をずらしながら近寄っていく。

 星奈はその様子をハラハラとした気持ちで見守っていた。預かった傘の柄をギュッと握りしめて。


 仔猫までもう少しというところで都合は横に移動するのを止める。それ以上進むと枝が大きくしなり、仔猫が落ちてしまうかもしれない。

 仔猫は落ちない様にか恐怖からか、必死に枝にしがみついているようにも見える。


(――がんばってッ!!)


 星奈は心の中で声援を送る。都合と仔猫の両方に。

 彼はチラリと仔猫に視線を向けると、懸垂の要領で身体をグッと持ち上げて、一瞬右手を離して仔猫に手を伸ばす。

 すくい上げるように仔猫を掴むと――


「うわッ!!」

「――ッ!?」


 左手を自分のタイミングではなく、手が滑って離してしまった為にバランスを崩し、都合は濡れた歩道に背中から落ちてしまった。

 

「だ、大丈夫ですか!?」


 星奈は慌てて駆け寄ると雨に濡れないように傘をかざす。


「――う、うん。ちゃんと胸の前で抱えてたから仔猫は大丈夫」

「いえ、猫ちゃんもそうですけど……」


 心配したのはむしろ背中から落ちた都合の方なわけで。

「痛ててて」と顔をしかめながら立ち上がる様子は、大きな怪我はないようだが背中からお尻にかけてスーツが色濃く濡れていた。


「あの――。大丈夫ですか?」


 今度は彼にだけ向けた言葉。身体はともかくスーツは大丈夫そうには見えなかったけど、そう尋ねるしかない星奈。

 

「あははは。カッコ悪いなぁ、僕。ひゃー、冷て。とりあえずは――おいで」


 星奈にではなく様子を伺っていた母猫に向けて声をかけて手招きをする都合。


「――とりあえずそこの写真屋さんの軒下に移動しよっか。ここじゃ道路が近くて危険だしね」


 そういって彼は営業前のシャッターが下りてる写真店へ向けて、仔猫片手に歩き出す。仔猫は暴れる様子も見せず大人しい。母猫の方も理解したのか、人の流れの隙間をサッと駆けて来た。

 写真店の軒下で仔猫を降ろすと母猫が近寄って来て仔猫のにおいを嗅ぎ無事を確認するように仔猫を舐めた後、仔猫を伴って写真店と隣の建物の隙間に消えていった。


「あの背中を――」


 星奈はハンカチを取り出して都合の背中を拭こうとする。


「いや、いいよ、いいよ。ハンカチ、汚れちゃうし。こんなのそのうち乾くしね」

「いえ、そういう訳にはいきません。猫ちゃんを助けてくれたので、せめてこれくらいのお礼は」

「――そう? キミ、優しいんだね。じゃぁ、お言葉に甘えて。あ、でも簡単で良いよ。ほら、電車の時間もあるしね」

「はい。わかりました」


 星奈はそう返事をすると、後ろを向いてくれた都合の背中にハンカチを当てていく。

 父親とはまた違った大きく広い背中にドキドキと胸を高鳴らせながら。



※  ※  ※  ※  ※



 無性に。とても無性にその背中が恋しく、愛おしくなって触れたくなった。無意識に手が伸びて――。


「わっ!? な、何!!」


 突然の出来事に都合は驚きの声を上げた。行き交う周りの数人から視線を向けられる。


「――あ?」


 その叫び声で我に返る星奈。


「あわわわわ。そ、その! 虫! そ、そう、虫がついていたので!!」


 咄嗟にそれっぽい、いいわけをする。


「そ、そう? ありがとう」


 疑うことなく素直に礼を口にする都合にほっと胸を撫で下ろす。


(どうして急にこんな……。あ、ここって)


 四車線道路脇の街路樹。歩道を挟んで反対側には煌々と灯りをともす写真店。


「あれ? どうかした? 川田さん?」

「あ、いえ。ここって初めて都合さんと会った場所だったなぁって」

「あぁ、そっか。確か木に登った仔猫が降りれなくなってて」

「そうです。それで都合さんが猫ちゃんを助けてくれて。その時――あはっ! 都合さん、猫ちゃんを助けるためにぶら下がった枝から手を滑らせて落ちちゃって」


 思い出して思わず笑ってしまった星奈。もちろん、あの時は心配しかしなかったけれど。


「あー、思い出させないでよ、川田さん。僕、凄くかっこ悪かったんだから。本当はサッと仔猫を助けたかったんだけど。ほら、雨降ってたから手が滑っちゃったんだよね」

「大丈夫ですよー。すっごくカッコよかったですよ? 水も滴るいい男――みたいな?」

「ホントかなぁ?」


 滑って落ちたことにいいわけをする都合に、笑いながら冗談っぽくフォローする星奈。

 だけど。


(本当に。本当の本当にカッコよかったんですよ?)


 誰もが素通りしていく中で、ただ一人、都合だけが助けてくれた。仔猫を。そして星奈を。


「そういえばあの時のお礼もちゃんとしてなかったな。今日はまとめてお礼しちゃいます」


 先日の雨の日に本屋さんからマンションまで送ってくれたお礼と、ガスドの『はしっコぐらし てのりぬいぐるみセット・ガスド限定バージョン』が当たるキャンペーンの為に都合とガスドに食事に行く途中だった。


「え? あの時ってお礼に背中を拭いてくれたよ?」

「あんなのお礼の内に入りませんよー。だから今日は気にせず食べてくださいね! バイト代あるので奢っちゃいますから」

「いや、高校生の女の子に奢ってもらうわけには……」


 都合の言葉を無視して『早く、早く』と急かすようにその手を握って引っ張っていく。


 あの時。

 小さな仔猫を守ってくれたこの手を、今は自分が掴んでいることに嬉しさが込み上げてくる星奈だった。














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