夫のいいわけ

山本アヒコ

いいわけ

「いいわけをするな!」

 夫は妻の顔を平手打ちした。手加減などなく、大きな音とともに妻は床に倒れる。

「うう……」

「はやく夕飯をつくれ。まったく……こっちは疲れてるんだ」

 妻が床で頬を押さえて泣いているというのに、それを一顧だにせず歩いていく。まだ一歳にも満たない赤子が急に泣き出した。夫は顔を歪める。

「さっさと泣き止ませろっ」

「うっ……うう……」

 妻は口を手でふさぎながら泣き続ける。もしその声が夫に聞かれたならば、さらに怒鳴られ平手打ちではなく拳で殴られるからだ。


 こんなはずではなかった。妻がもう何千回と思ったことだった。

 夫は有名企業の社員で、見た目もよく優しい人だった。絶対に幸せになれると思い結婚したが、それは幻でしかなかった。

「ンギャー!」

「お願い……泣かないで……」

 深夜、泣き出した赤子を抱きながら、妻は自分が泣きたい気持ちだった。どれだけ抱いて揺らしても、背中や胸を優しくなでたり叩いても泣き止まない。

「うるさい!」

「やめてっ」

 夫が投げつけたプラスチックの小物入れが壁に当たり、中身をばらまく。少し位置がずれていれば妻に当たっていただろう。

「寝れないだろうが! 出ていけ!」

 首をうなだれると、床にばらまかれたオムツやお尻ふきなどの赤ちゃん用品が目に入り、ポトリと涙が床に落ちた。

 なんで。どうして。

 妻の頭のなかはそれしかなかった。

 三月とはいえ夜はまだ寒い。泣き続ける子を抱いて、妻は人のいない深夜の街を歩いていた。

 結婚した途端に夫は暴力を振るいはじめた。それでも子供ができれば変わると思っていた。それは勘違いでしかなかった。

 妻は毎日、理不尽なことで怒鳴られ殴られ、もう限界だった。

 吹いた風に海の香りがした。この街は海沿いにあり、いつの間にかか海を一望できる場所へやってきていた。

 ふらふらと妻は海の方へ足を進め、柵から下を覗きこめば街灯にわずかに照らされる真っ暗な揺れる海面があった。

 妻は子を抱えていない側の手で強く柵を握り体を持ち上げ、柵を跨ぐ。片足が柵の外へ出た。そこで一度動きが止まった。その顔は青白く、感情というものが消えていた。

 体が全て柵の向こう側となる。柵を握る片手だけで体を支えている状態だ。腕が寒さだけでなく震えている。そして……


「お前が娘を殺したんだー!」

「グフッ」

 告別式の最中、夫は妻の父親に刃物で腹を刺され死亡した。


    ■■■■■


「違うんです!」

「……では、いいわけを聞こうか?」

 粗末な服を着た夫は、顔中に脂汗を光らせながら必死に考える。

 彼の前には異様な者がいた。人の背丈を越える高さの台の上に座るのは、見上げるほどの巨体と赤い肌と額から二本のツノを生やした男。地獄にて罪人を裁く閻魔大王だ。

「私は悪くない! あれは妻が子供の世話で忙しいといいわけして、料理も掃除もしないから怒っただけなんだ!」

「黙れ。いいわけをするな。地獄で炎に焼かれろ」

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夫のいいわけ 山本アヒコ @lostoman916

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