step 5 あなた/君でなければ

scene 1 得意なこと

 九月の風が夏の熱気をすっかり押し流してしまったと気付いた頃には、もう十月が目の前に来ていた。夏の間中カトラの部屋を占拠していた色とりどりのハーブたちも、今はビンの中で大人しく眠っている。コモンタイム、ネトルの根、エルダー、リコリス、ダミアナ……。それらを寝かしつけた当の本人は、大仕事を完遂した疲れなど欠片も見せないで、半ば挑みかかるような口調で宣言した。


「あたし、働くわ」


 そのときベルはちょうどハーブティーを口に含んだところだった。ごっくん、と喉仏が大きく上下したのが、カトラにはいやにゆっくりと見えた。その間に心の中で、反対したって無駄よ、もう決めたんだもの、と続く言葉の練習をする。反対したって無駄よ……無駄、って言葉は強すぎるかしら? もっと柔らかい言葉がないかしら。そんなことを考えていたものだから、ベルが目元と口元を緩ませて、「いいね。もう働き先は決まってるのか?」と言ってきたときには、うっかり「は」だけが飛び出てしまった。


「あ……ええと……図書館よ。お掃除と、ちょっとした事務ね。ヴィルヌーヴによく来てくださるお客さんで、そこで働いてらした方がいるの。その方が今度引っ越すことになって、後任を探してらしたのよ」

「ちょうどよかったな」


 ベルの言うとおり、本当にちょうどよかったのだ。それがなかったら、適当な家政婦とか、内職とか、なんなら日雇いの掃除婦――賃金が低くて労働環境が悪いと有名な仕事――の組合にでも登録しているところだった。


「でも、どうして突然」

「元々あたしってここの家賃を払ってないの。ヴェロニカが、お店とかいろいろと手伝ってくれればそれでいい、って、そう言ってくれて。でも、ほら、カミーユが来たから、お手伝いはいらなくなったでしょう? だからきちんと払わなきゃって思って」


 嘘は言っていないが、これですべてというわけでもなかった。リカルドが置いていった革袋。あの中身に手をつけたくないのだ。あれに頼っている限り、自立したなんて口が裂けても言えない。


「なるほど、確かに」


 ベルの目尻がふわりと緩んだ。お昼の後だからか、少し眠たげだ。大きな手のひらの中にあくびを握り込んで、そのまま頬杖をついてこちらを見る。


「いつから?」

「来週から」

「毎日?」

「ううん。月曜日と水曜日と金曜日だけ」

「そうか。じゃあ、俺が休みだからって、うっかりここへ来ないように気をつけるよ」

「図書館に来てくれてもいいのよ」

「気が向いたらな」


 と、彼はやや伏し目がちになって言った。本を好むベルが図書館を好まないのは、人目があるからだろう。中心部、つまり軍警司令部にほど近いところにあるから、来やすいはずなのに。きっと気が向くことはないのだろうな、と思い、それがわずかに寂しいような気もして、カトラはちょっとだけ唇を引き結んだ。

 空になったティーカップの持ち手を、ベルの指の腹が所在なさげに擦っている。


「何もないと思うけど、もしも何か困ったことがあったら、すぐに言ってくれよ」

「困ったことって、たとえば?」


 軽い気持ちで聞き返すと、彼は重たげなまぶたを何度か開け閉めしてから、ようやく答えた。


「……悪い虫が近くを飛んでる、とか」

「あら、虫の相手なら得意よ。虫除けにいいハーブがあるの」

「ああ、君にはその手があったな」

「どうしようもなくなったら駆除をお願いするわ」

「できれば、どうしようもなくなる前にお願いしてほしいね」


 冗談めかした口調の奥に、真剣な心配の色があるのを見て、カトラはそっと彼の手を取った。その手は素直にティーカップを離して、カトラの両手に収まった。


「分かってるわ。大丈夫だから、安心して」

「うん」


 節くれ立った大きな手が、力加減を探るようにゆっくりと握り返してくる。彼の手はいつも温かくて優しい。お砂糖たっぷりのホットミルクを入れたマグカップみたいだ。こうやって触れているだけで、心まで温まっていくような気がする。


「眠たい?」

「少しだけ。久々の夜勤で……しかも戻ってきたら隣室の奴が、懐中時計をなくしたって騒いでてさ」

「探すのを手伝ったのね」

「いや、手伝ったのは掃除さ。あの荒れ方じゃあ空き巣が入っても分からないだろうな。結局見つからなかったし。ま、どうせ、脱ぎ散らかしてたズボンのポケットに入ってた、とかってオチだろうよ」


 そう言ってまたひとつあくび。

 いよいよ舟をこぎ始めた彼を微笑ましく思いながら、


(……なんだってあたしは反対されるつもりでいたのかしら)


 カトラは小首を傾げ、そっと手を離した。

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