ボトルメール
潜望鏡に映るのは水平線と大艦隊。鋭い舳先が波を切り、我が祖国へと舵を切る。巡洋艦が硬い守りで取り囲むのは航空母艦。広く平らな甲板に押し込まれている爆撃機、腹にはそいつの子供のような巨大な爆弾が下げられている。
航空母艦を沈めなければ、祖国が火の海に沈むのは明らかだった。
艦隊は進路を決めて、土手っ腹を露わにした。距離を測り、速度を計り、こちらの進路と作戦を図る。潜望鏡を手早く沈めて、俺は外界に別れを告げた。目の前にズラリと並ぶ計器だけを頼りにして、船を潜らせ舵を切り、スロットルレバーを限界まで押し下げる。
沈下と回頭を身体で感じ、覚悟を決める。
狙いは機関、命中すれば航空母艦は一瞬にして海の藻屑と消えるだろう。
しかし、この船に
人ひとりが何とか収まる操舵室、背後で唸りを上げるエンジン、視界を覆う計器類の向こう側に詰まった火薬。
そう、この船自体が魚雷なのだ。
日々悪化する戦局の、起死回生の切り札として敵国はもちろん我が祖国においても秘密裏に計画された、この作戦。知らされたのは、基地に配属された日のことだった。
上官が言う、君たちは国を救う神となるのだ、故郷に帰って祀られるのだ、と。
計器だけで目的地へ行く訓練を、数えきれないほど繰り返した。死ぬには惜しい技量だと、上官はみな嘆いていた。
行ってきます、そう上官に告げて乗り込むと、逃げ出さぬようハッチを溶接されてしまった。
絶望したと思ったか?
否、俺は国の希望だ。
たったひとつの生命を燃やして、幾百千の敵を沈め、幾千万の生命を守るのだ。愛する祖国を、愛する故郷を、そして……愛する
水面下の作戦は、誰にも知られてはならない。
基地から生きて帰ることなど、許されない。
別れを告げる手紙さえも、許されない。
貴女にさようならと言えなかったことだけが、これから閉ざす生涯の心残りとなってしまった。
ああ、愛する貴女よ。
今日も旋盤の音に耳をつんざかれ、流れる汗を一滴たりとも拭い去らず、白魚のような指を機械油に染めているのか。
取り囲まれた機械類の、たったひとつだけでもいい。貴女が組んだ部品があれば、俺は逝ける。
そうと信じて、俺は船の部品となった。見えぬ敵艦を睨みつけ、下がらないスロットルレバーを押し込んだ。
航空母艦に突き刺さるまであと十秒。さようなら、愛した
九。
八。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
……一が、来ない。
何故だ!? 何故、当たらない!?
俺の計算に狂いはない!
それなのに何故、俺は死ねないんだ!?
躊躇う間もなく、潜望鏡に身体を寄せて今生の別れを告げた外界を覗く。もし敵艦に見つかれば無人の魚雷を撃ち込まれ、俺は無駄死にするかも知れない。しかし、そんなことはどうでもいい。作戦に失敗したのだ、次の一手を打たなければ、俺は敵艦に命中しなければならないんだ。
映った景色は、外界ではない、天国でもない。俺にとっては地獄の淵そのものだった。
漠然と夢の世界を描いたような、わずかな光に輝いている細かな泡が、狭い視界を覆い尽くす。立ち上る
身体を捻り青い世界を見回すと、大艦隊の船底が小さくなって祖国へ消えた。
俺の計算に狂いはなかった!
計器だ、計器が狂っていやがった!
深度計か!? 速度計か!? コンパスか!?
畜生! 畜生! 畜生!
俺は生き恥を晒すのか!
狂った計器を狂ったように殴りつける。操舵室に血飛沫が舞い、計器類の硝子が弾け、用を成さない文字盤が飛んだ。
そのひとつ、文字盤の裏側に、びっしりと文字が書き込まれていた。俺はそれを拾い上げ、計器を照らした豆電球にかざし、目を凝らす。
私は、計器工場の女工です。愛する人が別れも告げずに去ったので、彼が所属する部隊について調べました。
そして私は、国家機密に触れてしまいました。
貴方は今、魚雷に乗っているですね。
わがままだと仰るでしょうが、私は愛する人の生命と引き換えに生きるなど、耐えられません。愛する祖国を守るため、愛する誰かを守るため、愛される誰かが失われるなど、耐えられません。
祖国が焦土となろうとも、敵国の手に落ちようとも、愛する人と手を携えて生きていければ、私は何度だって立ち直れます。
私が作った計器を載せたこの船に、愛する人が乗っているかはわかりませんが、誰かに愛された貴方はどうか、生きてください。
貴方が生きていられるために、計器を狂わせておきました。
機密を知った重罪に、更に罪を重ねた私を祖国は決して許さないでしょう。しかし貴方を生かすためなら、私の生命など惜しくはありません。
祖国に生きて帰ったら、花一輪を手向けてください。それで私は、ずっと笑っていられます。
だからどうか、貴方は生きていてください。
愕然として力を失い、目に映る景色は見えず、燃え盛っていた魂はどこかへ消えてしまった。
俺は、何のために戦っているのか。
俺は、誰のために戦っているのか。
俺は、誰のために生きて死ぬのか。
俺は丸い手紙を胸に仕舞って計器灯を消灯し、エンジンを止めてバラストタンクに海水を注ぎ、船ごと深海へと沈んでいった。
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