大理石の囁き

@taraxacum_vinum

第1話

上野は僕にとって東京の入口だった。僕が高校を卒業するまで暮らしていた栃木県の小さな町から電車に乗って東京に行くには上野を経由するのが常だったからだ。北関東から埼玉を突き抜けて首都へ至るいくつかの路線は上野駅で合流を果たす。出発地点は違っても行き着く先は一つ。そう、全ての道はローマではなくメガシティ東京へと続いているのだ。だから田舎を出てきてすっかり都会の絵の具に染ってしまった今でも僕は上野に対して特別な感情を覚えてしまう。




秋葉原で買い物を済ませた僕は台東に向けて歩身を進めていた。わざわざ電車に乗らなくても上野は電気街から目と鼻の先だ。良く晴れた日に散歩がてら上野まで歩いて行くという行為は僕にとって一つの帰巣本能みたいなものだ。十月の空はまだ秋か冬か決めかねているような顔つきで太陽の光をあらゆる事物に降り注いでいた。パーカーを羽織っているだけで寒さとは無縁でいられる気持ちの良い昼下がりだった。アメ横を冷かそうか、それとも不忍池でトノサマガエルでも眺めようかと考えていると数人の高校生が僕の脇を足早に抜き去っていった。そのグループは男女で構成されていて、大きなエナメルのスポーツバッグを肩にかけていたり、対照的に何も持ち合わせていなかったり、片手に地図を携えて何やら喧しく騒ぎ立てる子がいる良く見かける集団だった。制服に身を包んでいるから校外学習の集団だろうという僕の憶測は間違いでは無さそうだ。走り去っていく彼らを見送りながらふと自分にも彼らと同じくらいの年齢を生きたことがあったなと当たり前のことを思った。




上野駅と道路を挟んで反対側には3153というガラス張りの商業ビルが建っている。このビルは西郷隆盛の像を冠した上野の山の斜面に沿うような形で建てられているため、階段を上ると自然とその小さな山の頂へと辿り着く。僕は登り切った先から右に曲がって国立科学博物館へと足を進める。道の脇に植えられた樹木は天に向かって力強く伸びていて、その子葉は空を半分ほど覆い隠していた。そこから漏れる太陽の光は僕の身体をまだらに染める。それは光と影のコントラストだ。まるで南アメリカに生息する猛毒を持ったカラフルなトカゲのように僕を染め上げる。上野の山は元々は殆どが寛永寺の敷地だったが、明治に入ると文明開化の名のもとに広くその場所を政府に明け渡す必要に迫られた。そしてそこに芸術や学術の礎となる施設や学校が設立されたのだ。東京芸術大学の初代学長である岡倉天心は当洋風の衣装に身を包み馬に乗って学校まで通っていた。そういう時代が確かに過去に存在していたという事実について考えを巡らせるととても不思議な気持ちに包まれる。




意識が古い記憶の中に沈んでいく。他の人がどう感じているかは分からないけれど、僕にとっての記憶はいつも冷たいものだ。それはベーリング海やオホーツク海のような冷たさではない。特別な用事がなければ誰も近寄らない古い校舎のリノリウムの床に腰を下ろした時の冷たさに似ている。それも夏の暑い盛りに冷房が効いていないにも関わらず、どういう仕組みかひんやりとしているあの床の冷たさに似ているのだ。僕は少しずつかつての自分が過ごした時間の記憶の中に潜り込んでいく。記憶の層に積もった忘却の泥を平泳ぎの選手のように両手で掻き分けて深い場所へと潜っていくのだ。いや、もしかしたらそれは全く逆で僕は自分から記憶に向かってアプローチしているのではなく、一度足を踏み入れたら二度と戻ってこない底なし沼に引きずり込まれているだけなのかもしれない。いずれにせよ同じことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大理石の囁き @taraxacum_vinum

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る