cats in the room
yasuo
前編
正直この生活に退屈していた。今日もいつものようにいつもと同じ飯を食っている。目の前の味気ない白い箱には丸い蓋が付いていて、毎日同じ時間に蓋が開き、同じ量の同じ飯が吐き出される。薄茶色で丸くて平べったいそれを、適当に噛み砕きながら腹に流し込んでいく。まずくはないが同じものばっかり食っていると流石に飽きがくる。飽きはくるが食べる。空腹には勝てない。
白い箱は俺と同じくらいの大きさだが、俺と違って動かない。いつも黙ってただ俺を見下ろしている。箱といえばこの場所も箱のような感じだ。いくつかの箱が連なったような場所で、俺は暮らしている。箱の外に出ることはない。外には何があるかわからなくて怖い。だから退屈も甘んじて受け入れるしかないと納得していた。
人間が料理の入っているであろう皿をテーブルに運ぶ。食事の準備ができたようだ。人間がまたキッチンに向かった隙に、どれどれ、とテーブルに前足をかけて皿の中身を覗く。俺の飯と違って温かそうで彩りがある。それに、毎日同じではないことを知っていた。毎日どころか一日三回食べるうちの毎回だ。
こらこら、という声と共に俺の体が宙に浮く。人間が俺の腋の下を持ってどかしたのだ。優しい口調だった。別に飯を奪おうってわけじゃない。単なる興味本位だったのに失敬なやつだ。大人しく人間の後方にあるソファに登って体を寝かせる。もそもそと揺れる人間の背中を見つめる。実を言うと少し寂しかった。昔は人間がお皿に飯を入れてくれた。今、俺のお皿と人間のお皿には少し距離がある。食べる時間もほんの少しだがずれている。
この家には俺と、一人の人間しかいない。だから人間が出かけると、家には俺だけになる。人間は俺の言葉を理解できないから、引き留めることはできない。視線や声で訴えると、ひとしきり俺を撫で回してくるが、結局は出ていってしまう。察しの悪い生き物め。いってきます——嫌いな言葉だ。玄関の扉が閉まると、途端に静寂がこの箱の中を支配し、世界が変わったようになる。それが怖くて、不安に声を上げずにいられない。どこにいった?なぜ出ていくの?早く帰ってきて!ひとりにしないで!意味がないと分かっていても、この静寂をかき消したかった。声を出すのに疲れたら、諦めて眠る。眠っている間は、不安を感じなくて済むから。
玄関の鍵が開く音で目が覚める。いつもなら玄関に走り寄って、遅いぞ、何してた、と帰ってきた人間を叱責する。そして自分の体を人間の脚に擦り付けて外のにおいを上書きしたり、人間が持って帰ってきたものに危険なものがないかにおいを嗅いで確認する。そのように物理的に人間が帰ってきたことを確認することでやっと安心できるのだ。しかし今日は扉を開ける音に聞き慣れない音が混じっている。違う人間か……!?身を低くして警戒体勢をとる。どうする、今は俺ひとりだ。人間に助けてもらうことはできない。退屈はしていたが、怖いのは嫌だ。
隠れ場所の候補を頭に思い浮かべながら、陰から慎重に玄関を覗くと、俺の人間が見えた。思わず気が緩む。しかしまだ油断はできない。人間の後ろにもう一人、人間がいる。それに、俺の人間は両手にそれぞれ大きなカバンをぶら下げていた。カバンは箱のような形をしていて、俺がすっぽり入れそうな大きさ。もう一人の人間——俺の人間より声が高く、背は少し低い——も同じようなカバンを一つさげていて、人間たちは合わせて三つの箱を床に置いた。
のそり。人間がカバン側面のファスナーを開けると、中から現れたのは白と小麦色のもふもふとした毛に身を包んだ猫だった。警戒する様子もなくこちらに近づいてくる。やばい!俺は奥の部屋に駆け戻り、開きっぱなしになっている押し入れの上段、そこに積んである衣装ケースを駆け上がる。この押し入れ天井と衣装ケースの隙間はお気に入りの隠れ場所の一つだ。人間はあまり手を出してこないし、高いから部屋を見渡せる。やつの様子を伺うには打って付けである。
さっきのもふもふ猫と共に、俺の人間が俺を呼びながら部屋に入ってくる。両手にはまたさっきと同じ大きな箱を二つ抱えていて、それを部屋の隅に置いた。人間が俺に気付いて手を伸ばしてくる。やめろ。引きずり出すんじゃないぞ。その得体の知れないやつに近づきたくないのだ。後退りし、人間を拒否する。人間は諦める。
監視に戻ると大きな箱の片方から黒猫がヌッと姿を現した。他にもいたのか。箱は全部で三つあった。ということはもう一匹いるかもしれない。もう片方の箱を見つめるが、何かが出てくる気配はなかった。
もふ猫と黒猫は部屋をにおいを嗅ぎながら探索している。俺は自分の居場所が侵略されていくことにもやもやとした不安を感じた。いつも俺が歩いている場所。座っている場所。寝ている場所。しばらくすると黒猫は元いた箱に帰っていき、もふ猫はソファに身を落ち着かせた。そこは俺のお気に入りの場所なのに……。勿論、ここから出て行って追い払う勇気などなく、黙って見ているしかないのだった。
動きがなくなってからも部屋の監視は続いた。やつらが何なのかもわからない以上、警戒を解いて眠ることもできない。早く出て行ってくれないだろうか。もうすぐ飯の時間のはずだ。談笑していた人間二人が部屋からいなくなった。おそらく人間の飯を作りに行ったのだ。俺の飯を出してくれる白い箱は地上にある。飯を食べるには安全なここから抜け出して、地上に降りなければいけない。つまりやつらが居座っている間は俺は飯を食べられない。それはまずい。退屈な飯でも食べなければ死ぬのだ。
白い箱の蓋が開く。その時間が来てしまった。カラカラカラと音を立てて俺の飯が受け皿に吐き出される。ソファで寝ていたもふ猫は顔を上げ耳をピンと立てる。黒猫も顔を出した。やめろ、それは俺の飯だ、と心の中で呼びかける声が届くわけもない。甘えた声を出しながらもふ猫が軽快にソファを降りトットットっと白い箱に近づく。黒猫もゆっくりとしなやかな足取りで近づく。さらば俺の飯、と心が死にかけたそのとき、飯の受け皿が浮き上がる。俺の人間が持ち上げたのだ。やはり俺の人間は、俺の人間だな。あらかじめ想定して早めに動いてくれたらこんなにひやひやしなくてもっとよかったのだが、まあ及第点をやってもいいだろう。そのまま飯の皿をこちらに運んでくる。皿の行方につられてもふ猫と黒猫もこちらを見上げ、ついに俺の存在に気付いた。人間は皿を俺のいる衣装ケースの上に置いてくれるが、それどころではない。俺に気付いたやつらがどんな行動を取るか見張らなければならなかった。ここは逃げ場もない。登ってこられたら策もない。皿を置くついでに人間が手を伸ばしてくる。撫でられたいのはやまやまだが引きずり出されては困るので断腸の思いで身を引いた。身を引いたことで地上が見えなくなり、強烈な不安に襲われる。人間が手を引っ込めたので、やれやれと地上の監視を再開する。もふ猫と黒猫は別の皿で飯を与えられ、もうこちらを見ていなかった。黒猫が出てきた箱とは別の箱の前にも飯の入った皿が置かれていた。やはりもう一匹いるのだろうか。姿が見えないそいつに、そのまま出てこないでくれと願うのだった。
夜。やつらが寝静まったタイミングを見計らって用を足すために地上に降りる。俺も立派な大人だ。あいつらにビビって漏らすわけにいくまい。家主として舐められる失態は避けねば。
無事にコトを済ませトイレから出ると、見知らぬ猫に出くわした。月夜に光る真っ白い体。姿を見せなかったもう一匹がこいつであることを瞬時に理解した。俺たちはほとんど同じ動きで一定の距離を保ちながらすれ違う。途中、白猫は一瞬シューッと威嚇してきた。返そうと思ったが普段威嚇する機会などないので、うまく声が出せないまま、逃げ道が見えたので一目散に走った。元いた場所——押し入れ上段の天井と衣装ケースの隙間——で監視体勢に戻ると、白猫の姿はなかった。幽霊ではなかったはずだが……。
翌日、いずれかの猫が漏らしたらしく、人間が後始末をしていた。
数日が過ぎたが、やつらは一向に去る気配がない。俺はトイレのとき以外はずっとこの押し入れの隙間で監視に勤しんでいた。飯を人間が運んでくるようになったのはとても気分がよかったが、ずっとここで監視している退屈さでプラマイゼロである。
一方でやつらときたら来たばかりのくせに随分と気ままに過ごすようになっていた。もふ猫は特にマイペースでまるで警戒心がない。前からここに住んでいましたみたいな顔で、部屋の中をのんびり散歩している様子がよく見られる。ソファを気に入ったらしく、我が物顔でベッドにして、たまに爪を研ごうとして俺の人間に退けられている。そのソファは俺のお気に入りだし、人間も大事にしているようなので俺はそこで爪を研がない。もふ猫は一番何を考えているかわからない雰囲気があって、俺は気が気ではなかった。
黒猫は凛としていてあまりうろうろとすることはないが、時折俺の人間に色目を使ってベタベタしている。体を人間の手や脚に擦り付け、目の前でお腹を見せるようにごろんと寝転がる。くねくねしやがって。俺の人間なのに。ちなみに俺の人間は基本的にずっと家にいるが、こないだ猫どもと一緒にやってきた小さい人間は日中はいないようだった。こいつらもいなくなればいいのに。厄介なもの置いていくんじゃないよ全く。
白猫は最初はほとんど姿を見せなかったが、段々と出てくるようになっていた。黒猫と一緒にいることが多い。というより白猫が黒猫にべったりくっついている感じだ。三匹の中で最も幼い印象がある。黒猫が寝ているところに覆いかぶさるように体を重ねにいく。一人で過ごせない臆病者め。しかし黒猫は鬱陶しそうな顔をしつつも、逃げることなく受け入れるのだった。
白猫と黒猫のそんな様子を見て、猫と身を寄せ合うってどんな感じだろう、と思った。ずっと一人と一匹で生きてきた俺は他の生き物を知らない。他の猫と触れ合うどころか、俺の人間に対しても普段は遠慮しているのだ。あいつらは自由気ままで、仲間がいて、他人の家でくつろいでる。俺は自分の家なのに、こんな隅っこの隙間でじっとしている。確かにここは安全で安心だが、監視を続けてあの猫たちがそれほど脅威でないことはわかってきたし、もうここでただ退屈に気ままなあいつらを眺めている時間が馬鹿馬鹿しく思えてきた。さっきは一人でいられない白猫を臆病者だと思ったけど、一人でいるしかない俺の方が臆病みたい。俺は意を決して衣装ケースを降りた。
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