金環

@taraxacum_vinum

第1話

ある夏の暑い昼下がりのことだ。私は田舎の地元の駅から上野へ向かう電車を待つ時間潰しと腹の虫を黙らせる二つの目的のために立ち食い蕎麦を食べることに決めていた。今では滅法見かけなくなった駅の生そば屋は学生時代に良く利用していたという思い入れもあり、老舗の名店で味わう蕎麦とはまた違った喜びを私に与えてくれるものである。クーラーなんて気の利いたものはなく、外の空気とは別段遮断されているわけでもない駅のホームに建てられたこぢんまりとした店舗から熱が立ち昇っていた。




「おばちゃん。天ぷら蕎麦を一杯。温かいつゆで」




と、私がいつも通りに注文をすると




「ごめんなさいね。券売機になったのよ」




と言われて一寸拍子抜けする。一見しただけでは気づかないところにも機械化、変化の波は押し寄せていて、私の注意が散漫なだけで何も変わっていないと思っているこんな田舎町にも変化の波は押し寄せてきているのかもしれない。私がカウンターに備え付けの券売機に硬貨を投入する前におばちゃんはぐつぐつと音を立てる鍋に蕎麦を投下させる。こんなところだけ機械科させるならおばちゃんの労働環境を改善する方が先だと思うのは私だけだろうか。硬貨と引き換えに券売機からペラペラの薄紙が吐き出された。「天ぷら」とだけ印字された紙をカウンターの上に置くと店内にある唯一の冷房器具である扇風機の送り出す生温い風で飛ばされそうになる。もう少しでホームまで飛ばされるのではないかと思った瞬間、おばちゃんは絶妙なタイミングで水を注いだコップを使って挟んで押さえ込んだ。その時、手元にきらりと何か光るものが目に止まった。ただ、それに対する興味よりも夏の暑さが打ち勝った。私には額から流れる落ちる汗をハンカチで拭いながらただただ完成を待ちわびることしかできない。




「はい。お待たせ」




今の時期は冷たい蕎麦も販売しているにも関わらず、わざわざ熱い蕎麦を注文するのには理由がある。この店の名物であるかきあげは器を覆わんばかりの大きさで、厚さもあり熱々のつゆと相性が抜群なのだ。揚げたてではなく、作り置きであるがゆえにしっとりとした小エビと玉ねぎのかき揚げを箸でゆっくりとつゆに馴染ませることで、口当たりの柔らかい食感へと変化を遂げるのである。ほぐれたかき揚げと蕎麦を交互に口へと箸で運ぶ。途中で味に変化をつけるために卓上の七味に手を伸ばした時にふと視界に黄金の塊が目に入った。




「ああ、これかい」




おばちゃんは幼い子供が大切にしているお気に入りのおもちゃでも自慢するような顔つきで言った。




「昔、大切な人に貰った金の指輪なのよ。余裕ができたから漸く質屋から取り戻してきたのよ」




湯気の昇る鍋の上から手を差し出してみせた。それは金の指輪だった。まるで居心地の良い寝床を見つけた猫のようにしっくりと左手の薬指にはまっている。彼女は指輪を愛おしそうに右手で撫でている。本物の金で出来ている証拠だろう。刻まれた模様と経年による傷の区別を私には判別することができない。




「旦那さんに貰ったものなんですか?」




私がさも当たり前のように、それこそ肯定の確認のつもりで投げかけた問だったが、それはあっさりと否定された。




「違うのよ。ほら冷めちゃうから食べなさいな」




そう促されて一度は手を止めていた蕎麦に再び手を付ける。七味をふりかけると風味が一新されて食欲が刺激された。そうして私が蕎麦に夢中になっているとおばちゃんはぽつぽつと語り出した。




「旦那とは違う人なんだけど、好きだった人がくれたのよ。私は金なんて派手で好きじゃないって言ったのよ。そうしたらあの人ったら、金は株と違って紙切れにならない。だから一番なんだって無理やり押し付けたの。指のサイズも全然合ってなかったのよ。それが今はぴったりなんですもん。因果なものよね」




口調こそ貶している様に感じられるが、その顔に佇んでいるのは幸せな思い出を反芻するそれである。私はつゆを飲み干す。自分の細胞になるもの、作ってくれた人への感謝の気持ちを込めて。




「いつもはめてるわけにはいかないし、まさか捨てるわけにもいかないから大切にそっとしまって置いたのよ。そうしたら旦那が病気で倒れて急に帰らぬ人になっちゃってね。娘を二人育てるのにどうしてもお金が必要になっちゃってね。それで質に入れてたのよ」




そう言いながらよく冷えた水の注がれたコップをカウンターに置いた。




「だからこれにはとてもお世話になったのよ。その分取り戻すのにもずいぶん苦労したけどね」




私はなみなみと注がれた水を黙って飲み干した。夏の青空みたいに気持ちの良い水だった。食べ終えた碗をおばちゃんに渡すと




「つまんない話を聞かせちゃってごめんね。またこっちに帰ってくることがあったら寄ってちょうだい」




と笑顔で私を見送ってくれた。再会を約束して挨拶を済ませるとキィキィとブレーキの音を立てながらホームに上り列車が停った。扉が開いた瞬間に車内から冷たい空気が溢れだし、外の温度と混ざりあった人工的な風を作り出した。乗り込んだ車内は必要以上に冷房が効いていて少し肌寒さを感じさせる程だった。時間帯のせいかほとんど人は乗っていなかったため、僕は3人掛けの席に一人で腰を下ろした。




扉が閉まって電車が走り出すと、私はズボンのポケットに右手を入れてそこにある物の形を指先で確かめた。そこにあるのは質に入れるつもりで実家からくすねてきた亡き母の婚約指輪だった。指輪容れから抜いて持ち出したせいで裸のままポケットに入っていた。私は指輪を取り出してリングに嵌った赤い光を放つ小さな宝石を撫で、そっとポケットの中に戻した。




今でも蕎麦を食べるときには必ずこの夏の日を思い出す。私は小指にはめたルビーの指輪をそっと撫でた。

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