終身名誉探偵の高尚

「それじゃ、先生はここで待ってるから」

「ありがとうございます。 三十分くらいで戻ってきますので、それじゃあ失礼します」


 一通り会話を交わすと、私の所属する写真部の顧問は職員室に引っ込んだ。


「……っと。 自転車置き場側入口と、正面玄関右端の解錠……であってるかな」


 異界見聞録の複製が完成してから二日後、自体は着実に動き始めていた。

 植野楼や奥野刑事らに気づかれぬよう事を運ぶのは骨が折れたが、私の胸中は非日常への期待感でいっぱいだ。


『扉の鍵、開けましたよ』

『あぁ。 今行く』


 宿直に見つかると面倒なので、下駄箱越しに背伸びをして見張っていると後ろから彼に肩を叩かれた。


「ご苦労だな」

「これくらいならお易い御用ですよ。 でも、ほんとにくるんですか?」

「あぁ。 奴は必ずくる。 異界見聞録はそれだけ価値のある本なんだ」


 美波律子の死亡から一週間が経とうとしている今、なんのアクションも起こさない犯人に対し弥陀羅修二のとった作戦は「陽動作戦」だった。


「本来、自殺願望者の間だけでひっそりと受け継がれるはずだった異界見聞録が、美波律子の代で不都合があった。 彼女が本を渡し忘れたのか、それとも犯人が回収に来れない理由があったのか…………どちらにせよ、本を持っているこちらが優位に立てていることに違いはない」


 まず断っておくことだが、私と弥陀羅修二に犯人を捕まえようとする意思は僅かしかない。

 重要なのは異界見聞録の真実を暴くことにあり、それまでに犯人と敵対関係になることは好ましくなかった。


「まだ十分時間がある。 ……作戦の最終確認と、簡単な種明かしをするか」


 陽動作戦の始まりは一日前。

 異界見聞録の複製が完成してすぐ、植野楼の連続失踪事件を扱った動画のコメント欄にある一文を書き込んだ。


【異界見聞録は二冊ある】


 たったそれだけの言葉に、SNSのリンクを貼って様子を見た。


「結果は大成功。 すぐに犯人と思しき人物から接触があった」


 表向きでは金銭と交換するていで、受け渡しの指定をした。

 時間は夜の十時。

 場所は学校。

 金額は不自然じゃないように強気の三十万だ。


「で、日隈沙織。 お前には夜の学校に入るための下準備をしてもらったわけだ」

「それは分かりますけど……学校である必要、無くないですか?」


 屋上までの階段を上る彼の額には汗が浮かんでいる。

 古尾山の時もそうだが、腕力で彼に期待は持てなさそうだ。


「まず大前提に人目につかないところ。 次にお前の身に危険が及んだ…………つまり犯人が異界見聞録を力づくで奪おうとした場合、いずれ証拠が発見される場所。 それらに合致するのが学校だった」

「なるほど。 …………戦って負けるのは前提なんですね」

「悪いがそうなるな」


 三階まで登りきったところで、私は宿直室へ挨拶をしに向かうため弥陀羅と別れた。


「写真部も大変だね。 邪魔はしないから、ゆっくり撮っておいで」

「はい。 ありがとうございます」


 嘘をつくことに大した罪悪感はない。

 それよりも来るべき決戦の時を待ちわびて、私の心は異界見聞録の虜になっているのだ。

 もし夜の学校で殺人事件が起こればこの宿直の男も職を失う事になるだろうが、こっちは貴重な高校生活がかかっている。

 是非ともご理解頂きたい。


 屋上に着くと、弥陀羅修二が柵越しに自転車置き場を見張っていた。


「写真、撮らなくていいのか? 写真部なんだろ」

「霊部員だって言ったじゃないですか。 …………ま、後で顧問に見せるんで撮りますけど」


 入部時に買った安物の一眼レフカメラを空に構え、名前も分からない星座を映してシャッターを押す。

 その後もそれっぽい夜景を撮影しながら十時を待った。

「日隈沙織」


 そろそろ約束の時刻が近づいてきたとき、所定の場所に付いた弥陀羅が言った。


「…………あんまり、俺に期待するなよ」


「期待?」


 その真意を問う前に、扉の奥から靴音が響く。


 異界見聞録という呪いにも似た書物を行使し、間接的に八重原鈴音や竜崎小百合を葬った張本人が、板一枚を挟んですぐ側に立っているのだ。

 緊張しないはずがなかった。


(異界見聞録の複製は手元にある。 聞き出すべきこともちゃんと頭でリストアップできる。 あとは相手次第だ)


 普段は気にもとめなかったであろう鍵穴の回転が、風車のように遅くもどかしく感じる。

 実際は扉が開いて奴が姿を現すまでに、瞳が乾くほどの間もなかった。


 黒のロングコートに黒のブーツ。

 何から何まで黒色のコーディネートが、闇夜の華麗な月景色に溶け込んで、保護色のようだ。


「顔、見せてくれませんか」


「本はどこだ」


 男の顔は白い仮面で覆い隠されていた。

 それにより顔が確認できず、声もくぐもって聞こえる。

 知っている人物だとしても気づくことは出来ないほどだ。


「…………正体を明かす気は無いんですね。 まぁ、いいですけど」


 私は学生鞄から白の異界見聞録を取り出した。


「ただ本を受け渡すだけなら駅前のコインロッカーで事足りる。 なのにわざわざ手渡しを選んだってことは、どういうことか分かります?」


 まず、犯人にとって異界見聞録の複製がどれほどの価値のものかを確かめる必要があった。

 判断材料はわかりやすい。 提示した金額三十万円を持ってきているかどうか、それでこちらの出方も変わってくる。


「動機が知りたいんですよ。 なぜ異界見聞録を作ったのか、なぜ三十年もの間存在をひた隠しにしてきたのか、それが重要です」

「…………」


 男は答えるかわりに、コートの裏から茶封筒を出して言った。


「作ったのか、その本は」


「ええ、知り合いが三日三晩でやってくれました」


 向こうは話し合いに応じる気はないらしい。

 当たりをしきりに見回しては袖をまくって、時間を確認していた。


 だが、まだ想定の範囲内。


「本と金を交換するだけだ」

「そうはいきません」


 私はライターを取り出す。

 男が一歩、前に踏み出したのを牽制するため、声を大きく宣言した。


「黒の異界見聞録に貼ってあった死体写真、どうせどこかにまとめて保存でもしてあるんじゃないんですか? 文字と比べて、写真はいくらでも現像できますしね」


 もとよりライターの中にオイルは入っていない。

 万が一手違いで燃やすことがあれば、損をするのは私たちの方だからだ。


「だけど、文字の方はどうでしょう? 三十年培ってきた、人々の苦痛の叫びを、異界見聞録は全て受け止めてきたんです。 こんな目的の中間点で終わりなんて……死んでいった人からすると無念でしょうね」


「…………」


 すると男は観念したのか、ゆっくりと語り始めた。

 異界見聞録の始まりと全ての思惑を。

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